熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

三月花形歌舞伎・・・染五郎の「一條大蔵譚」

2013年03月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先月に引き続いて、怪我から回復した染五郎の晴れ舞台が、今月の歌舞伎の夜の部のプログラムである。
   満を持して染五郎が初役を演じるのは、「一條大蔵譚」の作り阿呆の一條大蔵卿。
   叔父吉右衛門の当たり役であるこの役を、薫陶を受けているとは言え、吉右衛門の向こうを張っての登場であるから、大変だったと思う。
   それなりに様にはなっていたが、如何せん、推敲に推敲を重ねて芸を磨きぬいて来た吉右衛門と比較するのも何だが、溌剌とした颯爽たる舞台ではあったが、やはり、荷が重いのか精神性にやや欠けた、どこか、さらりとした綺麗な舞台に終わってしまった感じである。
   尤も、初演としては文句なしの上出来で、これからの精進が楽しみである。

   この舞台では、大蔵卿の作り阿呆と正気に戻った颯爽とした偉丈夫との演じ分けが重要なのではなく、その狭間にある屈折した大蔵卿の心の葛藤を如何にビビッドに表現するかが、非常に重要なのである。
   吉右衛門が、「歌舞伎ワールド」で、皇室が政治的な発言や行動を規制押されているように、大蔵卿も、公家の立場や柵で、源氏に助太刀出来ないので、その心を押さえて悶々とするよりは、はなから源氏に相手にされないような無能者に、自らを貶めたのである。
   しかし、いくら心を抑えて、武芸の才を封印して見ても、屈辱感と心の屈折を騙しきれなくて、作り阿呆も、何かの拍子に、正気が顔を覗かせる。
   正気に戻って、為義や義朝が討たれた経緯などを語り、華やかに衣装を転換して、獅子身中の虫である勘解由(錦吾)の首を討って、源氏の再興を鬼次郎(松緑)に託すと、ほっとしたのか、幕切れで、再び元の阿呆に戻って、勘解由の首をボールのように弄ぶ大蔵卿の表情に走る陰が、吉右衛門と染五郎には、年季以上の差がある。
   尤も、吉右衛門の話では、元々は、阿呆から正気への派手な変身だけが見せ場の他愛ない芝居だったのを、初代吉右衛門が、日本のハムレット版にと、性格描写を吹き込んだのだと言うことであるから、江戸の荒事の世界と同じで、あまり、高度に考えることもないと言うのも一つの舞台術かも知れない。

   
   ここで、私がふと心にかかったのが、源頼政。
   怪物鵺を退治した勇猛な武将で、勅撰和歌集にも入集した歌人である文武両道の達人であったが、源氏でありながら、最後の最後まで清盛に仕えて忠誠を尽くしたが、やはり、息子が平家に恥辱を与えられたのに耐え切れず、老骨に鞭を打って、以仁王と挙兵して、宇治の合戦で敗北して、平等院で切腹して果てた。
   大蔵卿は、下手に動いたら危ないと阿呆に徹して、名前どおりに「鼻の下のながなり(長成)」で、狂言と舞に明け暮れて、世を欺き通したのだが、これも、また、先の見えない乱世の生き方であろうか。


   ところで、この歌舞伎のもう一つのテーマは、義朝の愛妾であった常盤御前(芝雀)が、清盛の愛妾となり、身内の反発もあって、大蔵卿に下げ渡されていたのだが、その動向を確かめたくて、鬼次郎と妻のお京(壱太郎)が、大蔵卿宅へ入り込んで、清盛調伏の本心を知って喜ぶという話である。
   鬼次郎兄弟の出番として、何となく付け加わったと言った感じだが、一條卿の源氏への思いとの連続性もあって、サブテーマとしては面白い。
   これまでは、かなり老練なベテラン役者の舞台を見ているのだが、松緑と壱太郎の若々しい演技が爽やかでよい。
   芝雀は、やはり、風格があって、中々、重厚な常盤像を醸し出していて素晴らしい。

   話は全く違うのだが、能には、平家物語に題材を得て作曲された作品があるなど、比較的、平家の武将たちを好意的に扱っているのだが、江戸期以降に生まれた浄瑠璃や歌舞伎では、何故か、平家が悪者で、源氏が脚光を浴びる作品が多いようで、平家びいきの私には、面白くないことが多い。
   これなども、当然、歴史観や価値観の変遷ではあろうが、面白い現象でもある。
   

   この「一條大蔵譚」の後に上演された「二人椀久」は、実に幻想的で美しい舞台であった。
   恋い焦がれた女人が眼前に現れて、至高のひと時を過ごしたのが、実は夢であった。
   夢でも何でも良いから、現れてくれれば、嬉しい、と思いながら見ていた人も多いのではないかと思う。
   とにかく、菊之助の松山太夫が、素晴らしく優雅で匂うような艶やかさで、錦絵の連続パノラマを見ている感じであった。
コメント
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