熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

スティグリッツ:共和党が合衆国を危機に追いやる

2020年10月09日 | 政治・経済・社会
   Project Syndicateが、Oct 2, 2020に、JOSEPH E. STIGLITZのコラム「The Republican Threat to the Republic」を掲載した。
   アメリカの民主主義が危機に直面しており、今回の大統領選挙でも、上下両院選挙でも、民主党が、地滑り的大勝をしないと、民主主義を守れないと、国民に極めて激烈な檄を飛ばした。
   スティグリッツ教授が、これほど厳しい口調で、トランプや共和党を攻撃をしたのを、これまでに聞いた覚えがない。
   当然、アメリカに学術会議があれば、排除されるのは必然であろう。

   冒頭から辛辣で、ネロがローマが大火で炎上しているのに浮かれ遊んでいたように、トランプは、カリフォルニアが大火に見舞われ、それに、新型コロナウイルスで国民の20万人以上が亡くなっているのに、自分の赤字まみれのゴルフ場でゴルフに興じている。トランプは、疑いもなく、ネロのように、例を見ないほど残酷な、非人間的な、そして、おそらく狂人政治家として記憶されるであろう。これまで、世界中の多くの人々は、断片的であろうとも、トランプが、イブニングニュースやメディアで、ポンポン嘘やナンセンスな発言を連発しているのを見聞きして、アメリカの悲劇に慣れっこになって居るであろう。先の大統領選挙 のテレビ討論で、トランプは、疑いの余地なく、大統領に値しないことを自ら示し、多くの人々に、メンタルヘルスを疑わせた。と書いている。
   ワシントン・ポストによると、過去四年間7月中旬までに、トランプは、病的な欺瞞や誤解を招く発言を二万回という記録破りだと言う。
   ニューヨーク・タイムズが報じた脱税と750ドルの所得税や、討論会での白人至上主義者や the Proud Boysへの発言などに言及して、トランプの振る舞いは、アメリカの民主主義への直接的な脅威だとスティグリッツは、言うのである。

   トランプの問題もそうだが、スティグリッツ教授の問題とするのは、トランプと共和党が、民主主義の危機を益々増幅させているという現実のアメリカの政治である。

   子供の頃は、アメリカ憲法が保障する自由平等原理や三権分立が有効に働き、誇りに思っていて、1990年代に世銀で働いていた頃には、アメリカが世界の模範であると人々に説き続けてきた。
   今や、そうではなくなった。
   トランプと同僚共和党員たちが、アメリカのプロジェクトに陰を落とし、米国の組織や憲法の秩序が、如何にひ弱で欠陥があるかを思い知らせた。
   アメリカは、法治国家である。
   しかし、システムを動かしているのは政治的規範(norms)である。規範は、柔軟性があるが、また、脆弱である。
   ジョージ・ワシントンが、大統領二期制を敷き憲法にも規定され、ルーズベルトを例外にして踏襲されてきた。トランプと共和党は、これに手をつけようとしている。トランプは、脱税が怪しくなると検察官を罷免し、利益相反はやるは、独立の科学者や批判勢力を排除するは、政敵を排除するために外国政府を利用するは、やりたい放題をしている。

   今、我々アメリカ人は、わが民主主義が存続できるかどうかを疑問視している。建国時代の人々の最大の懸念は、デマゴーグ(煽動的民衆指導者)が出現して内部からシステムを破壊することであった。そのために、選挙人団を保持する間接民主主義体制を取り、チェック&バランスを強化するシステムを構築した。しかし、233年後の今、この制度的構造が、最早、十分強力ではなくなった。共和党、特に上院は,トランプが、米国憲法の秩序や選挙プロセスに公然と戦争を仕掛けてきたのに、危険で間違った人物をチェックする責任を全くミスっている。

