熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

十月大歌舞伎・・・中村芝翫の「熊谷陣屋」

2016年10月13日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   芸術祭十月大歌舞伎は、八代目中村芝翫襲名披露興行である。同時に、橋之助・福之助・歌之助の襲名も行われた。
   私は、「大芝翫」と呼ばれた四世芝翫の「芝翫型」の「熊谷陣屋」を見たくて、歌舞伎座に出かけた。

   これまで、幸四郎や染五郎の高麗屋や仁左衛門、吉右衛門などの團十郎型の舞台は、何度も見ているのだが、浄瑠璃本を踏襲している文楽に近い舞台だと言うことで、特に、丸本で、熊谷が出家を決意して登場した時に、「十六年も一昔、ア夢であったな」と慨嘆する台詞をどのように表現をするのか、非常に、興味があった。

   芝翫がいっているように、「團十郎型は幕が閉じた後の幕外で、出家した熊谷が花道を一人で入りますが、芝翫型は原作のように熊谷と妻の相模が本舞台、屋体の中央に源義経、下に弥陀六という引っ張りの見得で幕になります。」
   團十郎型は、幕が下りた後に、熊谷が、花道に立って、天を仰いで、「十六年も一昔、ア夢であったな」と慨嘆して、京の黒谷へ向かう感動的なシーンで終わる。
   それに、芝翫型では、衣裳は赤地錦織物の裃で、黒本天の着付、顔は隈を取り、赤ら顔にしているので、見慣れている團十郎型とは、雰囲気が大分違ってくる。

   最近見た文楽では、勘十郎の遣う熊谷は、本舞台の中央で、武士を捨てて脱いだ兜を握りしめて感慨深そうに凝視しながら、「十六年も一昔、・・・」を演じた。
   丸本には、”ほろりとこぼす涙の露。”と続く。
   岩波の文楽浄瑠璃集には、「一句に無限の感慨を含めてほろりとするところ。」と注書きしてある。
   芝翫の熊谷は、本舞台やや下手に端座して、正面を凝視して、力強い肺腑を抉るような台詞を吐露する。
   これから行くのは西方浄土、先に逝った躮小次郎と一緒に極楽に往生して同じ蓮台に身を託す、一蓮托生の縁に因んで蓮生と改める。と語って、念仏を唱えて、「十六年も一昔、・・・。
   感極まった表情が、胸を打つ感動的なシーンである。

   ところで、吉右衛門は、この「十六年は一昔・・・夢だ・・・」は、出家した熊谷が、脇目もふらず陣屋を立ち去ろうとした時に、義経に「コリャ」と、小次郎の首をもう一度目におさめておけと呼び止められて、思わず口をついて出るつぶやきです。「もう、思い出したくない。振り返りたくない」という心も一方にあって、でも、あの首がどうしても視界に入って来て・・・と言っていて、非常に興味深い。
   原本には、さらばさらばと言うシーンで、「又思い出す小次郎が。首を手ずから御大将。この須磨寺に取納め末世末代敦盛と。その名は朽ちぬ金札。」と書かれている。
   やはり、義経が、小次郎の首を熊谷に見せると言うシーンを、作者は想定したのであろうか。
   今回、吉右衛門の義経は、首を小脇に抱えていたのだが、私など、やはり、熊谷にとっては、小次郎の首を示されるのは苦痛以外の何物でもなく、義経が、小次郎の首を持って見送ると言うシーンは如何かと思っている。

   もう一つ、芝翫の舞台で感じたのは、芝翫も述べているのだが、熊谷が、小次郎の首を藤の方に見せよと、相模に命じる「コリャ女房、敦盛卿のおん首、藤の方へお目にかけよ」のところで芝翫型は、熊谷が首桶から首を出して抱え、三段(階段)のところで熊谷が相模に手渡す。のだが、この時に、芝翫の熊谷は、自分の悲しさをじっと噛みしめて、労わる様に、そっと、右手を優しく相模の背にあてがって、愛する我が子を失った夫婦の思いを表現している。

   今回、この舞台で、小次郎の死に直面して、泣き崩れる相模が、「エエ胴欲な熊谷殿。こなたひとりの子かいなう。」と熊谷を激しく責めて、熊谷が、どうして、敦盛と小次郎を取り替えたのか説明するシーンが省略されていたので、救いでもあったと感じている。

   文楽の場合には、首が人形なので表情は出しにくいのだが、歌舞伎の舞台では、大概の熊谷役者は、無理に、熊谷の喜怒哀楽の表情を押し殺して無表情に近い男としての熊谷を演じているのだが、芝翫は、どちらかと言えば、内奥から迸り出る表情には逆らわずに、芝居を演じているようで、幕が下りる直前、相模を伴って去り行く時など、本当に慟哭していて、胸に迫る幕切れであった。

   首実験のシーンでも、團十郎型や文楽とも、異動があって興味深い。
   熊谷は、陣屋の下手の桜の前に立ててある制札を引き抜いての見得でも、芝翫型は人形浄瑠璃と同じように制札の軸を下に突くが、團十郎型は制札を逆さにする。
   義経に首を示す時には、文楽では、右手に制札を握りしめて、制札で階の下にいる藤の方と相模を遮り、首を持った左手をぐっと義経の方に差し出すと言う豪快な見得を切るが、芝翫の場合には、二人は階の下にいて、熊谷が、跪いて、桶の首を両手で捧げ持って、悲愴な面持ちで、義経に見せると言う形になっている。

   玉男が、見せ場は、何といっても、熊谷が軍扇を駆使して、須磨浦で、敦盛と一騎打ちを語る「物語」の場面で、右手で遣っていた軍扇を左手に持ち替えて「要返し」をして、足遣いは棒足で決まると言う型が難しいと言っていたので、今度は、多少、意識して、この居語りの場面を注意深く観せてもらった。
   これまで、何となく聞き流してみていたのだが、芝翫の語り口は、非常に鮮明で分かり易かったので、楽しむことが出来た。

