熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

METライブビューイング・・・「カルメン」

2019年03月11日 | クラシック音楽・オペラ
   何度観ても見応えのあるオペラは、このビゼーの「カルメン」。
   何回か、オペラハウスで鑑賞しているのだが、強烈に印象に残っているのが、コベントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスでの公演で、アグネス・バルツァのカルメンと大病前のホセ・カレーラスのドン・ホセの素晴らしい舞台である。
   メス豹のような精悍な出で立ちで、突如颯爽と舞台上階に登場して、ハバネラを歌ったバルツァに圧倒されたのだが、終幕のホセがカルメンを刺して崩れ折れるシーンなどは、やはり、カレーラスが一番ホセに適役だと思えるオペラであった。
   もう一つ、3D映画だったのだが、2010年公演のロイヤル・オペラ・ハウスの「カルメン」で、クリスティーン・ライスのカルメン、ブライアン・ハイメルのドン・ホセで、これも、映画ながら3Dなので、迫力満点の素晴らしい舞台であった。

   ところで、このオペラは、スペインを舞台にしているのだが、フランスの作家プロスペル・メリメの作品を基にして、フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼーの作品で、純然たるフランス語のオペラである。
   従って、今回の出演者で、指揮者ルイ・ラングレ、カルメンのクレモンティーヌ・マルゲーヌ、ドン・ホセのロベルト・アラーニャなど主要メンバーが、フランス人であり、格好の舞台であった。

   このMET公演のキャストは、
   指揮:ルイ・ラングレ 演出:リチャード・エア
   カルメン:クレモンティーヌ・マルゲーヌ、ドン・ホセ:ロベルト・アラーニャ、ミカエラ:アレクサンドラ・クルジャック、闘牛士エスカミーリョ:アレクサンダー・ヴィノグラドフ

   自由奔放な魔性のジプシー女カルメンの虜になった、真面目な兵士ドン・ホセの人生の歯車が狂い出し破局に向かう、そんなオペラだが、
   メリメの小説を読んだが、面白かった。
   作者の考古学者が、スペインで出会った山賊の身の上話を語ると言う形式で、山賊がカルメンという情熱的なジプシー女に振り回されたあげく、悪事に身を染めてお尋ね者となり、ついには死刑となる。と言う話である。
   オペラは、竜騎兵伍長のドン・ホセが、カルメンに誘惑されて恋に落ち、婚約者ミカエラを捨てて軍隊を脱走して盗賊の仲間入りをする。しかし、すぐに、カルメンはホセに愛想をつかして闘牛士エスカミーリョに心を移し、嫉妬に狂ったドン・ホセは、歓声に沸く闘牛場の陰で、復縁を哀願するも拒絶されてカルメンを刺し殺す。

   冒頭、カルメンが歌う「ハバネラ」 恋は野の鳥 誰も手なずけられない・・・から、
   エスカミーリヨが歌う「闘牛士の歌」
   ドン・ホセが、カルメンが投げ与えた花を牢獄でも大切に慈しみ、カルメンに逢うことのみを思って耐えたと切々と歌う「花の歌」
   とにかく、美しくて感動的な長いアリアが、魅了してやまない。
   それに、ホセを愛して身を案じながら登場する許嫁ミカエラとの二重唱が、また、美しくて感動的で、実際の夫婦でもある所為もあって心に響く。
   インタビューで、ミカエラのクルジャックが、(オペラでは、カルメンにホセを取られるのだが)、家に連れて帰るので私の勝ちと言っていた。
   このクルジャック、実に素晴らしいソプラノで、来期、METで、蝶々夫人を歌うのだと言っていた。