   眼前には、パンデミックのコントロール、格差の拡大、気候変動の危機などが横たわっているが、緊急課題は、民主主義を救うことである。共和党が、任務を怠ってきたので、民主主義基準が、法律に置き換わることになろう。しかし、これは容易なことではない。遵守されるときには、基準は、法律よりも、将来の事情に容易に適応されるので、法律より望ましいのである。特に、アメリカのように、訴訟好きな社会では、精神を無視して、法律を掻い潜ろうとする。
   一方が法を無視すれば、規制が必要であるが、朗報として、最近成立した民主的な選挙などへのthe People Act of 2019が役に立っており、また、銃規制、最低賃金アップ、環境保全、財政の健全化、健康保険、就学前教育補助、大学入学振興、政治への金銭の制限等々多くの重要課題において、米国国民の要望が強くなって、共和党は、少数派になりつつある。

   共和党は、既に、悪魔と取引をしているので、アメリカの民主主義を改善して保護するためにサポートするとは絶対に思えないので、アメリカに残された唯一の選択肢は、来月の大統領選挙において、民主党が、大統領は勿論、上下両院、州知事等総ての分野の選挙で、圧倒的な勝利を収めることである。もし、これに失敗すれば、世界中の民主主義の敵が、勝利して、民主主義が危機に陥てしまう。

   まさに、民主主義が、岐路に立っていると言う指摘で、スティグリッツの危機意識は強い。
   私は、スティグリッツの経済学については、このブログで何度も書いており、リベラルな見解については全く異存はない。

   3年前に、アメリカの100名以上の精神科医や精神衛生の専門家で構成される団体Duty to Warn PACは、「トランプ大統領は危険なナルシストであり、大統領を辞任すべきだ」とトランプ大統領の精神面での問題について警告するため、アメリカ全域での抗議デモを開催した。と報道されていた。
   また、直近では、
   創刊175年の「サイエンティフィック・アメリカン」誌が、米最古の雑誌で不偏不党の伝統を破ってバイデン氏支持を表明した、 反科学のトランプ氏に我慢の限界だと言う。
   200年以上の伝統を持ち世界的に知られるアメリカの医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」は、新型コロナウイルスをめぐるトランプ政権の対応によってアメリカは危機的な状況に追い込まれているとする論説記事を掲載し、トランプ政権の新型コロナウイルスをめぐる対応は不適切だと批判したうえで、政権交代を訴える論説記事を掲載した。
   また、
   トランプが、如何に、大統領として不適切か、ジョン・ボルトンの『THE ROOM WHERE IT HAPPENED』 姪のメアリー・トランプ『TOO MUCH AND NEVER ENOUGH』を筆頭に何冊か暴露本が出ており、私は、その何冊かを読み始めたのだが、途中で止めてしまった。

   私が疑問に思うのは、これだけ問題の多いトランプが、どんなにマスコミに悪事を暴露され叩かれても、米国国民の40%近くが、トランプの岩盤支持者であって、トランプ人気が崩れないと言う不思議である。
   逆に考えれば、これこそ、アメリカの民主主義が息づいていると言うことであろうか。と皮肉も言いたくなる。

   トランプは、私と同じウォートン・スクールの同窓であり、アメリカ最古のUniversityであるそのペンシルバニア大学を創立したベンジャミン・フランクリンは、米国の建国に最大の貢献をした民主主義の権化とも言うべき大偉人であり、大学には民主主義の精神が脈々と流れていた筈なのだが、どこで、どう道を間違ったのか。スティグリッツが憧れてやまない我々の願いであるアメリカ建国と独立の魂が横溢していたフィラデルフィアのキャンパスを忘れたのであろうか、そんなことをフッと思うことがある。
   
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わが庭・・・椿:久寿玉の枝変わり花

2020年10月08日 | わが庭の歳時記
   先に一輪だけ咲いた久寿玉だが、又咲き出したと思ったら、今度は、一寸違った感じの花が咲いた。
   
   椿の花は、雑種が多いし、園芸種の大半は交雑種なので、先祖返りをして、元の性質が表れるので、花図鑑や園芸本のように典型的な花は、珍しいと言っても良かろう。
   以前に、似ても似つかない花が咲いたので、園芸店にクレイムしたことがあるのだが、これなどは、名札タグの誤りだったものの、変った花が咲いて嬉しかったこともあるので、これも、ガーデニングの楽しみであろう思って、最近では、枝変わりによる変わり花が咲くのを期待している。
   久寿玉は、淡いピンク地に、紅色の吹掛絞の入った八重の牡丹咲きの椿で、この花は何年か前に咲いただけで、今回は、ピンク地の花は、蘂が中央によった筒咲きになっていて、これも、雰囲気が違っている。
   もう一つの赤い牡丹咲き崩れの花は初めてである。
   