   日頃、脇役のように思って気にもしていなかった義経を、吉右衛門が演じると、ぐっと違った役のように思えて、改めて、一挙手一投足、注視しながら観ていた。
   相模の魁春、弥陀六の歌六は、やはり、ベテランのいぶし銀のような味わい深い芸を見せてくれて良かった。
   菊之助の匂うような品格と威厳、母としての心情を鮮やかに演じ切った素晴らしい芸も見逃せない。

   ところで、この夜の部では、襲名披露口上が行われた。
   特に、変わった雰囲気ではなかったが、菊五郎が、「奥さんに叱られて・・・」と切り出すと場内は大爆笑・・・後はよく聞き取れなかったのだが、(恋に現を抜かしてマスコミ沙汰になるような時ではなかろう、)3人の子供を立派な役者に育てるようにと激を飛ばしていた。
   今回、七之助と児太郎が、一門の繁栄のためにと、非常にしっかりとした熱の籠った口上を語っていて、印象的であった。

   「外郎売」は、祝祭劇の定番。
   最後の玉三郎の「藤娘」は、やはり、人間国宝の素晴らしい舞踊の世界。
   還暦をはるかに過ぎているのに、何故、あんなに優雅で美しいのか。
   
   
   
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鎌倉便り・・・光則寺、御霊神社、極楽寺

2016年10月12日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりに、朝から晴天だったので、ふらりとバスに乗った。
   鎌倉山から、一番近い古社寺は、鎌倉大仏、そして、長谷寺。
   両方とも、混み合っているだけで興味はないので、長谷観音前でバスは下りたが、隣の光則寺に入った。
   何か花が咲いているかと思ったが、ほととぎすほか、少し、秋の草花がひっそりと地面を這っている程度で、全く彩に乏しくて寂しい感じで、訪れる人もほとんどなく、閑散としていた。
   万両と千両の実が肥大し始めていたが、もうすぐ色づくであろう。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   長谷寺を通り越して、大イチョウはどうであろうかと思って、御霊神社へ向かった。
   イチョウが真っ黄色に色づくのは、来月下旬くらいであろうか。
   一部、少しだけ、色づいているところがあったが、社殿の前方左右に巨大な雄雌一対の大イチョウがそそり立っていて、壮観であり、今年は、是非、その雄姿を見たいと思っている。
   雌の大イチョウの足元に、銀杏が零れ落ちていた。
   
   
   
   
   

   この御霊神社の鳥居の前に、江ノ電が横切っていて、街道からだと、参道を分断している感じである。
   そのぶち切られた参道の横に立って、アマチュアカメラマンが、江ノ電を映しているのだが、今回は、トンネルの前方にススキが位置を占めていた。
   私も、カメラを持っている以上、下手を覚悟で、シャッターを切る。
   
   
   
   

   御霊神社から、街道を右に折れて、切通を抜けると江ノ電の極楽寺駅に出るのだが、その手前の踏切の反対側に、極楽寺がある。
   この極楽寺への陸橋の上からトンネルを潜ってくる江ノ電を撮る人もいるが、面白いのは、左手の崖を這い上る鮮やかなブルーの朝顔の威容である。
   名前に魅力があるのか、この極楽寺駅の前で、記念写真を撮る人が多い。
   
   
   

   極楽寺の花は、山門前の萩一叢と左右の芙蓉の花であろうか。
   境内の萩は、もう、最盛期を過ぎて、残念ながら一寸、遅かった。
   サザンカと、巨大な百日紅の残り花が咲いていた。
   
   
   
   
   
   
   

   やはり、紅葉の季節にならないと、名だたる観光地の鎌倉でも、観光客で、ごった返すことはないのであろうか。
   今日は、大仏や長谷寺へ行く観光客も、いつもより、少ない感じであった。
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D・ヨッフィー&M・クスマノ著「ストラテジー・ルールズ」 (1)

2016年10月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、ハーバードとMITの経営学者による、マイクロソフトのビル・ゲイツ、インテルのアンディ・グローブ、アップルのスティーブ・ジョブズと言う現代最高峰のイノベーターであり偉大な経営者である3人から学ぶ戦略的思考のガイドラインと銘打ったイノベーションへの戦略論である。
   タイトルも、そのものずばりの「Strategy Rules: Five Timeless Lessons from Bill Gates, Andy Grove, and Steve Jobs」
   この3人については、これまで、関係本などを読んでおり、このブログでも論じてきたので、それ程、新鮮な情報なり知識があるようには思えなかったが、非常にコンパクトに集約された経営戦略論としては貴重な本だと思う。

   非常に内容の密度が高いので、第1章から考えてみたいと思う。
   企業リーダーとして3人に共通するフレームワークとして、著者たちは、5項目の時代を超越したレッスンを見出したとして、個々について詳細に論じている。
   
   まず、最初は、「未来のビジョンを描き、逆算して今何をすべきかを導く」。
   これは、ゲームの理論とチェスに共通する根本的な考え方だと言う。
   ここで、「ムーアの法則」に基づいて、グローブやゲイツは、ビジョンを描いた。
   グローブは、この法則を実現し続ければ、巨大な「規模の経済」が手に入り、将来、水平型の業界構造が到来するであろうから、集積回路の垂直統合型の巨大競合企業を倒せる可能性が生まれると考えて、インテルの戦略を、マイクロプロセッサー市場に集中することを決断し、その為に、エンジニアリングと製造技術に革新を推進することにした。
   ゲイツは、これを、コンピュータの計算能力が一定期間で倍増するなら、コンピュータの計算能力は殆どタダになると考えて、無限のコンピューティング・パワーから価値を引き出すうえでの制約になっているのは、ソフトだと断じて、OSビジネスに軸足を置いた。
   ジョブズも同じ考え方をして、ホーム・コンピュータなど馬鹿げたアイデアだと思われていた時に、アップルコンピュータを創設した。

   未来を予測するに当たって、IT業界では、「顧客のニーズを先取りする」と言う戦略で、ジョブズは、マーケットリサーチなど信用せず、消費者は何が欲しいか分かっていないので、自分が欲しいもので、厳しい基準を満たした製品なら、広く受け入れられるとと考えて、自分自身で次のヒット商品のビジョンを描き、情熱をもって実現しようとしたと言うのは、有名な話である。
   ウォークマンを生み出したソニーの盛田昭夫を彷彿とさせる。
   マネシタ電器として有名であったパナソニックの経営戦略が、如何に時代錯誤であったか、その後の崩壊瀬戸際まで行った経営危機を考えれば、その落差の激しさが良く分かって興味深い。