   カルメン節と言うか、カルメンは、舞台でも映像でも随分観たり聴いたりしており、音楽音痴の私でもかなり脳裏にしみ込んでいるのだが、ルイ・ラングレの指揮は、最初から最後まで、感動の極み。
   カルメン歌手は、メゾ・ソプラノ、
   結構、何人かの素晴らしい舞台を見聞きしているが、若くてパンチが効いて、エキゾチックな美人マルゲーヌの魅力は抜群で、踊りも芝居も非常に上手くて、女性の多様性を総て秘めた女だと言うカルメンを感動的に演じて感激。
   アラーニャのドン・ホセは折り紙付きなので、コメントは蛇足。
   闘牛士エスカミーリョのヴィノグラドフは、容姿端麗、それに、バリトンの素晴らしさは抜群で、闘牛士が様になっている。

   ヴィノグラドフが、禁止前の闘牛を観たと言っていたが、闘牛がスペインで禁止されたとは知らなかったのでびっくりした。
   私は、もう、随分前だが、マドリッドとメキシコで、一突きで猛牛がダウンする凄い闘牛を観ていて、その迫力を良く覚えている。
   やはり残酷であり、隣にいた若いアメリカ人夫妻が耐えられないと呟いていたが、「それじゃ、ヴェトナムの悲惨な戦争はどうなのか」と聞いたら、「悪夢だ。言わないでくれ」と顔を伏せていた。

   それに、このオペラは、ジプシームード満開であるから、フラメンコやスペイン舞踊の素晴らしいシーンがふんだんに取り込まれていて、前奏曲や間奏曲でも、舞台でダンスが踊られていて美しい。
   カルメンの狂気や激しくも美しいスペイン気質爆発の踊りと音楽など、これは、マドリッドやバルセロナのナイトクラブで夜明け近くまで演じられる咽返るようなフラメンコの熱狂を観れば納得いくのだが、グラナダの洞窟で見たジプシーの素朴な舞踊の激しさに原点があるのであろうか。
   カルメンや仲間たちの踊りも半端ではなく本格的で素晴らしい。

   イギリスの演出家リチャード・エアの演出は、クラシックながら、本舞台の回り舞台と新設の二重の回り舞台をうまく活用して、実に機動的で、舞台とシーンが激変する舞台を器用に展開、流石である。

   この頃は、殆ど、オペラ鑑賞にオペラ劇場に通えなくなってしまったが、このMETライブビューイングの素晴らしさに、慣れてしまって楽しませてもらって居る。
   尤も、本物のMET公演鑑賞には、臨場感や本舞台独特の感動はあるのだが、これまでに、ロイヤルオペラを筆頭にして、METやスカラ座、ウィーン等々、実際にオペラ劇場へ、何十回も通い続けてきたので、それはそれ、
   とにかく、実際の相撲を国技館で見るのとテレビで見るのとの差に近いが、映画劇場の映像と音響は、本物のオペラ劇場公演とは違った別な感動も与えてくれるし、このMETライブビューイングは、素晴らしい企画だと思う。
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国立能楽堂・・・狂言「雪打」・能「藤戸」

2019年03月10日 | 能・狂言
   季節柄、狂言の「雪打」は面白かった。
   垣根や境界の障害物のない隣家との境で、若者(内藤運)が、自宅の庭に降り積もった雪を隣家の庭に、掃き出しているところへ、隣家の男・百姓(深田博治)が現れて、こんな時には、雪を丸めて自宅の庭で処理するのが決まりだと説明するのだが、子供は聞かない。そこへ、老僧(万作)が来たので、仲裁を頼むのだが、父のない子だから大目に見るように諭されたので、怒った百姓と子供は、雪の掛合いを始める。様子を見に来た女・母親(高野和憲)が現れて、僧と自分の関係は知らぬものがないのだから、子供の見方をせよと、3人で百姓に雪を掛けて逃げて行く。

   実は、この老僧は、未婚状態で女と夫婦関係にあると言う女犯戎を犯している不埒ものなのだが、万作師が演じると、どうしても、女を誑かして関係を結ぶと言った女犯僧には見えず、好々爺然とした老僧に見えて、まあ、ええじゃないかと言う気になるのが面白い。