   
   
   

   曙椿が、一輪咲き始めた。
   この花は、一斉に咲き出すと、華やかである。
   紅茜が一輪咲き始めたのだが、鵯に落とされてしまった。
   酔芙蓉が咲いた。しかし、一日中雨であったので、夕方になっても、酔わずに色が変らず、白い花のままであったのが面白い。

   キンモクセイの花が落ちて、地面は一面にオレンジ色の絨毯、
   雨に濡れてプーンと甘い匂いを漂わせている。
   
   
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実際の翻訳や通訳にも難しさ

2020年10月07日 | 
   便利にはなりつつあるのだが、まだ、実用にはほど遠いAIによる機械翻訳の限界について書いてきた。
   しかし、実際の翻訳や通訳にも限界があって、これまで、色々な不都合に遭遇しており、その難しさを感じている。
   
   まず、私自身、経済学や経営学の本で、主に英語からの翻訳本を読むことが多い。
   最近では、随分、翻訳の質が向上したと思うのだが、それでも、時々、意味不明となって原文に当たりたくなる。
   原書を買って並行読みすれば良いのだが、それもままならず、その部分を飛ばして推察読みしているので、それ程不都合はない。
   原書を直接読めば良いのだが、歳の所為もあって、MBAの頃の馬力も意欲も失せてしまって、楽な翻訳で済ませている。
   大学生時代には、翻訳書も少なかったのだが、酷い翻訳本が出ていた。
   英米の政治経済社会などの制度なり仕組みが分っておらず、頓珍漢な翻訳に出くわすことが多かったような気がしたのだが、このあたりの微妙な感覚は、欧米での生活が長くなって実際に体感してから、気づくことになった。

   英語の専門書などの翻訳で大切だと思うことは、翻訳者が、英語の実力が相当程度に高くて、それに、その専門分野において専門家であるか、その分野の知識が十分あることである。
   願わくば、欧米で生活した経験があるなど、欧米の社会への接触経験があることが望ましい。
   科学の世界なら、比較的言語だけで正確に表現され得ても、社会科学というか人文科学の分野では、その背景にある変転極まりない歴史や社会現象などが錯綜しているので、対象となっている分野に関する直の知識なり理解があるに越したことはないのである。

   これは、新井教授の意味を理解できないAIの機械翻訳とも関係あると思うのだが、国が違って政治経済社会が違い、歴史伝統が違えば、同じ言葉であっても、その意味する内容に大きな差があって、その違いが分っていなければ、誤解をしてしまうと言うことである。
   例えば、銀行という単語だが、英語ではBANK、ポルトガル語ではBANCO。
   今のことは分らないのだが、私がブラジルに居た頃のBANCOは、インフレが激しくて、政府発表のインフレ指数(コレソン・モネタリア)にしたがって給料や金利などが調整されていたし、乞食でも小切手を切ると言った日本とは大分違っていたし、BANKでも、米英においても差があり、日本語の「銀行」に訳されてしまうと、読者は、何処の国の銀行も、日本の銀行の概念で読み理解してしまう。
   これなど、一例だが、カルチュア・ショックを背後に秘めた翻訳が随所に現われており、その本の重要なサブジェクトであった場合には、その差を知らない翻訳者が誤解したまま翻訳すると、内容などがスキューしてしまう心配がある。

   翻訳の場合には、出版するという目的がはっきりしているので、比較的問題は少ないが、これが、通訳となると話が変ってくる。
   これまで、海外調査団に参加して海外に行ったことがあるのだが、その調査の対象とする知識なり経験のない通訳を雇って、台無しになったことがあった。
   その点、経団連などは、専属の通訳を随行するのだが、私の参加した団体などでは、コスト削減で適当な通訳を使うことが多かったので、通訳次第で、調査目的が十分に達せられなかったという悲劇をみた。

