高瀬川沿いの蕎麦屋で軽く夕食を済ませて、少し時間があったので、京都の夜の賑わいを見るために、散策に出た。
小学校を卒業したばかりの孫にとっては、良いのか悪いのか分からなかったが、何事も勉強と思って、私の独断と偏見で、コースを決めた。
高瀬川通りから先斗町に入って、先斗町を南に河原町通りまで歩く。河原町通りを左折れして四条大橋を渡って、南座の前を通り過ぎて、お茶屋一力亭の手前を右に折れて、花見小路を南に下って建仁寺の手前まで歩いて夜の祇園の雰囲気を見る。と言うルートである。
この口絵写真は、四条大橋からライトアップされた南座を臨んだ景色だが、いつ行っても、このあたりは雑踏で、四条通は観光客でごった返している。
しかし、京都の人々にとっては、生活圏と言うか商圏が変わってしまったのか、四条河原町の角の阪急百貨店が店じまいして丸井に代わっており、このあたりの商売の賑わいは、京都駅の伊勢丹などに完全に取って代わられてしまった感じである。
私の学生時代には、まだ、阪急は四条大宮までで、そこから市電に乗って八坂神社前で東大路を北上して東一条まで通っていたのだが、殆ど、今も、風景は変わっていないのに驚く。
先斗町は、道幅が二間あるかないかの狭い路地で、昔は、お茶屋と言う表札がかかって舞妓さんや芸妓さんの名前が書かれた表札が横に並んでいた古風な佇まいの家が軒を並べていた感じであった。
しかし、今は、殆ど消えてしまって、料亭やスタンド、飲食店酒場に変わってしまったような気がするのだが、流石に先斗町で、あっちこっちにある下卑た歓楽街と言った雰囲気ではなくて、夫々の店の外観は、工夫を凝らしてかなり凝っていて雰囲気があり、外人観光客も多くて、賑わっている。
前に、一度だけ、この先斗町の喫茶店でコーヒーを楽しんだことがあるのだが、何故か、学生の頃に、河原町で、クラシック喫茶でモーツアルトなどを聞いたのを思い出して無性に懐かしくなった。
新入荷のレコードと言う訳で、玄関脇にレコードのジャケットが飾られていたのだが、あの頃、また、歌声喫茶と言うのが流行っていて、そこに行って、皆と合唱するのを楽しみにしていた友がいた。
四条の河原町は、出雲の御国が、歌舞伎を起こした故地でもあり、南座の斜向かいの角に、御国の銅像が立っている。
私は、まだ、南座で観劇したことがないのだが、12月の顔見世興行の時は、京都の着倒れと言うくらいに、京都美人たちが着飾って集うと言うのであるから、大変、華やかな社交舞台が展開されるのであろう。
大学への行きかえりに、南座前の賑わいを見ていたので、何となく雰囲気が分かる。
しかし、大阪もそうだが、この京都も、歌舞伎人口が減ってしまって、折角の劇場も、一年の内、ほんの2~3か月くらいしか、歌舞伎が上演されなくて、殆ど他の演劇などを上演しているようである。
文楽は、まだ、本拠を大阪に残しているが、歌舞伎は、完全に下ってしまった。
南座から八坂神社までの四条通は、両側には、沢山の土産物店や飲食店が軒を並べていて、観光客の賑わいは、四条河原町よりも、ここの方がはるかに多いようである。
私には、全く興味のない世界なのだが、小奇麗な店が並んでいて、面白そうである。
途中、おはぎの丹波屋と言う屋台のような雰囲気の店で、桜餅とおはぎを買って帰ったのだが、これが、実に美味しくて、それも、たったの120円だと言うのだから泣かせる。
以前に、キューガーデンに住んでいた時に、メイド・オブ・オナーズと言う店の独特のスコーンが好きで通い詰めた記憶があるのだが、丹波屋が近くにあれば、いつでも行きたいと思っている。
京都で面白いのは、漬物屋さんが結構人気があって大きな店を構えている。
家では、大安の千枚漬でないとと言うのだが、どこの漬物も結構いけるのだが、血圧の高い私には、漬物とは縁が遠くなった。
さて、花見小路の一力だが、仮名手本忠臣蔵で大星由良助が活躍する七段目が有名であるが、実際に大石内蔵助が遊んだのは、伏見の撞木町だったようである。
しかし、歌舞伎の舞台としては、この一力は格好の場で、その門前に立つと、何となく歴史上の大舞台を感じさせる風格がある。