   能・宝生流「藤戸」は、
   馬で海を渡る大手柄を立てて、恩賞に備前国児島を源頼朝から賜わった佐々木盛綱(ワキ/村山弘)は、現地に赴き訴訟はないかとふれたところ、一人の老女(前シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱に息子を殺された苦衷を訴え出る。盛綱が、渡海の手柄を立てたのは、この浦の男に浅瀬の場所を教わったからなのだが、口封じに男を殺して海に沈めた。しらを切っていたが、盛綱は、観冥界で苦しみ続ける念して、その時の様子を語ると、息子の最期の様子を聞いて母は泣き崩れ、わが子を帰せと迫るので、盛綱は男の供養を約束する。
その夜、盛綱たちが供養をしていると、水底から男の亡霊(後シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱の手柄に貢献したにも拘わらず殺されて冥界で苦しみ続けた恨冥界で苦しみと、そのときの苦痛を語るのだが、回向によって成仏なったことを感謝しながら消えて行く。

   この能を見ていて、室町時代の暗い世相を色濃く反映していると言う感じがしている。
   世阿弥の「夢幻能」も、シテが亡霊であったり、鬼や鬼神など神仏だったり、あの世の住人と自由往来の世界、しかし、祈りや念仏によって成仏するにしても、実に暗い世界が多い。
   この能のシテも、権力者にとっては、一顧だにされない漁師とその母であって、何故、能は、そのような底辺に蠢き呻吟する庶民の生きざまをテーマにして、これでもか、これでもかと、描き続けるのか。

   能「善知鳥」等、耐えられないほど残酷な曲で、苦しみながらも猟に熱中し殺生を生業とし、殺生を楽しみにした(?)哀れな猟師の運命の残酷さ。
   「ウトウ」と呼ばれた雛は「ヤスカタ」と鳴いて答えるので、何とも捕られやすい鳥、・・・空からは、雛を捕られた親鳥が血の涙を流す。・・・なおも降り注ぐ血の雨に、視界も遮られるばかり。辺り一面は、紅に染まり上がる・・・と言う筆舌に尽くしがたい悲惨さ残酷さ。

   御殿の美しい女御に恋をした庭師に、持ち上がれないほど重い重荷を持って庭を何度も往復すれば姿を拝ませようとして憤死させた「恋重荷」。
   同じように、女御に恋をした庭師に、桂の木に綾を張った鼓を掛けて打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言って入水させた「綾鼓」。
   決して叶うことの無い、身分違いの恋を揶揄したのか、それとも、そのような人間の味わう奥底の苦悩まで掘り下げたヒューマニズムの発露なのか、
   このようなテーマを題材にして、差別されていた庶民の苦しみ悲しみを描ききって芸術にまで昇華させた能の偉大さなのであろうが、世阿弥など当時の能楽師の生きざま立ち位置が色濃く反映されていよう。
   私など、暗くて悲惨な舞台を観ると、どうしても、顔を背けてしまうのだが、能は、イマジネーション過多のパーフォーマンス・アーツなので、それ程のめり込めず良く分からない初歩鑑賞者であるので、幸か不幸か・・・。

   日本史を学んでいて、独善と偏見だが、昔から、鎌倉と室町時代は、あまり好きではなく、敬遠勝ちであったが、能楽堂に通い始めて少しずつ勉強し始めている。
   まず、天変地異や蒙古来襲で疲弊していた宗教の時代であった鎌倉から、京都に移ったと雖も、応仁の乱などで荒れ果てた室町、
   そんな時代に高度な文化に育まれて大成した能・狂言であるから、当然、宗教色の濃厚な背景やテーマを体現するのであろうが、精神的には、最も研ぎ澄まされた純度の高い芸術環境であったのかも知れないと言う気もしている。
   
   何か、自分にも、良く分からないのだが、能を観る度に、同じフォーマンス・アーツの鑑賞にしても、シェイクスピアやオペラの世界との落差の激しさを感じている。
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3月琉球芸能公演「組踊と琉球舞踊」