   興味深いのは、3人とも、競合他社の動向には、パラノイア的なほど、極めて慎重に対処した。
   特に、情報漏出に関しては、ジョブズなどは、マイクロソフトなどの競合に、アップル製品の情報を盗まれないように、「極限の秘密主義」の元で設計した。
   3人とも、頂点に君臨し、最大の巨人と見做されているにも拘らず、自らを常に弱者だと見做して、少しでも怠慢になれば、一夜にして成功が台なしになると恐れて、常に競合の動向に目を光らせていた。

   「今すべき行動を導き出す」では、まず、参入障壁の構築戦略で、重要なことは、自分たちが重点的に推進しようとしている製品や市場、サービスに競合が投資しないようにすることだと言う。
   このために、グローブは、これまで10億ドルを投資した486チップの後継製品であるペンティアムの製造工場に50億ドルを投資して、一気に入場料を引き上げた。
   ゲイツは、IBMへのDOS提供契約で、自社が独占的に他社にOSをライセンス供与できる権利を死守するために、OSのライセンス料を低くし、継続的なロイヤリティを請求しないなど好条件を提供した。

   指数関数的な激変の経営環境下であるから、「10倍の変化」が生じ、何度も重要な変曲点に直面するのだが、彼らは、適切にその変曲点を見つけ出して、脅威をチャンスに変える能力に優れていたので、必ずしも成功ばかりではなかったが、迅速に対応し、信じた道を不屈な精神で突き進んで苦境を乗り越えて来たと言う。

   この本を読み始めて、少し奇異に感じたのは、ICT関連企業である所為か、あるいは、3人があまりにも偉大な特異なイノベーターであったためか、或いは、他の要因によるものなのか分からなかったが、他のMNCで、現在のエクセレントカンパニーの多くでは、これら3社とは違って、オープンビジネス・システムをフル活用して、オープンイノベーションで成功しているケースが結構あって、それが、常態である企業もあると言うことである。

   マイクロソフトでは、ある程度、市場や技術の推移などを見てから戦略を打ったケースもあるようだが、3社とも、プラットフォーム戦略を打ちながらも、特に、新製品やサービスの企画設計段階では、殆ど秘密主義で、他の組織の参画を排除していたようである。
   日本のメーカーの場合、大分、他社を巻き込んだオープンシステム経営が導入されてきているようだが、やはり、ブラックボックス戦略が、業種なり企業なり、ある領域においては、健在だと言うことであろうか。

   
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つばきの苗木を、庭に移植する

2016年10月09日 | ガーデニング
   しばらく、鉢植えで肥培していた椿の苗木を、数本、鉢から庭に移した。
   6月頃に蕾が付き始めて、花芽がはっきりと表れて、少しずつ大きくなってきている。

   千葉に居た頃には、庭植えと鉢植えを合わせば、50種類をはるかに超える椿を栽培していたのだが、大きくなった椿など、相当、立派な庭木になっていたけれど、移植もままならず、結局、気に入った鉢植えを少し持ってきて、庭に植えただけで、殆ど諦めてきた。
   ここで移植した椿も、3年弱経っているので、それなりに、庭に落ち着いてきて、花を咲かせ始めている。

   その後、タキイの通販や園芸店などで、気に入った椿の苗木を買って、しばらく、鉢植えで肥培して、庭植えにしている。
   鉢植えにしておくと、水切れなどで、枯らすことがあるので、しっかり、苗が落ち着くと、極力庭に移植している。
   いずれにしろ、それなりに、立派に成形された庭のある家に移ってきたので、庭の雰囲気を壊さずに、私好みの庭に代えて行くのには工夫がいるし、まず、自由に椿を植える空間を探すのが大変である。

   私の場合、最初は、ピンクの乙女椿に魅せられた。
   千葉に家を建てて、最初に、何の気なしに植えた花木の一本がこの乙女椿で、その後すぐにヨーロッパに転勤となり、8年後に帰って来た翌春、庭に咲いた綺麗な乙椿の匂うようなピンクの花の美しさ造形の妙に感激したのである。
   それから、どんどん、椿の苗木を買って、庭に植え、鉢花で育てた。

   いつの間にか、40坪あった庭も、椿の花で、春になると咲き乱れて、壮観であった。
   ところが、ヨーロッパ生活の影響もあるのであろうか、手に取る椿が、少しずつ洋椿の比重が増し始めてきた。
   並行して、ばらにも手を出して沢山栽培し始めたのだが、やはり、結構、興味を持って集めて育てていた日本の侘助あたりなど一重でシンプルな椿から、ばらのように華やかな洋椿に、関心が移って行った。

   ところが、不思議なもので、今回、新しく買った椿の苗なのだが、これまでに植えていた薩摩紅、花富貴、荒獅子、桃太郎、大冠、卜伴など日本の椿を、懐かしくなって、また、買ってしまって植えている。

   今日は、少し前に、タキイから買ったシュプリーム・シャンパンとシュプリーム・エレガンスが、かなり、大きくなってしっかりしてきたので、玄関正面の花壇と、裏庭に面した半坪庭に、咲くとよく目立つところに植え変えた。
   今年の春にも奇麗な花を咲かせてくれたし、10年くらいでも1メートルくらいの低木だというので、丁度、好都合である。
   古社寺や公園などの大木の椿の落ち椿には、雰囲気があって良いのだが、個々の花には目が行かず、背の低い木で、一輪二輪、綺麗に咲くと、美しさが際立って感動的なのである。

   坪庭の背後の垣根の手前、竹の間に、マーガレット・デイビスと菊冬至が植わっている。
   この庭には、今、斑入りツワブキが蕾をつけてスタンドバイしていて、紅葉を待って、小さなもみじが葉を広げている。
   今年は、一寸、この庭も整備したので、大分雰囲気が良くなってきている。

