この口絵写真は、今日のニューヨークタイムズ電子版のトップページの写真である。
Russian forces fired on evacuees, killing four people outside Kyiv. A photojournalist for The Times witnessed the attack, which left a mother, her two children and a family friend dead. Lynsey Addario for The New York Timesとのキャプションが付けられている。
避難しようと逃げていた親子3人と知人をロシア兵が殺害したという実に慚愧に堪えない悲しい写真である。
もう一枚の次の写真は、ワシントンポストの、戦時下での結婚式の写真で、
The bride wore fatigues. The wedding party carried rifles and RPGs. By Siobhán O'Grady and Kostiantyn Khudov
花嫁は戦闘服を着ていて、 結婚式のパーティーはライフルとRPG(対戦車手榴弾)を持っての参列である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/12/de1d1ed40a03f1e9886f84ec64446a5b.jpg)
日々、心を痛めて注視しているウクライナの惨状を思うと、心から、平和な日本に生活している幸せを痛いほど痛切に感じて、感謝に堪えない。
私の人生最初の記憶は、やっと物心つき始めた頃の第二次世界大戦の末期の経験で、今でも微かに覚えている。
当時、西宮のえびす神社の近くに住んでいたので、空襲警報はひっきりなしで、その後伊丹に転居してからも終戦の日まで防空壕での生活が続いた。
空襲警報のサイレンが鳴ると、電灯にシェイドをかけて暗くして、急いで防空頭巾を被って防空壕に駆け込む。
警報のサイレンが止んで外に出ると、漆黒の闇夜である筈の、大阪や神戸方向の空が、真っ赤に染まっていた。米軍の空襲で、大阪や神戸の街が焼けていたのである。
昼の空襲では、米軍機に打ち落とされた日本軍の航空機の破片が、ピカピカ光りながら舞い落ちてくるのが目に焼き付いている。
伊丹空港や飛行機工場が近くにあったので、終戦後に、破壊された飛行機の残骸を見て悲しかった。
大分経ってから、JALの一番機が伊丹空港に着陸するのを空港に出かけて仰ぎ見たときには涙が零れた。
終戦直後でも阪急電車は動いていたのであろう、無残にも焦土と化した焼け野原状態の梅田の光景を覚えているのだが、大都会は惨憺たる状態で、その後、戦災から免れた伊丹と宝塚で生活したが、田舎であっても、食料に困る極貧生活を続けていたように思う。
復興期の日本は、日本人すべてが必死で頑張っていた。貧しくて苦しい生活であったが、日本人すべてが同じ状態で、毎日の生活が少しずつ良くなって行く予感を感じていて、それ程苦には感じていなかったような気がしていた。
欠食児童は当たり前で、食うや食わずの生活の連続であったが、そんな幼少年時代を経て、少しずつ日本経済が回り始めて、いつの間にか神武景気岩戸景気と、戦後復興期を脱し始めた。
苦しかったと思うが、何も言わずに、両親は、京大へ通わせてくれた。東京オリンピックの前の頃の話である。
その後会社に入って、留学生としてフィラデルフィアの大学院でMBAを取得して、ヨーロッパに渡って切った張ったのグローバルビジネスに邁進し続けた。
苦しかったが、希有な経験の連続であり、知盛の心境で、見るべきものは見つという思いで、逝けそうだと感謝している。
さて、そんなことよりも、私にとって幸せであったのは、自由で民主主義の国日本に生まれて、その恵まれた環境下で思う存分活躍できたという何にも代え難い生活経験である。
尤も、ヨーロッパでは、丁度、チェルノブイリ原発事故やイギリスの狂牛病が猛威を振るっていた頃であり、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の終焉と冷戦の終結など、世界は激動に揺れ風雲急を告げる状態の時期で、決して安全ではなく危険と隣り合わせの生活をしていたのだが、何故か、Japan as No.1の威光を背負った日本人であると言う誇りもあってか、危険だと感じたことはなかったので、それ程の危機意識はなく、かなり自由に仕事をしていた。怖いものなしで、チャールズ皇太子にも臆することなく会話が出来た。
その前後、10数年間、欧米のみならず、アジアや中東、南米などでも仕事をしていたが、若気の至りであろう、危険意識が希薄で自由に振る舞っていた。
いずれにしろ、今思えば、無思慮無分別も良いところだが、事故に遭わなかったのが幸いで、この方面でも日本人であったと言うことが、随所で救いになったような気がしていて感謝している。
とにかく、コロナコロナで、巣籠もり生活の連続で、晴耕雨読の毎日、
しかし、思う存分好きな本を読んで真善美も求め続けて、誰に遠慮することもなく、自由にものを考え、好き勝手にこのブログを書いている、
庭に出ては、綺麗な季節の花々を愛でながら、自然の摂理に感動する。
自由と平和、そして、民主主義、独善と偏見かも知れないが、貴重な共有財として存分に享受してきたと思っている。。
何と幸せなことか、そんな幸せを噛みしめながら、ウクライナの悲劇を憂い続けている。