2019年03月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今日の国立劇場は、「組踊と琉球舞踊」、天皇陛下御在位30年記念、国立劇場おきなわ開場15周年記念、組踊上演300周年記念実行委員会共催事業と銘打っての記念公演で、第2部の琉球舞踊の「汀間美童」から、天皇皇后両陛下がご来臨になり天覧公演となった。
   客席総立ちで、拍手喝采、お迎えお見送りをして、両殿下は、丁寧にお応えになっておられた。
   両陛下を間近に拝見するのは、1978年に、ブラジルで、日系ブラジル移民70周年記念の時の記念行事と晩餐会の時で、これが二度目、感激である。

   プログラムは次の通り、人間国宝以下、国立劇場おきなわが総力をあげての満を持しての大舞台であった。
   これまで、組踊は、能舞台で観た方が多いのだが、大劇場の大舞台にもしっくりフィットする素晴らしいパーフォーマンス・アーツなのである。

【第1部】 組踊「辺戸の大主(へどのうふぬし)」
辺戸の大主 宇座仁一
辺戸の大主の妻 阿嘉修
辺戸の比屋 石川直也
辺戸の子  川満香多
孫(娘) 大湾三瑠・東江裕吉・新垣悟・宮城茂雄・大浜暢明・田口博章・
伊野波盛人・仲村圭央
孫(若衆) 上原信次・玉城匠
孫(二才) 天願雄一・上原崇弘

地謡=<歌・三線>新垣俊道・仲村逸夫・仲村渠達也、
<箏>池間北斗、<笛>入嵩西諭、<胡弓>新城清弘、<太鼓>比嘉聰

【第2部】 琉球舞踊
浜千鳥(ちじゅやー)
松田恵・山川昭子・宮城りつ子・上原美希子
むんじゅる
玉城節子
汀間美童(てぃーまみやらび)
志田房子
花風(はなふう)
宮城能鳳
くば笠の鳩間節(くばがさのはとまぶし)
 大湾三瑠・阿嘉修・東江裕吉・新垣悟・田口博章

地謡=<歌・三線>新垣俊道・仲村逸夫・仲村渠達也/花城英樹・玉城和樹・神谷大輔、
<箏>池間北斗、<笛>入嵩西諭、<胡弓>森田夏子、<太鼓>宮里和希

【第3部】 組踊「二童敵討(にどうてぃちうち)」
あまおへ 玉城盛義
鶴松 佐辺良和
亀千代 宮城茂雄
母 海勢頭あける
供 石川直也・宇座仁一・玉城匠
きやうちやこ持ち 上原信次

地謡=<歌・三線>西江喜春・花城英樹・玉城和樹・神谷大輔、
<箏>宮里秀明、<笛>宮城英夫、<胡弓>新城清弘、<太鼓>比嘉聰

   今回は、最前列ほぼ中央の席を取ったので、存分に楽しませてもらった。
   今年11月の国立能楽堂の組踊の舞台を楽しみにしている。

   組踊「辺戸の大主」は、120歳の太主の祝で、家族全員が集まって、踊り歌って長寿を寿ぐと言う祝祭ムード全開の組踊で、大主の前で、琉球舞踊の「女舞」を中心に、「若衆踊」「二才踊」そして、最後に、太主たちが踊る「老人踊」が踊られると言う、組踊と琉球舞踊が、一気に楽しめると言う興味深い組踊である。
   松竹梅と鶴亀をあしらった紅型模様の薄膜の幕をバックにして優雅な踊り風景が展開されるのだが、その薄膜の陰に陣取った地謡の人々の姿が微かに見えて、サウンド効果を存分に楽しませてくれる。
   とにかく、すべて男性であるはずなのだが、「女舞」の優雅さ美しさ、
   沖縄出身の美人女優が多いのだが、この「女舞」の達人たちは、びっくりするほど美しくて魅力的である。