   近所の住人たちは、結構、こまめに庭仕事に精を出して、綺麗な庭を維持しているが、私の場合には、やることが多い所為か不精なのか、注意が散漫でもあり、庭の手入れが行き届かないので、焦ったりもする。
   知人友人たちには、庭仕事が苦痛になって、一戸建てからマンションに移り住んだのが何人かいる。

   とにかく、前に居たイギリスなどと比べて、温帯とは言え、モンスーン気候帯の日本の夏の雑草の生え方は、半端ではなくて、最近では、歯が回転する電動式芝刈り機があるので助かっているが、雑草の処理が大変なのである。
   しかし、花木や草花は、正直なもので、過保護は駄目としても、それなりに、雑草を処理して肥料を施し、環境を整備してやらないと、綺麗な花を咲かせて応えてくれない。

   今日、他に庭に移植した椿は、鴇の羽重と花富貴。
   まだ、タマアメリカーナやジュリア・フランスやハイ・フレグランスなど10鉢ほどが、スタンドバイしているのだが、何処へ植えようか。
   今年の春よりも、わが庭には、大分、椿が増えたので、来春の開花が楽しみである。

   
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英国:メイ政権外国人雇用を規制

2016年10月08日 | 政治・経済・社会
   時事が、「外国人雇用を規制=メイ政権案に企業反発―英」と報じている。
   ”メイ英政権が企業の外国人雇用を規制する案を打ち出し、経済界が反発している。欧州連合(EU)離脱に加え、規制強化でビジネスを行う場としての魅力が薄れ、英経済に悪影響を及ぼす恐れもある。”と言うのである。

   今回のBrexit (ブレグジット)の最大の焦点となった「移民が英国人の雇用を奪う」という批判に応えての、メイ政権の政策で、企業に外国人従業員比率の公表を義務付けた上で、多い場合は社名を公表し、英国人の雇用拡大を求める。と言う。

   これまでにも、書いてきたが、英国は、ウィンブルドン現象の最たる国で、外人に場所を提供して英国の産業・文化・芸術・スポーツを支えている国であり、外国人なり外国パワーの支えがなければ成り立って行かない国なのである。
   英国が世界に誇る金融ビジネスに冠たる地歩を築いているシティの金融センターなどは、外国企業、外国人あっての世界であり、オックスブリッジを中心とした学問芸術、科学技術など英国文化を支える重要なトップ頭脳の多くは、外国オリジンであって、熟練や知力をそれ程要しない農業、建設、清掃、外食などの業種の移民労働者と同様に、外国パワーがなければ、英国の経済そのものが成り立たないのが現実である。

   ”経済団体の英産業連盟(CBI)は「高度な技能を持つ移民の規制は歓迎しない」とけん制。野党・労働党も「政策の失敗を外国人のせいにして、排外感情をあおっている」(コービン党首)と批判している。”と言う。

   この外国人雇用規制は、正に、末期的症状の最たるもので、本末転倒。
   問題の根底にあるのは、英国の政治経済社会政策の失敗とその稚拙さにあるのであって、英国の屋台骨を立て直すことが先決である。
   一気に、ポンドが暴落し続けているが、このポピュリズムの極地とも言うべき政策を積極的に推進しようとするならば、英国の未来はないとしか考えられない。

   一番英国が心配している経済の活性化のためには、異文化異文化を積極的に吸収し、外国に大きく門戸を開放して、グローバル・パワーをフル活用することが必須であるにも拘らず、正に、英国は、世界の潮流に逆行しようとするのである。
   ダボハゼのように、世界中のすべてのパワーを飲み込んで吸収し活用したからこそ、今日の英国があるのである。
   衰えたりと言えども、ほんの少し前までは、7つの海を支配して、世界に冠たる大英帝国を築いて、人類の文化文明を支えてきた偉大な国であった筈。
   ここまで、末期的な政策を打たざるを得なくなった英国の苦境を悲しく思う。
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ウォルマート ネット販売に重点を移す

2016年10月07日 | 経営・ビジネス
   日経ネットに、「ウォルマート、ネット注力 店舗・鮮度てこにアマゾン追う 」と言う記事が掲載されていた。
   2016年1月期は世界で4821億ドル(約51兆円)を売り上げたウォルマートだが、前年同期比では0.7%減で成長は頭打ちで、その不振の大きな原因は、アマゾンの台頭で、ネットに店舗の顧客が奪われている。と言うのである。
    状況の打開を狙って、ウォルマートは、今後2年間で20億ドルをネット販売事業に投じて、特に、野菜や肉などの生鮮品をネットで受注して、店舗や施設で引き渡す新サービスを展開すると言う。

   Order online! FREE pickup at store と言う訳である。
   walmart.comを開けると、クレジット・カードを開けば、250ドルまで10%ディスカウントすると広告が出ており、ネットで注文すると、いつでも、3%ディスカウントされるようである。
   ネット販売強化において、ウォルマートが、アマゾンと異なる最大の利点は、「店舗とデジタルの融合」に重きを置いている点で、生鮮品のネット販売だと、基本的に店の商品をその場で詰めて配達するため簡単にサービスを始められ、全米に約4600ある店が、そのままネット事業の拠点として生きる。生鮮品の鮮度管理では、アマゾンよりはるかに優れており、全米に163の物流センターから、7836台の冷蔵庫付きトラックで配送し、「店舗」ビジネスで積み上げた資産で独自色を打ち出せると言うことになる。

   しかし、ネット販売は、バーチャルだが、ウォルマートは、全米で膨大な実店舗を保有し、約150万人が働く国内最大の民間雇用者で、店舗が身軽なはずのネット事業の効率性を損ないかねない。実店舗での雇用コストは、ネット専業のアマゾンには生じにくく、競争上不利であり、また商品によっては消費者が「ネットで買えばいい」と割り切るものもあり、実際にも、衣料品では17年までにアマゾンが全米トップの小売り業になると予想される程、アマゾンが先を走っている。
   アマゾンに対抗するために、最大の書店であったバーンズ&ノーブルが、ネットショッピングを始めて挑戦したが、実店舗との競合などに苦慮し苦境に立っていて、実店舗を保有する巨大企業のネットショップへの転身では、成功した会社が殆どないようである。