Russian forces fired on evacuees, killing four people outside Kyiv. A photojournalist for The Times witnessed the attack, which left a mother, her two children and a family friend dead. Lynsey Addario for The New York Timesとのキャプションが付けられている。
避難しようと逃げていた親子3人と知人をロシア兵が殺害したという実に慚愧に堪えない悲しい写真である。
もう一枚の次の写真は、ワシントンポストの、戦時下での結婚式の写真で、
The bride wore fatigues. The wedding party carried rifles and RPGs. By Siobhán O'Grady and Kostiantyn Khudov
花嫁は戦闘服を着ていて、 結婚式のパーティーはライフルとRPG(対戦車手榴弾)を持っての参列である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/12/de1d1ed40a03f1e9886f84ec64446a5b.jpg)
日々、心を痛めて注視しているウクライナの惨状を思うと、心から、平和な日本に生活している幸せを痛いほど痛切に感じて、感謝に堪えない。
私の人生最初の記憶は、やっと物心つき始めた頃の第二次世界大戦の末期の経験で、今でも微かに覚えている。
当時、西宮のえびす神社の近くに住んでいたので、空襲警報はひっきりなしで、その後伊丹に転居してからも終戦の日まで防空壕での生活が続いた。
空襲警報のサイレンが鳴ると、電灯にシェイドをかけて暗くして、急いで防空頭巾を被って防空壕に駆け込む。
警報のサイレンが止んで外に出ると、漆黒の闇夜である筈の、大阪や神戸方向の空が、真っ赤に染まっていた。米軍の空襲で、大阪や神戸の街が焼けていたのである。
昼の空襲では、米軍機に打ち落とされた日本軍の航空機の破片が、ピカピカ光りながら舞い落ちてくるのが目に焼き付いている。
伊丹空港や飛行機工場が近くにあったので、終戦後に、破壊された飛行機の残骸を見て悲しかった。
大分経ってから、JALの一番機が伊丹空港に着陸するのを空港に出かけて仰ぎ見たときには涙が零れた。
終戦直後でも阪急電車は動いていたのであろう、無残にも焦土と化した焼け野原状態の梅田の光景を覚えているのだが、大都会は惨憺たる状態で、その後、戦災から免れた伊丹と宝塚で生活したが、田舎であっても、食料に困る極貧生活を続けていたように思う。
復興期の日本は、日本人すべてが必死で頑張っていた。貧しくて苦しい生活であったが、日本人すべてが同じ状態で、毎日の生活が少しずつ良くなって行く予感を感じていて、それ程苦には感じていなかったような気がしていた。
欠食児童は当たり前で、食うや食わずの生活の連続であったが、そんな幼少年時代を経て、少しずつ日本経済が回り始めて、いつの間にか神武景気岩戸景気と、戦後復興期を脱し始めた。
苦しかったと思うが、何も言わずに、両親は、京大へ通わせてくれた。東京オリンピックの前の頃の話である。
その後会社に入って、留学生としてフィラデルフィアの大学院でMBAを取得して、ヨーロッパに渡って切った張ったのグローバルビジネスに邁進し続けた。
苦しかったが、希有な経験の連続であり、知盛の心境で、見るべきものは見つという思いで、逝けそうだと感謝している。
さて、そんなことよりも、私にとって幸せであったのは、自由で民主主義の国日本に生まれて、その恵まれた環境下で思う存分活躍できたという何にも代え難い生活経験である。
尤も、ヨーロッパでは、丁度、チェルノブイリ原発事故やイギリスの狂牛病が猛威を振るっていた頃であり、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の終焉と冷戦の終結など、世界は激動に揺れ風雲急を告げる状態の時期で、決して安全ではなく危険と隣り合わせの生活をしていたのだが、何故か、Japan as No.1の威光を背負った日本人であると言う誇りもあってか、危険だと感じたことはなかったので、それ程の危機意識はなく、かなり自由に仕事をしていた。怖いものなしで、チャールズ皇太子にも臆することなく会話が出来た。
その前後、10数年間、欧米のみならず、アジアや中東、南米などでも仕事をしていたが、若気の至りであろう、危険意識が希薄で自由に振る舞っていた。
いずれにしろ、今思えば、無思慮無分別も良いところだが、事故に遭わなかったのが幸いで、この方面でも日本人であったと言うことが、随所で救いになったような気がしていて感謝している。
とにかく、コロナコロナで、巣籠もり生活の連続で、晴耕雨読の毎日、
しかし、思う存分好きな本を読んで真善美も求め続けて、誰に遠慮することもなく、自由にものを考え、好き勝手にこのブログを書いている、
庭に出ては、綺麗な季節の花々を愛でながら、自然の摂理に感動する。
自由と平和、そして、民主主義、独善と偏見かも知れないが、貴重な共有財として存分に享受してきたと思っている。。
何と幸せなことか、そんな幸せを噛みしめながら、ウクライナの悲劇を憂い続けている。