   琉球舞踊は、組踊と違って、最後の「ば笠の鳩間節」以外は、全員女性の舞踊家の舞台で、組踊の踊りと一寸した差があって興味深かった。 
   創作舞踊の「汀間美童(てぃーまみやらび)」は、志田房子師の自作自演で、ダークブルー一色ののバックに、やや上手よりの中空に大きな満月、優雅で静かな踊りから始まる素晴らしい踊りであった。
   花風(はなふう)は、人間国宝宮城能鳳師の凄い踊り。
   愛しい人を思いながら、「私は一人どうしてお待ちしましょうか」地謡の楽に乗って、後ろを向いて、広げてさした傘の端を左手で摘まんで、静かに静かに下手に消えて行くラストシーン。

   組踊「二童敵討」は、私など知識不足なので、「曽我兄弟」の仇討物語がオリジンだと思ったのだが、能「放下僧」だと言う。
   能「放下僧」は、
   下野国の牧野小次郎は父の仇利根信俊を討とうと、兄の加勢を頼んだところ、出家の身故に断られるのだが、中国の故事を引用し説得して、2人は仇討ちを決心する。敵に近づくために、放下になって故郷を後にする。利根信俊は夢見の悪いので瀬戸の三島神社に参詣する途中で 浮雲・流水と名乗る2人の放下に出逢い、2人は団扇の謂れや弓矢のことを面白く語り、禅問答を交わしたりして取り入る。2人は曲舞や鞨鼓、小歌などさまざまな芸を見せて相手を油断させ、その隙をついて敵討ちを果たす。

   一方、組踊「二童敵討」は、
   天下取りの野望に燃える勝連城主の按司[城主]阿麻和利(あまおへ)は、首里王府に偽りを言って、邪魔な中城城主・護佐丸を攻め滅ぼし、同時に、その子ども達も皆殺しして根絶やししたと豪語して、天下取りのため近く首里王府へも攻め入ろうと考えて、野に出て酒宴を広げ遊び惚けて、勝ち戦のための願等家来に準備を命ずる。
ところが、殺したはずの護佐丸の遺児鶴松と亀千代の兄弟は、落城の際に敵の目を逃れて生きていて、母のもとで成長し、敵を討つ機会を狙っていた。仇討を決心した2人は、阿麻和利が野遊びをすると聞きつけて、酒盛りをしているところに、踊り子に変装して近づく。美少年の踊りを見て感激した阿麻和利が、踊りを所望し、杯を注がせ、2人の踊りに良い気持ちになって酒をあおって酔いつぶれて、気が大きくなって、褒美に、自らの大団扇と太刀を与え、さらに、自ら着ている羽織なども、次々に与える。2人の兄弟は、丸腰になって醜態を晒した阿麻和利のすきを見逃さずに追い込んで、首尾よく父の敵を討つ。

   仇討ものでは、良く似た有名曲で、組踊「万歳敵討(まんざいてきうち)」があり、
   浜下り(はまおり)を聞きつけた謝名兄弟が、旅芸人に姿を変え浜遊びの場に近づいて高平良御鎖を追い詰め、見事父の敵を討ち果たす。と言う物語である。
   組踊には、仇討物が多いようだが、歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・文化の全般を支配して儒教の影響もあって、接待される中国人冊封使には、大変喜ばれたのだと言う。

   この組踊の「二童敵討」だが、殆ど能に近い動きの少ない舞台なのだが、しかし、阿麻和利(あまおへ)は、能ほどセーブした立ち居振る舞いではなくて、動きも表情もかなりリアルに演じているので、その意味では、見得の美しさも含めて歌舞伎の舞台にやや近いと言う感じはするのだが、そのあたりの微妙な差は、非常に興味深い。
   それに、阿麻和利のトドメを刺すシーンは、舞台上では表現せずに、舞台の陰に追い込んで、その後、兄弟が登場して成功を述べ「踊って戻ろう」と舞台を後にして終わると言う、舞台を綺麗に終わらせると言う感じで、これまで見た組踊の舞台も、ハッピーエンドないし綺麗なエンドであったような気がする。
   これが、沖縄芸術の美意識なのであろう。
   この舞台での見せ場は、阿麻和利の登場の名乗りと見得、母と兄弟との別れ、兄弟の優雅な踊り、阿麻和利が酔っ払って次から次への「取らそう、取らそう」と丸腰になっていくところ等々、これも、能より動きや表現が、ビビッドであるところが、面白い。