   しかし、ウォルマートは、カメラとフィルムのイノベーターであり最大かつ最高の会社であったコダックを、使い捨てカメラで、追い落とした実績を持っており、何しろ、世界最大の最もイノベイティブな企業であるから、どのような凄いネットショッピング戦略を打って、アマゾンに挑むか未知数であろう。
   膨大な資金力を駆使して、ITベンチャーを相次ぎ買収して、ネット販売では、本社のあるアーカンソー州ベントンビルではなく、カリフォルニア州の別組織で約2500人を雇用し、店舗を生かしたネット用の最適物流の分析や決済ソフトの開発を進めていると言うから、威力を発揮して、商業システムに、想像を超えた革命的変化を齎すかも知れない。

   ウォルマートは、今や、既に54年の歴史を持つ巨大企業だが、押しも押されもしない世界最大のグローバル企業になったとしても、何となく、田舎臭い、そして、色々問題も多くて垢抜けしないイメージがあったように思うのだが、やっと、まだ、3%に過ぎないと言うネットショップへ軸足を移そうとしている。

   ところで、今日の日経の朝刊に、「セブン&アイ、百貨店縮小」と言う記事が掲載されていて興味深く読んだ。
   私は、バーゲン価格だと言っても、コンビニやスーパー主体の会社が、シナジーを考慮したのか何を考えたのかは知らないが、欧米先進国で、何十年も斜陽の一途を辿っていた百貨店を、何故、買収して業域に組み入れたのか、疑問に思っていたので、当然の決断だと思っている。

   アマゾンの快進撃を思えば、既に、小売業の趨勢は、前世紀末から見えていた筈。
   このセブン&アイとウォルマートの日経記事を面白く読ませてもらって、今昔の感を感じている。
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国立能楽堂:能観世流「野宮」と六条御息所

2016年10月05日 | 能・狂言
   今月の国立能楽堂の最初の定例公演は、次の通り。
   狂言 合柿(あわせがき)  茂山 千五郎(大蔵流)
   能  野宮(ののみや)  梅若 万三郎(観世流)

   能「野宮」は、能「葵上」とともに、源氏物語を基にした六条御息所をシテにした有名な曲である。
   能の詞章をまとめると次のような話になる。
   九月七日、旅の僧(ワキ)が嵯峨野を訪れて野宮の旧跡を拝んでいると、一人の女(シテ)が現れて、僧に、今日この日に、光源氏が六条御息所をたずねてこの野宮までやって来て、御息所に榊の枝をさし入れたので、御息所が歌を詠んだと語る。女は、榊の枝を神前に供えて、祈りを捧げて、僧に昔の御息所の心境を語って聞かせ、自分こそ御息所の霊だと告げて消える。夜、僧が弔っていると御息所の霊(後シテ)が牛車に乗って現れて、賀茂祭での、正妻葵の上との車争いの辛い思い出や、源氏の野宮訪問の様子などを思い出しながら舞を舞う。

   六条御息所は、源氏の父桐壺帝の弟の皇太子妃で、いわば伯母にあたり、7歳年上で才色兼備、光源氏の殆ど最初の愛人であったのだが、姉さん女房でプライドが高くて打ち解けてくれないので、敷居が高くなって、ドンファンの源氏は、新しい魅力的な女性に手を出して心移りして、どんどん遠のく。
   これが悲劇となり、気おくれを感じながらも、一心に源氏を想い続ける未亡人の御息所を悩み苦しませて窮地に追い込み、御息所は、源氏の愛する女たちを、生霊として、また、死霊として苦しめる。

   能「葵上」は、源氏物語の「葵の巻」に描かれている生霊として現れた御息所が、お産の床につく葵の上を呪い殺そうとする凄まじい曲である。
   一方、能「野宮」は、正妻葵の上が夕霧を生んで亡くなった後の話で、娘が斎宮として伊勢へ下向するために潔斎のために滞在していた野宮が舞台になっている。
   源氏物語の「賢木の巻」に描かれている9月7日に源氏が野宮の御息所を訪れて一夜を過ごすと言う記念すべき思い出を回想する物語に、「葵の巻」での激しい車争いをテーマにして御息所の苦悩を炙り出している。

   ところで、源氏物語で、御息所が登場するのは、「夕顔」の冒頭で、紫式部は、馴れ初めなど御息所との詳しい事情は何も書いておらず、この時も、六条御息所のところへ通っていく途中に、幼い頃育ててくれた大弐の乳母を見まいに立ち寄ったところで、隣家の板垣に咲いていた夕顔の花の縁で夕顔に近づくと言う形で語られている。
   この巻で、親しくなった源氏と夕顔が河原院で愛の交歓最中に、源氏の枕元に美しい女が座って、私がこんなにお慕いしているのに、こんなつまらない女をご寵愛になるなんてと脅したと言うのであるから、当時は、正妻葵がいたが、人妻空蝉に振られて、モーションはかけ続けていても、他に親しい愛人はいなかったであろうから、御息所の生霊であろうか。

   さて、「葵」での、御息所の生霊の話だが、物語では、御息所は、葵の枕元の源氏に向かって、葵にのり移った生霊として、葵の上の口を借りて調伏を止めろと訴え、名前まで口にするのだが、御息所本人は、夢を見ただけで意識はなく、後で、着ている着物に芥子の香が染みついているので生霊として葵を襲ったことを知ると言うことになっている。
   
   興味深いのは、葵の上が亡くなっので、世間では、今度は、御息所が源氏の正妻になられるに違いないと噂していたと言うし、御息所もその気になっていたのだが、源氏からは何の音沙汰もなかった。噂になった生霊の経緯や冷たくあしらったことなどが、響いたのであろう、御息所は、きっぱりと源氏を諦めて、伊勢に向かった。
   余談だが、御息所は、ドンファンの源氏に、興味を持ち始めた自分の娘には絶対に手を付けるなと、釘を刺している。