舞妓さんが出て来ないかと門前で待つ観光客もあるようだが、この一力から都おどりが行われる祇園甲部歌舞練場手前までの花街で、タイミングが良ければ舞妓さんの姿を見ることが出来るののだけれど、私も、1~2回しかチャンスがなかった。
一度、都おどりの実に華やかな舞台を見たことがあるのだが、舞妓さんを見るには、これが本筋かも知れないと思っている。
ところで、私は、海外からの要人の接待で、2度ばかり、祇園で舞妓さんを呼んで接客を受けて舞を見たことがある。
随分前の話なので、殆ど記憶に残っていないのだが、お茶屋さんの手配で、立派な料亭の御座敷に、舞妓さんが来てくれて、酌をしたり舞を舞って見せてくれたりした。
外人客が興味を持って変な質問をするので、仕方なく無理を承知で通訳をしていたのだが、お蔭で、色々な裏話を聞くことが出来て面白かった。
今では、全国から舞妓さんを募集しているようだが、当時は、京都人に限られていると言うことであったが、やはり、京言葉や文化的伝統を重んじていたのであろう。
興味深いのは、タイミングよく、料理が運ばれてくることで、これは、仕出しの料理屋から、頃を見計らって運ばれてくるようで、京都のこの舞妓さんや芸妓さんを交えた接客システムは、場所を提供する料亭と舞妓さんを抱えているお茶屋と仕出し料理屋との絶妙な三業のコラボレーションによると言うことで、文楽の三業共演とも甲乙付け難い、正に、感嘆すべき京文化である。
それに、信頼関係で総てが成り立っているこのビジネスでは、徹頭徹尾、一元さんお断りで通しているのも当然であると思う。
ところで、この時、分かったのは、舞妓さんや芸妓さんは、毎日が修業修行の連続で、大変な職業レディであると言うことであった。
勿論、家庭を持って両立させるなどと言うのはあり得ない話のようで、芸を磨きあげる厳しさは、並の芸人の世界の比ではないと言うことである。
しかし、一歩仕事から離れると、極普通のヤングレディで、ハワイ旅行の楽しさを相好を崩して語っていた。
さて、孫には、忠臣蔵と大石内蔵助の話程度はしたが、その他は何も話さなかったので、このショート・ナイト・ツアーをどう思ったか分からないが、この夜の祇園の花街を、子供連れの観光客が結構いたので、ほっとしている。
小学校を卒業したばかりの孫にとっては、良いのか悪いのか分からなかったが、何事も勉強と思って、私の独断と偏見で、コースを決めた。
高瀬川通りから先斗町に入って、先斗町を南に河原町通りまで歩く。河原町通りを左折れして四条大橋を渡って、南座の前を通り過ぎて、お茶屋一力亭の手前を右に折れて、花見小路を南に下って建仁寺の手前まで歩いて夜の祇園の雰囲気を見る。と言うルートである。
この口絵写真は、四条大橋からライトアップされた南座を臨んだ景色だが、いつ行っても、このあたりは雑踏で、四条通は観光客でごった返している。
しかし、京都の人々にとっては、生活圏と言うか商圏が変わってしまったのか、四条河原町の角の阪急百貨店が店じまいして丸井に代わっており、このあたりの商売の賑わいは、京都駅の伊勢丹などに完全に取って代わられてしまった感じである。
私の学生時代には、まだ、阪急は四条大宮までで、そこから市電に乗って八坂神社前で東大路を北上して東一条まで通っていたのだが、殆ど、今も、風景は変わっていないのに驚く。
先斗町は、道幅が二間あるかないかの狭い路地で、昔は、お茶屋と言う表札がかかって舞妓さんや芸妓さんの名前が書かれた表札が横に並んでいた古風な佇まいの家が軒を並べていた感じであった。
しかし、今は、殆ど消えてしまって、料亭やスタンド、飲食店酒場に変わってしまったような気がするのだが、流石に先斗町で、あっちこっちにある下卑た歓楽街と言った雰囲気ではなくて、夫々の店の外観は、工夫を凝らしてかなり凝っていて雰囲気があり、外人観光客も多くて、賑わっている。
前に、一度だけ、この先斗町の喫茶店でコーヒーを楽しんだことがあるのだが、何故か、学生の頃に、河原町で、クラシック喫茶でモーツアルトなどを聞いたのを思い出して無性に懐かしくなった。
新入荷のレコードと言う訳で、玄関脇にレコードのジャケットが飾られていたのだが、あの頃、また、歌声喫茶と言うのが流行っていて、そこに行って、皆と合唱するのを楽しみにしていた友がいた。