   組踊は、優雅で美しくて、何度見ても感激するのだが、どこか、もの悲しい哀調を帯びたサウンドと独特な抑揚の口調に、琉球と言うか沖縄のイメージとダブって感慨を禁じ得ない。
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わが庭・・・椿:式部、エレガンス・スプレンダー、白羽衣咲く

2019年03月06日 | わが庭の歳時記
   門扉の両脇の植え込みに、椿も植えてあるのだが、その一本、まず、左側の式部が咲き始めた。
   卜伴の自然実生だと言う唐子咲きの奇麗な色彩の椿である。
   外辺の鮮やかな深紅の花弁に抱え込まれて、花弁化した蕊の白交じりの束の中から黄色い雄蕊が顔を覗かせる風情は、何となく豪華で、京の雅を連想させる。
   
   
   
   
   

   先月、園芸店から買ったエレガンス・スプレンダーが咲き始めた。
   まだ、50センチ弱の小さな苗木なので、一応、花が確認できたので、花と蕾を落として、今年は、苗木の育成に力を入れようと思っている。
   庭植えして4年経つエレガンス・シュプリームとエレガンス・シャンパンは、大分、大きく育って、まだ、蕾は固いが、月末には、咲き揃うと思うが、3兄弟が並ぶと豪華であろう。
   
   
   

   白羽衣も咲きだした。
   ピンクの羽衣が親で、赤羽衣と白羽衣があって、これらも千葉の庭には植えていたが、この鎌倉では、白羽衣だけを植え始めた。
   今、一輪咲いただけだが、この椿は、千葉の玄関口で、純白で美しい豪華な花を咲かせてくれて、素晴らしかったのだが、それまでには、少なくとも十数年はかかる。
   それに、花弁が華奢であり、鮮やかで真っ白な花なので、傷がつくことが多くて、無傷の純白の大輪は稀だが、感激するほど優雅で美しい。
   
   
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坂井 音重 著「世を観よ」

2019年03月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   観世流能楽師坂井音重氏の随想集「日本文化の精粋」と銘打った美学の本だと言う。
   日本のみならず、フランス、アメリカ、中国、ロシアなど世界でも舞い続ける能楽師で、能楽オンリーではなくて、かなり、高度で密度の高い文化文明論も展開しており、興味深い。

   まず、最初の「日本の四季」について、
   冒頭、大宰府の天満宮の梅の話から、菅原道真、そして、能「雷電」の話へ進み、道真の失脚は、対中国の外交路線をめぐる国内の意見対立にあったと、仏教伝来、鑑真上人の来日、唐招提寺の建立、空海、最澄の渡航、そして、文学、芸能を通じての深い関係などについて論じる。

   邸宅には、かなりの庭があるのであろう、玄関先の紅梅と白梅、坪庭の白梅の咲き具合などを愛でながら、その生命力、自然との調和、生きと生きる万物の尊さを感じて感動する。
   やはり、能楽師なので、四季や日本の自然を語っていても、命の水では、能「養老」、自宅に咲く枝垂れ桜や御衣黄を見て能「熊野」、秋霜や紅葉から能「小鍛冶」、秋の月影を思って能「雨月」などなど、能のストーリーや能舞台での思いを開陳していて興味深い。