   また、父の桐壺帝が、早くから、源氏が六条御息所と深く契っていることを承知していて、源氏の冷たい仕打ちを心配して、自分の皇女だと思っているので、普通の女のように粗略に取り扱くのは良くない大切にせよと諭しており、義母藤壺にまで懸想している源氏であるから、生きた心地もせず、御所を退出したと言う。
   御息所が、7歳年上で恥ずかしく思って遠慮がちに振舞っているのを良いことに、源氏が、粗略に扱っているのが、世間にも知れ渡り、御息所も辛い思いをしていたのであろう。
   今から見れば、フリーセックスとは言わないまでも、恋愛自由の時代で、考えられない様な世界が平安期にはあったと言うことであろうが、男女の愛の形もどんどん変わって行くと思うと、歴史の移り変わりは興味深い。

   とにかく、御息所同様に、正妻の葵上に対してもそうだが、源氏は、才色兼備で立派な女性には気後れして馴染めずに、高嶺の花に挑んだのは藤壺だけで、自分を主張しない夕顔や、ピグマリオンのような自分好みに作り上げた紫上、それに一寸変わった末摘花、ロリコン趣味の若い姫君と言った御し易い(本人がそう思う)女性を好むようだが、しかし、優しくて女らしい時の葵上や御息所に、源氏がころりと参っているあたりは、やはり男であって面白い。
   
   御息所の話が長くなってしまったのだが、私が気になったのは、能では、御息所を何となく、暗くて悲しい女のような描き方をしているが、紫式部は、かなり公平に、人間六条御息所を丁寧に描いており、私など、夕顔より、はるかに、御息所の方が魅力的な貴婦人だと思っていて、こちらの方が好きである。

   嵯峨野にある野宮神社については、昨年秋に、このブログで、「京都:能の旅~野宮:野宮神社」を書いた。
   何と言っても、すぐそばの竹林が美しいが、晩秋に全山紅葉する嵐山や秋色一色に染まる嵯峨の魅力は格別であろう。

   能は、2時間のロングラン。
   終幕近くの序の舞が、実に優雅で美しい。

(追記)国立能楽堂の中庭のミヤギノハギとススキが、秋の風情をかもし始めてきた。
   
   
   
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ジョセフ・E・スティグリッツ著「.ユーロから始まる世界経済の大崩壊」(1)

2016年10月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本を読んでいて、最初に面白いと思ったのは、徹底的なユーロ批判よりも、実は、ユーロに依存して繁栄を謳歌していた筈のドイツ経済が、ユーロ故に、決して褒められたような経済状態ではないと言うスティグリッツの指摘である。

   まず、ユーロ圏の景気後退は、既に8年続いており、ヨーロッパが「失われた10年」に直面していることは明確で、近い将来に旺盛な成長を取り戻す可能性は考え難く、日本のように「失われた四半世紀」が取り沙汰されるリスクさえあると述べている。
   ユーロ圏全体の経済成果は、実質的にすべての指標でお粗末な限りで、危機的当事国の経済成果は壊滅的で、失業率、特に若年失業率は非常に高く、一人当たり産出は、ユーロ圏全体で見ても危機前よりも低い。ユーロ圏の成果が著しく劣ると言う事実は、ユーロ圏の苦悩に共通する原因があることを示しており、それはずばりユーロだと言うのである。

   ユーロ圏の実質GDPはほぼ10年の間停滞していて、2015年度のGDPは、2007年の水準を0.6%上回っただけである。
   ユーロ圏の構築後、一瞬でも地域全体の成長が加速されたことはない。ユーロ創設前のGDPの成長トレンドがそのまま続いて居れば、現在の所得水準をはるかに凌駕しており、2015年で18%の乖離で、その損失は2兆3000億ドルであり、GDPの累積損失は、12兆1000億ドルを超えると、スティグリツツは、数字を示して実証している。

   ユーロ圏諸国の一部、ダントツはギリシャだが、ポルトガル、アイルランドに続いて、イタリア、スペインなど一部の国が直面する経済下降は、先の世界大恐慌に匹敵するか、それを凌駕するほど悪く、危機当事国の生活水準や社会保障制度の低下などは、実体数字より悪く、スペインなどの失業率の低下要因が、有能な労働者や若者たちの大量の海外流出であり、家族との絆を断ち切り家族崩壊の危機を惹起している。
   緊縮政策の強制による政府支出の大幅な削減の強要で、教育などの基本サービスを提供する公共プログラムに予算が回らず、社会計画の縮小で国の不安定性は高まる一方で、とりわけ、低中所得層の国民に大きな痛みが齎されていると言う。

   さて、ドイツだが、成功だと見えるのは、あくまでもユーロ圏諸国と対比した場合だけで、絶対評価では、マイナスD程度。
   2007~15年期のドイツの実質経済成長は、0.8%に過ぎず、「失われた10年」当時の日本の2001~10年期と変わらず、労働年齢人口の年期減少率が日本で1%、ドイツで0.3%であることを考えれば、ドイツの成果はいかにも貧弱だと言う。
   1980年代から2000年代半ばまで、ドイツのジニ係数と貧困率は右肩上がりで上昇し続けており、ついに、OECD平均を上回っており、ドイツが競争力の確立に成功した理由の一つは、底辺層を犠牲にしたことだとまで、スティグリッツは言う。
   ドイツにとっては、中国市場で需要の高い製品を生産しており、中国市場の台頭に助けられたと言う幸運もあり、更に、EU市場でのダントツの競争力を駆使するなど、膨大な輸出に恵まれて、黒字を蓄積し続けてきたこともドイツ経済を支えてきた要因であろう。

   ドイツ経済については、このスティグリッツの指摘に驚いているくらいで、十分な予備知識がないので、何ともコメントできない。

   ドイツは、危機当事国の根源的な構造欠陥を非難して、ギリシャなど弱小国家を徹底的に虐めぬいてきた。
   硬直化した労働市場、ぬぐえぬ汚職体質、脱税者と怠慢な投資家の巣窟・・・
   労働組合を弱体化させたり、労働法や租税法を改正させたり、経済の仕組みに手を出して徹底的な緊縮財政政策を強要し続けてきた。
   このような改革をすれば、再び成長路線に戻れると言うのであろう。
   
   私自身は、経済統合を成功させるためには、合衆国や単独国家のように、経済力のある政府なり、強力な国家が、経済的弱小国や危機的国家を、徹底的に援助し助けなければならないと思っており、ドイツに、その意思なり姿勢がなければ、EUが、益々窮地に立つと思っている。