   日本語もそうだが、どうしても、その言葉を上手く表現できる言葉が外国語にはないという、また、その逆もある。国によって、ものの考え方や気質、歴史や文化伝統も違えば、バックグラウンドが全く違うのであるから、翻訳や通訳だけで、上手く意思が通じるなど至難の業である。
   何を居ても、大切なことは、積極的な異文化異文明との遭遇チャンスを増やすことで、翻訳や通訳に頼らず、意思の疎通を図ることである。
   話が、一気に飛んでしまうが、近年、とみに若者の外国への留学生が激減しているという。
   個人的な留学意欲も減退しているようであるし、また、企業の海外派遣留学制度の廃止が響いているようで、我々が若い頃、Japan as No.1の頃は、銀行や商社を筆頭に日本企業が、競って留学生を派遣して、欧米先進国の学生と鎬を削らせたことを考えると、寂しい限りである。
   欧米の最高教育機関や科学技術研究機関などに有意な若者を送り込んで、最高峰の教育機会を与えて切磋琢磨させることが、今、日本の将来のために求められているコトだと思っている。
   
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国語の重要性を認識すべし

2020年10月06日 | 
   先日、新井 紀子の「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」の中での指摘で、読解力が偏差値決定の最も重要な要件であることについて書いた。
   御三家と言われる中高一貫教育の超名門校の生徒は、既に、12歳で最高の読解力を備えて入学してくるので、どんな下手な受験教育をしても、東大に通るのだということで、その教育方針が、教育改革をする上で何の参考にもならないと言うことであった。

   この国語が大切だと言うことは、私自身、もう半世紀近く前のことになるが、長女が、ブラジルのサンパウロの日本人小学校に通っていたときに感じている。
   「太陽がカンカン照りつけている」という表現で、「カンカン」という意味が分らないといわれて、彼女の頭には、「缶」がカンカンとなる音以外には認識がないことが分ったのである。
   日本に居れば、殆ど日本語ばかりであるし、街を歩いても日本語の看板で溢れていて、意識しなくても日本語漬けなので、「太陽がカンカン照りつけている」の「カンカン」など、どんな子供でも、教えなくても知っている。日本語が比較的通じるサンパウロでも、環境総てがポルトガル語であって、日本語学校に通って日本語で授業を受けているとしても、日本語に対する露出が、日本の小学生と比べて著しく劣るので、日本語理解に大きな落とし穴が随所にあるのである。

   この時に、国語の理解が十分でないと、新井教授が指摘するように、教科書の理解が十分ではなくなって、算数にしても、理科社会にしても、その教科の理解や解釈判断が十分ではなくなるのではないかと感じたのである。
   これには伏線があって、恥ずかしい話であるが、私自身、フィラデルフィアのウォートン・スクールの学期試験で、やはり、英語力の不足で、設問の意味が十分に分らなくて、教授に質問してコトなきを得てホッとしたことがあるのである。
   外国で、外国語の授業を受けて大学院を卒業するというのは大変なことだが、困難の過半は、やはり、言葉、読解力のハンディがあることだと感じている。
   長女の場合には、論理的な読解力以前の意味そのものに対する知識の不足であって、日本語と言うよりもボキャブラリィの不足なのだが、どちらにしろ、国語の読解力が不足すると、国語のみならず、教科学習全般の理解力が落ちて、勉学の進行に齟齬を来すことが分ったのである。

   危機感を感じて、まず、本を読ませることだと思って、何が良いと考える前に、全国学校図書館協議会の選定図書、確か40冊ほどあったと思うのだが、至急、航空便で取り寄せて、長女に読ませた。
   教育図書であろうと何であろうと、税関でトラブルを起こされてスム―ズに処理されず、受け渡し窓口では公然と賄賂を要求されるなど、とにかく、ブラジルへの郵送荷物の受け取りは大変だったのを思い出した。