   坂井師の年代が、私より少し先輩と言うところなので、子供の頃の、日本人の生活風景や習慣などの思い出は、共有しているので、懐かしい。
   夏など、エアコンがなかったので、打ち水やうちわで涼を取るのが普通で、扇風機が文明の利器と言う時代であったから、とにかく、自然にどっぷりの生活であり、葦や細く割った竹を編んだ「簾障子」で部屋を仕切って風を通し、簾やよしずで日除けや目隠しをして、涼を感じる。
   それが、普通の生活であったので、当時は何とも思わなかったのだが、今思うと、結構、情緒と言うか風情を感じて面白い。
   私など、宝塚の田舎で幼少年時代を過ごしたので、庭に床几を出して、うちわをパタパタ、夜風を楽しみながら夕涼みをしていたのを思い出す。

   この「日本の四季」では、自宅の庭の花木について触れていて、梅や桜の木が何本かずつ植わっていて、枇杷の木もあると言うのであるから、立派な庭であろう、
   「私は朝にまず梅の花を見る。」と言うほどであるから、四季の移り変わりを、身近に感得しながら、生活しているので、かなり、ビビッドに描写されている。
   私なども、同じように庭に出て、日々移り変わっていく、庭の花木の咲き具合や変化を楽しんでいるので、良く分かるし、それを題材にして、能を語っているので、興味が湧いてくる。
   先月末、国立能楽堂で、喜多流の能「石橋」で、白頭と赤頭を着けた二人の獅子が登場して、牡丹の花に戯れて豪快に舞う舞台を観たが、この牡丹など、楊貴妃が愛でて脚光を浴びたのだが、花の白眉と言うべきで、特に、歌舞伎の舞台では、豪華な襖絵など異彩を放つ。

   この本の冒頭部分だけ読んで、この文章を書いているのだが、それ以降は、「日本文化と西洋」「美味しい食の話」「世の中を思う」等々、もっと、幅が広くて奥行きのある文化文明論を開陳していて、非常に面白い。

   わが庭の花々のショットを数枚、
   
   
   
   
   
   
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3月3日は、桃の節句 ひな祭り

2019年03月03日 | 生活随想・趣味
   私には、二人の娘がいるので、3月3日のひな祭りには、毎年、雛飾りをしている。
   しかし、長女が生まれてしばらくして、アメリカへ留学し、帰国後、すぐに、ブラジルへ赴任したので、ほぼ6年間日本には居らず、七五三もサンパウロで行った程であるから、雛人形を娘に買ってやったのは、ブラジルから帰って来てからである。
   新年早々だったと思うが、東京での土地勘がなかったので、とりあえあず、浅草橋の人形店街へ出かけて見て回って、結局、駅前の秀月で、展示されていた一番高い雛人形を選んで買った。
   二人の孫息子に、五月人形を、それぞれ、買ってやったが、これらも、この秀月で買っている。

   さて、その後、数年して、ヨーロッパへ赴任したのだが、ひな人形を持って行けずに、倉庫に預けたままであったのだが、大切に扱って来たお陰か、もう、40年近く経つのだが、殆ど、新品そのものの美しさを維持している。
   長女から次女へ、そして、現在は、次女の娘、すなわち、孫娘のために飾っており、三代のお務めである。
   
   毎年、2月の適当な時期に、雛人形を出して、和室に飾っているのだが、納戸からの出し入れを含めて、結構大変で、2時間くらいかかってしまう。
   一年に一回なので、手順を忘れたりするので、マニュアル通りに飾っているつもりなのだが、慣れで適当に並べて失敗する時もある。
   雛飾りの男雛と女雛の位置が、昔は、今とは左右逆になっていたのだが、昭和三年の昭和天皇御大典の際、天皇が西洋にならって向かって左側に立たれたために、その後、東京の人形店の主導で今のように飾るようになったのだと言う。
   ところが、随身の左大臣と右大臣の位置は、逆転していないようなので、何故か、気になっている。
   また、京都では、今でも、日本の古来からの伝統を固守して雛人形を飾っていると言うのだが、上方意識の残照かと思うと面白い。
   左と右とでは、どちらが上かと言うことだが、中国では王朝によって左右逆転していたようだが、左が上だと言う王朝時代に日本は倣ったのであろう、西洋では、RIGHTで、右側が上位であり、昭和天皇は、これに倣ったと言うことである。

