地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

三陸の旅2011 (4) 北リアス線代行バス

2011-09-07 00:00:00 | 濃いぃ路線バス&車両


 陸中野田駅にて停車中の36-200形をぼちぼちスナップしたのち出場したところ、ちょうど折良く陸中野田~小本間の代行バスが到着しまして、車内からは高校生や一般客がドッと下車して駅へと入って行きました。
 岩手県北バスが運行している三陸鉄道・北リアス線代行バスは、とくに不通区間にある普代村や田野畑村のマイカー非利用者にとって無くてはならない生命線として運行されており、私のように不通区間を跨いで三陸鉄道に乗ろうとしている者にとっても有難い存在となっていますが、第一義的には普代村・田野畑村の学生や通院者等の都合に合わせたダイヤ設定がなされているため、運行は朝と夕方のみ……。しかも、小本で列車とバスが連絡するとは限りませんので、北リアス線を全線走破する場合には久慈発7:00と宮古発16:10・18:20の列車を利用する必要があります (久慈発16:20も、小本~宮古間は定期路線バスがあります)。このうち夕方発の列車は、夏の間でも100%明るい時間にかかるわけではありませんので、車窓からの眺めを確保するならば自ずと選択肢は久慈発7:00に限られます。さらに、この代行バスは土曜半減、日曜祝日全面運休ですので (久慈発7:00と連絡する陸中野田発7:40の便は土日祝運休……)、遠来の人間にとって非常にハードルが高いのが実情です。しかし……被災の実情に鑑みて遠来の客をもとより想定したダイヤではないはずですので、当面はこれで必要最小限を満たしているのでしょう。



 それはさておき、陸中野田駅は道の駅が併設されて非常にデラックス(?)な雰囲気でして、「海鮮たっぷり・野田塩焼きそば」と記された屋台に思わず垂涎……でしたが、朝のため未だ営業しておらず (苦笑)。いずれ改めて……と念じて代行バスの客となり、定刻の7時40分から何故か2分遅れて出発しましたが、国道45号線を数百メートル走ったところで景色が激変……。それまでの普通に広がっていた街並みが突如途切れ、辺り一面ひたすら土台を残して津波が流し去った破壊の跡……。嗚呼……この運命の分かれ目は一体何なのでしょうか。そして間もなく、さらに脳天が思い切り殴られたかのような衝撃が……。十府ヶ浦と呼ばれる白砂青松の砂浜から剔られた膨大な量の松の大木が無造作に散乱し、木っ端微塵に破壊された分厚い防波堤が横倒しになり、道路脇の三陸鉄道も路盤を残して何もない……。
 ただ不幸中の幸いと思われるのは、被災区間が約2kmとそれほど (?) 長くないこと。最近明らかになった復旧計画によりますと、陸中野田~田野畑間は来年4月の再開を目指すとのことですが、それもひとえに陸中野田~野田玉川間では防波堤の修築と並行して路盤を補修しレールを敷き直せばさほど困難なく (?) 復旧できるからなのでしょう。野田玉川から先は線路も道路も高い位置を走り、撮影名所となっている堀内駅近くのアーチ橋ももちろん無傷。如何にも1970年代につくられた国鉄地方駅らしい雰囲気が完璧に残されているという意味で極めて貴重な雰囲気が漂う普代駅には、久慈への帰りを待つDCが1両取り残されていますが、その日もそう遠くないことでしょう……。
 しかしそれもあくまで、第三次補正予算に三陸鉄道の復旧費が正式に盛り込まれればの話。普代から先、国道45号線を行く代行バスは完全に三陸鉄道から離れ、圧倒的に深い雰囲気の山中をクネクネの峠道や巨大陸橋で越えて行くようになりますが、それは同時に普代~小本間の地理的条件が余りにも厳しいことを意味するわけで、この区間の海沿いを長大トンネルと高架橋で突破した三陸鉄道の線路が一度津波で破壊されてしまえば、その再建にも膨大な費用を要するのも道理……。費用対効果は単純に考えればとても期待出来ないかも知れませんが、鉄道が復興のシンボルとして地元の非マイカー利用者に多大な福音をもたらすのみならず、全国的にアピールする効果は絶大なものがあると思われますので、田野畑~小本間の復旧を可能にする予算も確実について欲しいものです。
 ただ、ファンとして漠然とそう思うだけでは宜しくない……というわけで、TOMIXの三陸36形・復興支援バージョンは予約したほか (通販オンリーで、9月出荷分は申し込み殺到につき期限の9月1日を待たずに予約終了。次回は12月とか) 、先月末にネットニュースで見かけた被災線路使用の震災記念・復興祈願オブジェ発売には即ビビッときまして、さっそく三陸鉄道の公式HPにアクセスしたところ……200個全部超速攻で売り切れ (-_-;;)。追加の販売を現在検討中のようです。
 そんなこんなで、岩泉線沿線へ続く壮絶に山深い道を走り抜けたバスは、最後に三陸北道路(将来の三陸縦貫道?……これの建設が優先されて三陸鉄道が後回しになる懸念も?)を一気に下って定刻通り小本駅へ。津波は小本駅周辺には到達せず、夏の緑あふれる静かな駅に降り立った私は、さっそく宮古までの硬券切符を購入してホームに向かったのでした……。