   この長女は、幼稚園は、日本と米国とブラジルで、それぞれ違った言葉で過ごしていて、小学5年の冬に帰ってきて日本の小中を終えたのだが、高校1年の時に、私の赴任でオランダのインターナショナル・スクールに移り苦労させてきた。
   卒業後は、ヨーロッパに残らずに、大学は日本にしたいと望んで、上智大学に入って、一人だけ日本に帰った。
   勿論、オランダの時も、出張などで帰国時には、沢山の本を買って帰ったし、インターナショナルスクールの時には、幸い、私が米国の大学院を出ていたので、英語の教科書を読んで彼女の勉強を助けたのだが、泣き言も言わずによく頑張ったと思っている。

   次女の方は、逆の話で、小学校初年はオランダ語だったが、その後日本人小学校に移ったのだが、イギリスに五年間も住んでいて、英語が十分に喋れないのは恥だと言って、カンタベリーのケント大学と大学院に行って勉強した。
   次女が、イギリスで勉強していた頃には、我々は日本に住んでいたのだが、親しくしていたイギリス人の友人たちが、サポートしてくれたこともあって、それ程不安は感じなかった。

   今となっては、不如意で、二人の娘には何の財産も残せないのだが、苦労させたのは申し訳ないが、唯一、副産物として、英語の力を身につけさせることができたのをせめてもの慰めとしている。
   これも、先に論じた読解力の問題で、少しは、英語の読解力がついたであろうから、多少は、ないよりはマシな人生を送ることができるのではないかと思っているのである。
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新井 紀子著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」読解力がすべて

2020年10月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、東大突破のAIロボット「東ロボくん」の話であるが、その開発途上で、国語や英語で暗礁に乗り上げて、意味を理解できないAIの限界を感じて、読解力に問題があるのではないかと考えた。それを検証するために、中高生を対象にして、基礎的読解力を調査するリーディングスキルテスト(RST)を開発して実施したら、生徒たちの読解力のお粗末さが露呈して、教科書さえ、まともに読めないと言うゆゆしき現実が分ったというのである。
   このRSTは、AIに読解力をつけさせるための研究で積み上げ、エラーを分析してきた蓄積を用いて、人間の基礎的読解力を判定するために開発したテストである。
   これが、この本のタイトル「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」の趣旨であり、猿がダーツを打って当たる確率程度にしか正解を得られない日本の中高生の読解力であると、AIには勝てず、職の多くは、Aiに駆逐されて排除されてしまうと言う恐ろしい警告である。

   その前に、今後10~20年後にも残る仕事の予測のオックスフォードの調査を踏まえて、人間は、AIにできない仕事ができるかを問う。
   「残る仕事」の共通点は、コミュニケーション能力や理解力を求められる仕事や、介護や畦の草抜きのような柔軟性や判断力が求められる肉体労働が多そうで、これは、AIが不得手とする分野、つまり、高度な読解力と常識、加えて人間らしい柔軟な判断が要求される分野である。  

   ところが、現代社会に生きている我々が、AIには肩代わりできない種類の仕事を不足なくうまくやっていけるだけの読解力や常識、あるいは柔軟性や発想力を十分に備えているか、
   とりあえず、読解力を基礎とするコミュニケーション能力や理解力を調査したら、前述したように、日本の中高生の多くは、中学校の教科書の記述を正確に読み取ることができなかったと言うのである。このことは、日本の教育制度に殆ど変更がないので、多くの日本人の読解力も同じような危機的な状態にあると言うことであって、欧米のように移民が多い国と違って、単独民族単独言語の国日本としては、極めて深刻な問題である。

   更に、著者は、「数学ができないのか、問題文を理解できないのか?」を検証するために、大学生に数学基本調査をテストした。大学陣が、学生の学力の質の低下を感じていて、学生との論理的な会話、設問との回答との間で、会話が成立しないと感じるシーンがあまりにも増えていて、論理的にキャッチボールできないような学生が大学に入ってきても、教育できるとは限らない。と言うことである。
   このRSTテストや、大学数学基本調査については、著者は例題を引くなど詳細に説明し結果を論理的に分析して推論しているのだが、学校ののみならず大企業でも調査をしており、私は、その手法なり推論結論には全く異存はないので、その説明は省略する。