   ギリシャなどの怠慢姿勢だけが問題ではないと、優等生のフィンランドの経済悪化を論じているのが興味深い。
   いずれにしろ、ギリシャにとっては、EUには残留しながら、かってのイギリスのように、ユーロから脱退した方が将来のためには良いと思っている。
   
   スティグリッツは、世界経済の環境変化、とりわけ、2008年世界金融危機と中国の台頭、などに対する調整を行う際、ユーロはむしろ阻害要因となるとして、ユーロ圏の抜本的な構造改革に言及している。
   しかし、新自由主義、市場原理主義的な経済手法を貫こうとする実質的にはドイツのユーロが、改革可能なのであろうか。
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英国、来年3月までにEU離脱通告

2016年10月03日 | 政治・経済・社会
   メイ英首相は、2日、バーミンガムで始まった保守党大会で、6月の国民投票で決まった英国のEU離脱方針について演説し、交渉開始となるEUへの通告を来年3月末までに行う意向を、公式に表明した。
   
   EU基本条約50条に、離脱条件を定める交渉は、通告から原則2年が期限と定められており、2019年3月末までに離脱が実現することとなる。しかし、問題が問題だけに、交渉は難航が予想され、2年以内に決着できるかどうかは未定で、交渉期間は、全加盟国の一致により延長できるので、この可能性は否定できない。

   EU離脱の最大の目的は、「国境管理と移民数の削減を実現する」とするEU諸国からの移民に対する規制強化であり、英国にとって実効性のある移民削減策を実現することを最優先する姿勢を鮮明にしている。
   一方、離脱交渉において、貿易や経済政策においては、これまでのように域内で享受してきたように、英国にとって可能な限り最善の条件を勝ち取ると言う。

   勿論、ドイツなどEU強硬派は、このような英国の身勝手な条件の受け入れなどを拒否しており、同じ保守党内においても、EUとの貿易関係を犠牲にしてでも移民制限を重視する離脱強硬派と、単一市場へのアクセスを可能な限り維持するとする穏健派で意見が分かれていると言う。

   ところで、元々、EU(ECC)は、ドイツとフランスとベネルックスの6か国によって形成されてたもので、英国は、大分遅くに加盟しており、賢明にもと言うべきか、ユーロにも加盟せずに、自国通貨ポンドを守り通しており、今回のユーロ危機からは、解放されていた。
   背景に、元植民地による強大な英国連邦市場が存在すると言う利点もあったのであろう。
   EU同様に経済が悪化したのは、市場原理主義者、新自由主義者の経済学に従って緊縮財政政策を取った所為であり、経済のかじ取りを誤ったからである。

   何故、英国は、移民に対して深刻な問題を抱えているのか。
   移民においても、ウインブルドン現象が最たるのは昔から英国で、すでに、多民族国家であり、豊かな他文化社会が形成されていた上に、世界共通語である英語が、移民にとっては魅力的であった。
   それに、ユーロに縛り付けられていない分、自由な経済政策が効を奏して、失業率の低い経済が維持されていたので、本国にいるよりは、仕事を得るだけでも満足した移民たちが、EU域内の移民自由化によって、特に、東欧諸国から大挙して、英国へ流入してきたと言う。
   それら移民が、ロンドンのみならず、斜陽化した地方の工業都市や農場に押しかけて、低賃金でも働き、全国規模で英国人の職を蚕食し、豊かであった福祉の悪化を招いたのであるから、イギリス人が怒らない筈がない。
   
   ミッテランが東西ドイツの再統一を認めた代わりに、コールがユーロ創設を受け入れた経緯があったのだが、このユーロ政策で独り勝ちしたドイツが、今や、ユーロの最右翼の擁護者となっている。
   スティグリツウが、新著「ユーロから始まる世界経済の大崩壊」で、ドイツの蹉跌など、ユーロの破綻とその衝撃について詳述しており、非常に面白い。
   電信柱の長いのも、ポストの赤いのも、すべて、ユーロが悪いのだと言う訳である。
   その意味では、英国は、ユーロ破綻の影響から免れ、EUから離脱と言っても、ギリシャ問題で散々話題になった、ユーロからの離脱対策と言った厄介な問題がないだけ、幸せと言うべきであろう。

   英国については、これまで、随分書いてきたが、他のEUのメンバー国家と違って、昔から、ヨーロッパ人だと思っている英国人は少ないし、アメリカや英連邦のカナダやオーストラリア、インドと言った経済大国との絆も強く、EU離脱による経済的ダメッジは、クルーグマンが説いていたように、私も、それ程大きくないであろうと思っている。
   何も知らないバカな(英国人はそう思っている)ブラッセルの役人に頭ごなしに、法を押し付けられたり、指示されるのは、もう限界で、誇り高い英国人魂を発露して生きて行きたい、と言う英国人気質の発露が、ブレグジットだったのであろう。
   英国に5年在住して、永住権も持っていた私であるから、英国びいきは当然である。
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わが庭・・・金木犀の甘い香りが

2016年10月02日 | わが庭の歳時記
   春の沈丁花と同じように、秋の香りを告げるのは、金木犀。
   プーント甘い香りが、庭一面に広がって、秋晴れの澄んだ美しい日には、幸せを感じさせてくれる。
   今年は、春先に大きく剪定したので、花付きは少し悪いが、それでも、忘れずに咲かせて秋の香りを運んできてくれた。
   
   

   もの一つ秋の伝達者は、柿。
   もとから植わっていた木は、それ程、大きくはないのだが、成った実は、殆ど、鎌倉山から下りてきた烏に食べられてしまって、哀れな状態である。
   柿の実には、それ程興味はなく、秋に紅葉する柿の葉の美しさに関心があって、落葉期の葉が鮮やかに紅葉するカキ品種だと言うことで、タキイから、錦繡と、受粉用柿として、正月の苗木を買って植えており、大分、大きくなってきて、少し色づき始めている。
   関東では、殆ど美しい柿の木の紅葉を見かけることはないが、学生時代に良く歩いた大和の田舎の柿の木は実に美しくて、私自身の「くにのまほろば」のイメージに刷り込まれているのである。
   