   孫娘が通っている保育園には、色褪せたクラシックな雛人形があって、一部道具が欠落しているなど問題があるのだが、それなりに、風格があって伝統を感じさせて良い。
   関西オリジンの人形であろうか、以前には、男雛と女雛の位置が逆になっていたので、関東だから、東京風に変えたらどうかと言ったら、去年からそうなっている。
   もう一つ、気になったのは、五人囃子の楽器や扇子の持ち方や並び方で、私なども、いい加減であったのだが、能狂言鑑賞で能楽堂に通い始めると、間違う訳には行かなくなるので、一つ一つ並び替えた。
   実際には、人形の手に楽器がうまく掴ませられなくて、能舞台の囃子方のように、楽器を人形に正しく持たせられないのだが、三人官女や随身の左大臣右大臣や仕丁などの微妙な差や道具類の並べ方など、細かいことになると、結構、大変なのである。

   わが家の雛人形飾りは、私の年中行事なのだが、奇麗ねえと娘や孫たちが言ってくれるので、喜んでいる。 
   買った時には、新宿のマンションで、小さくなっていたのだが、その後、一戸建て住宅に移って10畳の部屋に居を移したので、雛人形たちも、伸び伸びとしている。
   次の写真は、わが家の雛人形。下の方は、洋菓子店レ・シューで、孫娘に注文したひなまつりデコレーション・ケーキのトッピング飾りの人形だが、可愛いので残しておいて写したもの。
   
   
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わが庭・・・椿:仙人卜半、ジュリア・フランス、トムタム、桃太郎咲く

2019年03月02日 | わが庭の歳時記
   急に、暖かくなったので、椿が、また、咲き始めた。
   今年は、暖冬の所為か、花木の開花が少し早いような感じで、椿も、今月末までには、咲ききるのではないかと言った勢いである。

   まず、仙人卜半、ピンクの唐子咲きで、花弁化した蕊は、ピンク交じりの白色で、面白い雰囲気の花である。
   
   

   久しぶりに、淡いピンクのジュリア・フランスも咲きだした。
   この椿苗は、タキイ種苗から買ったのだけれど、ほかの育種業者では、白花だと説明されていて、形は同じなので、バリエーションがあるのであろうか。
   フランスのジュリア社の花は、随分長く栽培しているジュリア・バーがあるが、蕾が色づき始めたので、もうすぐ、開花するであろう。
   
   
   

   庭植えして3年目だが、桃太郎は、1輪だけ咲いた。
   苗木を庭植えすると、広い土壌に馴染むのに時間がかかって、数年間、殆ど花が咲かないのが普通で、わが庭でも、天賜、薩摩紅、王冠、花富貴などは、今年は蕾をつけなかった。
   桃太郎は、底白の匂うように美しいピンクの天賜に、雰囲気が似ているので育て始めたのだが、華やかな佇まいが好ましい。
   
   

   もう一つ、咲き始めたのは、トムタム。
   桃色に白覆輪の花弁が幾重にも重なる千重~風車状咲きの椿で、奇麗に開花すると、至宝のような雰囲気になる。
   この写真は、最初に咲き始めた一輪だが、雨に打たれると、華奢な花弁が張り付いて、完全に開き切らないので、その直前のものである。
   この木も、苗木を庭植えしたのだが、毎年咲いてくれている。
   
   

   バラやアジサイが、動き始めた。
   3月であるから、もう春。
   先日、庭の蕗の薹を摘んで、天婦羅にして頂いたが、正に、春の味覚である。
   春は、庭好きにとっては、至福の時でもあり、これからが楽しみである。
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