   興味深いのは。偏差値と読解力との相関関係が非常に高いと言うことである。
   RSTで測る基礎読解力の上から順に、偏差値上位の高校に入学していることで、「基礎読解力が低いと、偏差値の高い学校には入れない。」
   「旧帝大に一人以上進学している高校」だけを選んで、RSTの能力値と、「旧帝大進学率」の相関を取ったら、そこには高い相関が見られた。
   その事実を確認した後、「御三家」と言われる超有名私立中高一貫校の教育方針が、教育改革をする上で何の参考にもならないと言う結論に達した。東大に入れる読解力が12歳の段階で身についているから東大に入る可能性が他の生徒より圧倒的に高い。高校2年まで部活に明け暮れて赤点ギリギリでも、教科書や問題集を読めるのであるから、一年間受験勉強に勤しめば、旧帝大クラスには入学できてしまうと言うのである。

   さて、AIと共生する時代ともなれば、AIによってコストを圧縮して減らすことを怠った企業は退場せざるを得ず、一物一価への収斂までの時間がどんどん短くなって激しいディスラプティブ(破壊的)な社会変化が起こっている。
   また、AIを導入する過程においては、求められる労働は、高度な知的な労働だけで、ホワイトカラーのやれるような仕事は、ことごとくAIに取って代わられるので、分断されるどころか、その大半が職を失う危険性があり、職を失った人は、誰にでもできる低賃金の仕事に再就職するか、失業するかの二者択一を迫られる。
   その後にくるのは、「AI恐慌」とも言うべき世界的恐慌で、回避するためには、「奪われた職以上の職を生み出す」以外に道はない。
   
   先にふれたが、「東ロボくん」は、既に、MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)や関西の関関同立と言った有名私学に合格する能力を有しており、受験生の上位20%以内に入る実力を備えているので、AIが日本経済に君臨すると、AIが人間に代替して仕事をするので、早晩、それ以下の80%以上の日本人は、AIに職を奪われて失業するか、極めて低賃金の仕事に追いやられるか、格差の拡大どころか、国民総貧困化に陥ってしまう。
   しかし、今のところ、変化が徐々であって、煮えがえる状態であるので、殆ど気づかずに、国民の多くは、そんなことはない、どうにかなるであろうと思っているのだが、今後急速に、「東ロボくん」以上の能力を持った有能なAIロボットが出現してきて、人間の職に取って代わり、人間を駆逐していくことは間違いない。合理化の権化・強力なコストカッターたるAIロボットを活用しない企業は、国際競争に負けて生きて行けなくなるからである。  
   目に見えたところでは、バーコードをなぞるだけのレジ係は既に急速に消えて行っているが、しかし、今後は、AI化が、あまりにもディストラプティブ、かつ、急速で激しいので、人間社会がついて行けなくなる。
   そうなれば、パニックになり、まさに、「AI恐慌」となる。
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わが庭・・・キンモクセイ咲き始める

2020年10月03日 | わが庭の歳時記
   庭にいい香りが漂ったと思ったら、キンモクセイの開花。
   春の沈丁花と共に、季節の到来を告げてくれる貴重な素晴らしい香り花である。
   バラの香りや匂い椿の微かな香りも貴重だが、歳の所為か、あまり感じなくなったのが残念である。
   匂いと言えば、フランスの香水の都グラースに行ったときに、あっちこっちで甘い香水の香りを感じながら散策したのだが、畑一面にラベンダーが咲き乱れる風景は流石で、オランダのリセのチューリップ畑と同じで、観光とはひと味違った産業の凄さを感じた。
   
   

   毎年、必ず秋分の日に咲いていた彼岸花が、何故か、今年は、大分遅れて開花した。
   彼岸花というと、何となく抹香臭いムードで嫌なので、私は、曼珠沙華と言う別名が好きである。
   夏の終わりに葉が伸びて秋に枯れて、その後、すっくと伸びた花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけが咲く、実に潔い花で、創造主の巧みを感じている。
   
   

   今、ひっそりと咲いているのは、白い小花のアベリア。
   酔芙蓉のつぼみが開き始めた。
   
   
   

