季節柄、狂言の「雪打」は面白かった。
垣根や境界の障害物のない隣家との境で、若者(内藤運)が、自宅の庭に降り積もった雪を隣家の庭に、掃き出しているところへ、隣家の男・百姓(深田博治)が現れて、こんな時には、雪を丸めて自宅の庭で処理するのが決まりだと説明するのだが、子供は聞かない。そこへ、老僧(万作)が来たので、仲裁を頼むのだが、父のない子だから大目に見るように諭されたので、怒った百姓と子供は、雪の掛合いを始める。様子を見に来た女・母親(高野和憲)が現れて、僧と自分の関係は知らぬものがないのだから、子供の見方をせよと、3人で百姓に雪を掛けて逃げて行く。
実は、この老僧は、未婚状態で女と夫婦関係にあると言う女犯戎を犯している不埒ものなのだが、万作師が演じると、どうしても、女を誑かして関係を結ぶと言った女犯僧には見えず、好々爺然とした老僧に見えて、まあ、ええじゃないかと言う気になるのが面白い。
能・宝生流「藤戸」は、
馬で海を渡る大手柄を立てて、恩賞に備前国児島を源頼朝から賜わった佐々木盛綱(ワキ/村山弘)は、現地に赴き訴訟はないかとふれたところ、一人の老女(前シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱に息子を殺された苦衷を訴え出る。盛綱が、渡海の手柄を立てたのは、この浦の男に浅瀬の場所を教わったからなのだが、口封じに男を殺して海に沈めた。しらを切っていたが、盛綱は、観冥界で苦しみ続ける念して、その時の様子を語ると、息子の最期の様子を聞いて母は泣き崩れ、わが子を帰せと迫るので、盛綱は男の供養を約束する。
その夜、盛綱たちが供養をしていると、水底から男の亡霊(後シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱の手柄に貢献したにも拘わらず殺されて冥界で苦しみ続けた恨冥界で苦しみと、そのときの苦痛を語るのだが、回向によって成仏なったことを感謝しながら消えて行く。
この能を見ていて、室町時代の暗い世相を色濃く反映していると言う感じがしている。
世阿弥の「夢幻能」も、シテが亡霊であったり、鬼や鬼神など神仏だったり、あの世の住人と自由往来の世界、しかし、祈りや念仏によって成仏するにしても、実に暗い世界が多い。
この能のシテも、権力者にとっては、一顧だにされない漁師とその母であって、何故、能は、そのような底辺に蠢き呻吟する庶民の生きざまをテーマにして、これでもか、これでもかと、描き続けるのか。
能「善知鳥」等、耐えられないほど残酷な曲で、苦しみながらも猟に熱中し殺生を生業とし、殺生を楽しみにした(?)哀れな猟師の運命の残酷さ。
「ウトウ」と呼ばれた雛は「ヤスカタ」と鳴いて答えるので、何とも捕られやすい鳥、・・・空からは、雛を捕られた親鳥が血の涙を流す。・・・なおも降り注ぐ血の雨に、視界も遮られるばかり。辺り一面は、紅に染まり上がる・・・と言う筆舌に尽くしがたい悲惨さ残酷さ。
御殿の美しい女御に恋をした庭師に、持ち上がれないほど重い重荷を持って庭を何度も往復すれば姿を拝ませようとして憤死させた「恋重荷」。
同じように、女御に恋をした庭師に、桂の木に綾を張った鼓を掛けて打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言って入水させた「綾鼓」。
決して叶うことの無い、身分違いの恋を揶揄したのか、それとも、そのような人間の味わう奥底の苦悩まで掘り下げたヒューマニズムの発露なのか、
このようなテーマを題材にして、差別されていた庶民の苦しみ悲しみを描ききって芸術にまで昇華させた能の偉大さなのであろうが、世阿弥など当時の能楽師の生きざま立ち位置が色濃く反映されていよう。
私など、暗くて悲惨な舞台を観ると、どうしても、顔を背けてしまうのだが、能は、イマジネーション過多のパーフォーマンス・アーツなので、それ程のめり込めず良く分からない初歩鑑賞者であるので、幸か不幸か・・・。
日本史を学んでいて、独善と偏見だが、昔から、鎌倉と室町時代は、あまり好きではなく、敬遠勝ちであったが、能楽堂に通い始めて少しずつ勉強し始めている。
まず、天変地異や蒙古来襲で疲弊していた宗教の時代であった鎌倉から、京都に移ったと雖も、応仁の乱などで荒れ果てた室町、
そんな時代に高度な文化に育まれて大成した能・狂言であるから、当然、宗教色の濃厚な背景やテーマを体現するのであろうが、精神的には、最も研ぎ澄まされた純度の高い芸術環境であったのかも知れないと言う気もしている。
何か、自分にも、良く分からないのだが、能を観る度に、同じフォーマンス・アーツの鑑賞にしても、シェイクスピアやオペラの世界との落差の激しさを感じている。