四条の河原町は、出雲の御国が、歌舞伎を起こした故地でもあり、南座の斜向かいの角に、御国の銅像が立っている。
私は、まだ、南座で観劇したことがないのだが、12月の顔見世興行の時は、京都の着倒れと言うくらいに、京都美人たちが着飾って集うと言うのであるから、大変、華やかな社交舞台が展開されるのであろう。
大学への行きかえりに、南座前の賑わいを見ていたので、何となく雰囲気が分かる。
しかし、大阪もそうだが、この京都も、歌舞伎人口が減ってしまって、折角の劇場も、一年の内、ほんの2~3か月くらいしか、歌舞伎が上演されなくて、殆ど他の演劇などを上演しているようである。
文楽は、まだ、本拠を大阪に残しているが、歌舞伎は、完全に下ってしまった。
南座から八坂神社までの四条通は、両側には、沢山の土産物店や飲食店が軒を並べていて、観光客の賑わいは、四条河原町よりも、ここの方がはるかに多いようである。
私には、全く興味のない世界なのだが、小奇麗な店が並んでいて、面白そうである。
途中、おはぎの丹波屋と言う屋台のような雰囲気の店で、桜餅とおはぎを買って帰ったのだが、これが、実に美味しくて、それも、たったの120円だと言うのだから泣かせる。
以前に、キューガーデンに住んでいた時に、メイド・オブ・オナーズと言う店の独特のスコーンが好きで通い詰めた記憶があるのだが、丹波屋が近くにあれば、いつでも行きたいと思っている。
京都で面白いのは、漬物屋さんが結構人気があって大きな店を構えている。
家では、大安の千枚漬でないとと言うのだが、どこの漬物も結構いけるのだが、血圧の高い私には、漬物とは縁が遠くなった。
さて、花見小路の一力だが、仮名手本忠臣蔵で大星由良助が活躍する七段目が有名であるが、実際に大石内蔵助が遊んだのは、伏見の撞木町だったようである。
しかし、歌舞伎の舞台としては、この一力は格好の場で、その門前に立つと、何となく歴史上の大舞台を感じさせる風格がある。
舞妓さんが出て来ないかと門前で待つ観光客もあるようだが、この一力から都おどりが行われる祇園甲部歌舞練場手前までの花街で、タイミングが良ければ舞妓さんの姿を見ることが出来るののだけれど、私も、1~2回しかチャンスがなかった。
一度、都おどりの実に華やかな舞台を見たことがあるのだが、舞妓さんを見るには、これが本筋かも知れないと思っている。
ところで、私は、海外からの要人の接待で、2度ばかり、祇園で舞妓さんを呼んで接客を受けて舞を見たことがある。
随分前の話なので、殆ど記憶に残っていないのだが、お茶屋さんの手配で、立派な料亭の御座敷に、舞妓さんが来てくれて、酌をしたり舞を舞って見せてくれたりした。
外人客が興味を持って変な質問をするので、仕方なく無理を承知で通訳をしていたのだが、お蔭で、色々な裏話を聞くことが出来て面白かった。
今では、全国から舞妓さんを募集しているようだが、当時は、京都人に限られていると言うことであったが、やはり、京言葉や文化的伝統を重んじていたのであろう。
興味深いのは、タイミングよく、料理が運ばれてくることで、これは、仕出しの料理屋から、頃を見計らって運ばれてくるようで、京都のこの舞妓さんや芸妓さんを交えた接客システムは、場所を提供する料亭と舞妓さんを抱えているお茶屋と仕出し料理屋との絶妙な三業のコラボレーションによると言うことで、文楽の三業共演とも甲乙付け難い、正に、感嘆すべき京文化である。
それに、信頼関係で総てが成り立っているこのビジネスでは、徹頭徹尾、一元さんお断りで通しているのも当然であると思う。
ところで、この時、分かったのは、舞妓さんや芸妓さんは、毎日が修業修行の連続で、大変な職業レディであると言うことであった。
勿論、家庭を持って両立させるなどと言うのはあり得ない話のようで、芸を磨きあげる厳しさは、並の芸人の世界の比ではないと言うことである。
しかし、一歩仕事から離れると、極普通のヤングレディで、ハワイ旅行の楽しさを相好を崩して語っていた。
さて、孫には、忠臣蔵と大石内蔵助の話程度はしたが、その他は何も話さなかったので、このショート・ナイト・ツアーをどう思ったか分からないが、この夜の祇園の花街を、子供連れの観光客が結構いたので、ほっとしている。