   まだ、モミジの紅葉には間があるが、柿の木が紅葉して落ち始めた。
   庭一面に、ヤマボウシやアメリカハナミズキなどの落ち葉で、枯れ葉の処理は大変なのだが、子供の頃のように、たき火をして焼き芋を楽しむなどと言う懐かしい風物詩は消えてしまって久しい。
   
   
   
   
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新井 紀子著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」機械翻訳の限界

2020年10月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   グーグルで、New York Timesのページをクリックすると、HPが現れるのだが、瞬時に、日本語に翻訳されたページに変ってしまう。
   他の英文記事を開いても同じで、有り難いはずなのだが、困ったことに、この翻訳が無茶苦茶で、到底読めるような翻訳になっていないのである。
   日本語の体裁を取ってはいるのだが、推測と想像を駆使しても殆ど意味不明で、翻訳されたばっかりに、記事としての意味をなさなくなってしまって、困っている。

   荒井教授によると、機械翻訳と言うようで、この本では、「現状の意味をまったく考えない機械翻訳を見ていると、それが人間による翻訳を代替する日は来ないだろうと思うのです。」と述べている。
   入力 私は先週、山口と広島に行った。
   出力 I went to Yamaguchi and Hiroshima.と、機械翻訳は反応するが、I went to Hiroshima with Yamaguchi.とを判別できないのだという。
   また、
   入力 How many children do you have?
   出力 あなたはどのように多くのこどもがありますか?
   もっと難しいのは、No.の訳で、疑問否定文の応答ならば、「はい」と訳さねばならないのだが、それは、現状の機械翻訳の仕組みでは難しい。と言う。

   オリンピックまでに多言語音声翻訳は完成するか、
   そのためには、機械翻訳に必要なデータ、対訳データが必要で、問題はその数であり、100万組では焼け石に水で、1000万組ぐらい集まればダイヴマシになりそうだが、実用に耐える精度になるかどうか、その先、一体どれだけ集めれば良いのか、誰にも分らない。
   
   著者は、対訳データの収集の難しさやクラウドソーシングの利用など説明しているが、結論として、
   無償のグーグル翻訳に世界中のユーザーが依存して慣れ親しんで、そのエラーを含めて受容した時、有償の機械翻訳がビジネスとして成立するのか。そこは非常に難しい判断で、特に、対訳データが不足し過ぎている現状では、厳密な機械翻訳が求めれれる国際会議やビジネスシーンで使う翻訳機を、統計的手法の翻訳機械で製造して、製造物責任のリスクまで負うのは、得策とは考えられません。と言う。
   要するに、そこそこの機械翻訳は、対訳データの充実があれば可能かも知れないが、人間の通訳や翻訳のように、満足な翻訳は、機械には無理だと言うことであろう。
   従って、「オリンピックまでに多言語音声翻訳は完成するか」という問題だが、全く言葉の分らない外国人にとっては、ないよりは、不完全でも対訳音声通訳器があれば、助かるかも知れないが、さて、それで良いのか、どうであろうか。

   先に書いたNew York Timesの翻訳についてだが、こんないい加減な報道に切り替え翻訳された新聞社が、マイクロソフトにクレイムをしないのであろうか、
   今のところ、もとの英文に返すにはどうすれば良いのか、パソコンの操作が分らないので、その方法を探すとして、私には、もう、New York Timesを読む気もしないし、読めなくなったと言うことである。
   情報量の多い英文のウィキペデイアを使うことが多かったのだが、これも使えなくなってしまった。
   私には、英文は英文であって欲しいのである。

(追記)設定を切り替えて、英文に戻すことができたので安心した。
    いずれにしろ、マイクロソフトの英文和訳の現状は、使用に耐えない状態にあると言うことで、おそらく、他の機械翻訳の状態も、まだまだ、実用化にはほど遠いと言うことであろうと思われる。
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”鎌倉の美しい中秋の名月”

2020年10月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   朝は、雨模様であったが、午後から、からりと晴れた素晴らしい秋日和になった。
   いつもは殆ど忘れている十五夜だが、今年は覚えていたので、孫を相手に月見をしようと思った。