   
   
   
   

   ばらは、咲き始めたのだが、やはり、暑い夏を送ったばらには、やはり、体力の消耗が響いているのか、春の華やかさはない。
   アオイ、リッチフィールド・エンジェル、そして、ドリフト・ローズ。
   
   
   

   華やかなのは、派手な色のサルビア。
   ひっそりと咲いているのは、ツユクサ。雑草だが、夕刻には、萎んでしまうが、あのコバルトブルーが、ブラジルの時に感激したアクアマリンを思い出させて、懐かしい。
   
   

   さて、もうすぐに、シーズンが訪れてくる椿の蕾が膨らみ始めた。
   私の一番好きな花木は、やはり、椿で、殆ど里帰りの洋椿だが、春が待ち遠しい。
   
   
   
   
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国立劇場・・・「歌い踊り奏でる 日本の四季」

2016年10月01日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今日1日、国立劇場で、文化庁芸術祭オープニング 「歌い 踊り 奏でる 日本の四季」が開催された。
   皇太子ご夫妻がご来場になり最後まで鑑賞された。日本芸術の誇りである多彩な伝統芸能が披露された華やかな舞台を熱心にご鑑賞になり、拍手を送って居られたと言うことである。
   私は、1階の最前列の席に居たので、最初と最後に拍手でお出迎えとお見送りをした。

   プログラムは、次のとおりである。

(春) 邦楽
長唄三曲掛合  
新松竹梅
長唄  唄 杵屋吉之亟 
  三味線 杵屋佐吉
    囃子 堅田喜三久 ほか

三曲  箏 萩岡松韻・鈴木厚一・伊藤ちひろ
    三絃 萩岡未貴
    尺八 野村峰山

(夏) 琉球芸能
古典舞踊
作田 志田真木
雑踊
鳩間節 阿嘉 修・新垣 悟・嘉数道彦
         金城真次・西門悠雅
創作舞踊
月下の戯れ 玉城盛義・東江裕吉

地謡=比嘉康春・新垣俊道・仲村逸夫(歌・三線)、新垣和代子(箏)、入嵩西 諭(笛)、
      森田夏子(胡弓)、久志大樹(太鼓)

(秋) 雅楽
武満徹=作曲
秋庭歌 In an autumn garden  伶楽舎

(冬) 舞踊
長唄
松島寿三郎=作曲 今藤政太郎=補曲 二代目花柳寿應=振付  
雪の石橋
獅子の精 花柳寿楽
獅子の精 花柳典幸 ほか

地方=今藤尚之・今藤美治郎 ほか
囃子=堅田喜三久連中

   このような古典芸能の舞台を鑑賞するのは、私には殆どなかった経験で、とにかく、邦楽、琉球舞踊、雅楽、舞踊と言ったジャンルの舞台は、個々には何度かあったものの、全く新鮮な驚きを感じて、良い経験になったと思っている。

   序幕の「春」は、邦楽で、長唄と三曲の掛け合いによる「新松竹梅」。
   舞台上手に、三曲(箏、三絃、尺八)、下手に、長唄(唄、三味線、囃子)総勢17名の奏者が、華麗な邦楽の世界を展開する。

   「夏」は、琉球舞踊を三題。
   琉球舞踊は、今年初めに、横浜能楽堂で、能「羽衣」を脚色した組踊「銘苅子」を見て沖縄の舞台芸術に興味を持ち、その後、茅ヶ崎市民文化会館ホールで、能「道成寺」を基にした組踊「執心鐘入」を見たのだが、その時、琉球舞踊も、鑑賞することが出来た。
   今回は、その琉球舞踊で、女踊りの「作田」、若手男性による群舞「鳩関節」、相思相愛の男女の逢瀬を描いた「月下の戯れ」。
   扇に感謝する風情を描いた作品だと言う「作田」は、琉球舞踊重踊流の志田真木宗家が、下手から静かに舞台に登場して、ゆっくりゆっくりと、沖縄の団扇型扇を手にして実に美しく情緒豊かに踊って消えて行く、能と相通じる、しかし、一寸ニュアンスの違った優しさと優雅さを備えた舞姿が、感動的であった。
   ところで、組踊も琉球舞踊も同じだが、沖縄芸能の唄と囃子のアンサンブルが実に良い。
   謡と演奏を兼ねた3人の三線、琴、胡弓、笛、太鼓と、コジンマリした楽団だが、謡と囃子が一体化しているのが興味深い。
   能とは違って、三味線に通じる三線と太鼓に、笛のほかに、琴と胡弓と言うメロディを奏する楽器が加わるので、非常に音楽性が豊かになって、演奏そのものだけでも楽しめるのが良い。

   雅楽は、国立劇場委嘱による武満徹の「秋庭歌」。
   宮中の舞台のように設えられた演奏スタイルなのであろうか、奏者のメガネを気にしなければ、タイムスリップしたような雰囲気で、一寸、違った感じの雅楽が演奏されたのだが、秋の景観の彩から冬へ向かう色彩の移り変わりをイメージした曲だと言う。
   舞台中央に、メインの秋 庭グループで、高麗笛、龍笛、篳篥、笙、鉦鼓、鞨鼓、太鼓、琴、琵琶、
   舞台後方に、木魂群(エコー)グループで、龍笛2、篳篥2、笙4
   2グループに分けて、色彩と空間性を豊かにする配慮だと言う。
   初めて本舞台を聴いて、すぐに分かるわけはないが、興味を感じた。

   「冬」は、長唄「雪の石橋」をバックにして、花柳寿楽・典幸兄弟が、赤白二匹の獅子を、勇壮かつ豪快に踊る。
   実に美しい舞台で、能の精神性を色濃く滲ませた奥行きの深い石橋とも、ドラマチックで魅せる歌舞伎舞踊の石橋とも雰囲気の違った華麗さ美しさは、格別であった。

   私など、芝居などの舞台芸術からは、一寸遠のいているものの、歌舞伎や文楽、そして、最近は、能狂言、落語などに、結構、熱心に通ってはいるが、日本古典芸能の裾野の広さと奥行きの深さに、また、感じ入った一日であった。
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