垣根や境界の障害物のない隣家との境で、若者(内藤運)が、自宅の庭に降り積もった雪を隣家の庭に、掃き出しているところへ、隣家の男・百姓(深田博治)が現れて、こんな時には、雪を丸めて自宅の庭で処理するのが決まりだと説明するのだが、子供は聞かない。そこへ、老僧(万作)が来たので、仲裁を頼むのだが、父のない子だから大目に見るように諭されたので、怒った百姓と子供は、雪の掛合いを始める。様子を見に来た女・母親(高野和憲)が現れて、僧と自分の関係は知らぬものがないのだから、子供の見方をせよと、3人で百姓に雪を掛けて逃げて行く。
実は、この老僧は、未婚状態で女と夫婦関係にあると言う女犯戎を犯している不埒ものなのだが、万作師が演じると、どうしても、女を誑かして関係を結ぶと言った女犯僧には見えず、好々爺然とした老僧に見えて、まあ、ええじゃないかと言う気になるのが面白い。
能・宝生流「藤戸」は、
馬で海を渡る大手柄を立てて、恩賞に備前国児島を源頼朝から賜わった佐々木盛綱(ワキ/村山弘)は、現地に赴き訴訟はないかとふれたところ、一人の老女(前シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱に息子を殺された苦衷を訴え出る。盛綱が、渡海の手柄を立てたのは、この浦の男に浅瀬の場所を教わったからなのだが、口封じに男を殺して海に沈めた。しらを切っていたが、盛綱は、観冥界で苦しみ続ける念して、その時の様子を語ると、息子の最期の様子を聞いて母は泣き崩れ、わが子を帰せと迫るので、盛綱は男の供養を約束する。
その夜、盛綱たちが供養をしていると、水底から男の亡霊(後シテ/小林与志郎)が現れて、盛綱の手柄に貢献したにも拘わらず殺されて冥界で苦しみ続けた恨冥界で苦しみと、そのときの苦痛を語るのだが、回向によって成仏なったことを感謝しながら消えて行く。
この能を見ていて、室町時代の暗い世相を色濃く反映していると言う感じがしている。
世阿弥の「夢幻能」も、シテが亡霊であったり、鬼や鬼神など神仏だったり、あの世の住人と自由往来の世界、しかし、祈りや念仏によって成仏するにしても、実に暗い世界が多い。
この能のシテも、権力者にとっては、一顧だにされない漁師とその母であって、何故、能は、そのような底辺に蠢き呻吟する庶民の生きざまをテーマにして、これでもか、これでもかと、描き続けるのか。
能「善知鳥」等、耐えられないほど残酷な曲で、苦しみながらも猟に熱中し殺生を生業とし、殺生を楽しみにした(?)哀れな猟師の運命の残酷さ。
「ウトウ」と呼ばれた雛は「ヤスカタ」と鳴いて答えるので、何とも捕られやすい鳥、・・・空からは、雛を捕られた親鳥が血の涙を流す。・・・なおも降り注ぐ血の雨に、視界も遮られるばかり。辺り一面は、紅に染まり上がる・・・と言う筆舌に尽くしがたい悲惨さ残酷さ。
御殿の美しい女御に恋をした庭師に、持ち上がれないほど重い重荷を持って庭を何度も往復すれば姿を拝ませようとして憤死させた「恋重荷」。
同じように、女御に恋をした庭師に、桂の木に綾を張った鼓を掛けて打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言って入水させた「綾鼓」。
決して叶うことの無い、身分違いの恋を揶揄したのか、それとも、そのような人間の味わう奥底の苦悩まで掘り下げたヒューマニズムの発露なのか、
このようなテーマを題材にして、差別されていた庶民の苦しみ悲しみを描ききって芸術にまで昇華させた能の偉大さなのであろうが、世阿弥など当時の能楽師の生きざま立ち位置が色濃く反映されていよう。
私など、暗くて悲惨な舞台を観ると、どうしても、顔を背けてしまうのだが、能は、イマジネーション過多のパーフォーマンス・アーツなので、それ程のめり込めず良く分からない初歩鑑賞者であるので、幸か不幸か・・・。
日本史を学んでいて、独善と偏見だが、昔から、鎌倉と室町時代は、あまり好きではなく、敬遠勝ちであったが、能楽堂に通い始めて少しずつ勉強し始めている。
まず、天変地異や蒙古来襲で疲弊していた宗教の時代であった鎌倉から、京都に移ったと雖も、応仁の乱などで荒れ果てた室町、
そんな時代に高度な文化に育まれて大成した能・狂言であるから、当然、宗教色の濃厚な背景やテーマを体現するのであろうが、精神的には、最も研ぎ澄まされた純度の高い芸術環境であったのかも知れないと言う気もしている。
何か、自分にも、良く分からないのだが、能を観る度に、同じフォーマンス・アーツの鑑賞にしても、シェイクスピアやオペラの世界との落差の激しさを感じている。