   まず、団子だが、家内が用意してくれたので、次は、ススキである。
   わが庭に、ススキの株は何株か植わっているのだが、季節が合わず、枯れススキさえない。
   こんな場合には、花屋さんなら、必ずあるので、出かけて行った。
   幸い、ススキをアレンジした花束と、ばら売りのススキがあったので、ススキを三本買った。
   丁度、ハロウィンかぼちゃが、一つ残っていたので、と言っても、この店には毎年1つか2つくらいしか売っていないのだが、買って帰った。
   今年のハロウィンは10月31日なので、少し早いとは思ったのだが、探すのは大変だし、米国留学中に娘にハロウィンかぼちゃを買って、ジャック・オー・ランタンを作り始めてから、機会があれば、ずっと作り続けており、最近も、代替わりで孫たちのためにも毎年作っているので、私の大切な年中行事なのである。
   フィラデルフィアの時には、娘は、仮装してパンプキンの籠を持って、「トリック・オア・トリート」と唱えながら、友達と家々を回って、沢山のお菓子を貰って帰ってきていたが、日本では無理であろう。
   
   ススキ(尾花)の他に、秋の七草、クズ(葛花)・ナデシコ(瞿麦)・オミナエシ(姫部志)・フジバカマ(藤袴)とキキョウ(桔梗)があれば良いのだが、あいにく、わが庭にはいずれもないので諦めた。
   秋の味覚ということだが、わが庭には、柿の木が何本かあるだけで、それも、綺麗に色づいたら、片っ端からリスにやられるので、まだ、やや色づいた程度の柿しか収穫できない。
   結局、ススキと団子だけで、済ますことにした。
   
   さて、どんな花瓶にススキを生けるか、備前焼のシックな花瓶があるのだが、少し大きいので諦めて、一寸不似合いだと思ったのだが、香蘭社の一輪挿しと、団子にも同じ香蘭社の皿を使った。
   

   さて、十五夜の満月だが、日が暮れて大分経ってから、丁度、NHKの7時のニュースの時に、鎌倉山の山の端から、綺麗な姿を現して、一気に明るくなった。
   やや、オレンジが勝った大きな月である。
   しばらく眺めていると、ぐんぐん、上って行く。
   孫たちも、庭に出て満月を仰ぎながら月見団子を食べ始めた。
   岡山の桃太郎団子のような風味で美味しかった。

   私は、カメラを持ち出して、満月にフォーカスしたが、200ミリの望遠ズームの限界であろうか、以前のカメラでは、もう少しシャープに取れたのだが、どうしてもピントが甘く、良い写真が撮れなかった。
   露出を5段階落としたが、まだ、露出過多で白っぽく飛んでしまってダメで、シャッター優先に切り替えて、ASA感度と絞りを操作して、どうにか撮れたのだが、三脚を持ち出す気もなかったし、まあ、こんなところかという言う感じである。

   私が子供の頃、宝塚の田舎では、天ノ川が横たわる素晴らしい夜空が見えて、図鑑通りに星座を確認できたし、蛍狩りに野山を駆けまわっていた。
   今住んでいる鎌倉、それも、江ノ島に近い西外れの住宅街だが、普段は、金星や北極星くらいはよく見えるが、星座を探すのは殆ど無理である。
   虫の音も少なくなって、情緒も何もなくなってしまったが、今夜の満月は、昔のように、中天を支配して明るく輝いている。

   色々なところで、夜空を眺めて過ごしてきたが、一番忘れられないのは、もう、3~40年前の話になるが、パラグアイのエンカルナシオンの漆黒の夜空である。
   車で郊外に出て夜空を見上げると、まさに、星が降ってくると言う感じで、全く光のない太古のアダムとイブの時代の夜空が如何に美しかったことか、南半球であるから北極星は見えないが、南十字星。
   ここのホタルは、目が光るので、まさに、漢字の螢なのである。
   そんなことどもを思い出しながら、煌々と輝く十五夜の月を、しばらく眺めていた。
   

(追記)ススキは、自宅の庭の株を刈りすぎて、穂が出ていないかっただけで、散歩中に、近所の草むらや林で穂が風に靡いているの見つけて、注意散漫を反省している。
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