三陸の旅2011 (3) 三陸鉄道・久慈編

2011-09-06 00:00:00 | 地方民鉄 (東北)


 今回の三陸訪問における最大の目的は、もちろん三陸鉄道の乗車と撮影であることは言うまでもありません。周知の通り、国鉄赤字ローカル線及び未成線の第三セクター化という動きを最も象徴する存在として1984年に開業した三陸鉄道は、当初こそ鉄道を熱望する地元の熱狂的な歓迎と全国的な注目によって黒字経営を続けたものの、1990年代以降は駅付近の集客施設(病院など)の移転や少子高齢化、そして道路網整備によるクルマへの転移などにより乗客減・経営悪化をたどったという点で、過疎地における鉄道の盛衰を凝縮させたかの観がありましたが、JR直通列車の運転や団体観光客の積極的な誘致による定期券外収入によって何とか持ちこたえてきたといわれます。
 しかし、開業30周年を3年後に控えた今年、大震災で壊滅的な打撃が……。それにもかかわらず三陸鉄道は、困難なときこそ地方交通の本領を発揮しようという固い決意のもと、運転可能な区間で速やかに「復興支援列車」の運転を始めて高い注目を集め続けており、復興のために絶対に諦めないという姿勢は感嘆に値するでしょう。そこで、三陸鉄道にいつか乗りたいと思いつつも乗りそびれていた私も、このような時だからこそ乗りに行くことで、地域のために走る鉄道の本質を確かめたいと思ったのでした……。



 そこでまずは、久慈にて三陸鉄道車庫脇のホテルに宿泊~。陸中野田から戻ってきた最終列車の走行音に、翌朝の眺めを期待しつつ一眠りしますと……ををっ!晴れ渡った翌朝には見事な車庫と山並みの展望が♪ しかし……色とりどりの車両で賑わう車庫に戻ってくることが出来ない車両が南リアス線や小本~宮古間に複数あることを思うと、複雑な気分を禁じ得ません。また、大震災発生時点では多くの車両が久慈に集結し、宮古口では僅か1両しか存在しなかったことから、宮古口の極端な車両不足を補うために久慈から2両が陸送されています。
 それはさておき、朝7時発の陸中野田行に乗るため、否その前に車庫からホームに列車が入線するシーンを撮影するため、朝6時20分頃に宿をチェックアウトしまして、駅の脇の駐車場にていろいろ位置を確認していたところ……車庫の方からディーゼルエンジンの唸りが次第に大きく響いて来まして……いよいよ36-200形の2連が登場!! しかも、2両とも登場時以来の標準塗装車であるというのが最高に嬉しいですね……(*^^*)。キハ40をベースに全長をやや短くしたような (?) 車両であると思われる36-100/200形、その登場時は正面デザインと側面の塗り分けに思わず「新し過ぎ。派手すぎ……。」と目が点になったものですが、時は移ろい……今ではすっかりシブいDCに見えるようになったのは不思議なことです (^^;)。それでもフレッシュな印象を失っていないのは、やはり極めて秀逸なデザインだからなのでしょう。
 一方、八戸方の外れの方には、典型的な軽快DCである36-500形が。1形式1両のこの車両は、1994年の転覆事故のあと予備車を確保するために造られ、一応他のDCとも混結できたようですが、Wikipediaの記述によりますと2年前に運用減で廃車……。その割には非常にきれいな状態を保っているのが不思議です。そのうちビルマ(ミャンマー)あたりに持って行くのでしょうか……?
 こんな感じで撮影した後は、東西地下通路を通っていよいよ三陸鉄道の久慈駅へ。早朝につき窓口も自販機も営業しておらず、運賃300円は車内で車掌に支払われたしとの由。2連となっているのは、陸中野田から久慈へ向かう通学生に対応するためであり、これから陸中野田へ向かう数人の客はほとんど出口に近い2両目に集中していたことから、私は1両目を完全独占~。
 そして朝7時……いよいよ陸中野田行きは重いエンジン音とともに出発し、まずは陸中宇部手前のトンネルまで延々と続く上り勾配をゆっくりと登って行きます。トンネルを越えたあとは淡々と田園風景を眺めて陸中野田に着きましたが、滴るような夏の緑に覆われた風景には、とりあえず震災を思い出させるものはなく……陸中野田で下車しなければならないことが少々不思議に感じられたほどでした。しかし、ここから風景は一変……。

三陸の旅2011 (2) 八戸線代行バス

2011-09-05 00:00:00 | 濃いぃ路線バス&車両


 階上駅でキハ40・48の旅は終わり、タブレット閉塞の廃止によって無人駅となった駅舎を出ますと、駅前広場には腕木信号をそのままディスプレイしたモニュメントが。そのすぐ目の前に久慈行の代行バスが停車していましたが、何ともデラックスなことにJRバス東北所属の三菱エアロバス(運賃表示や運賃箱はなく、通常は貸切用?)が2台も! そして御丁寧なことにバスガイドさんも車掌代わりに乗務! 学生利用が少ない休日につき、列車から乗り換えた客の数は1台目でも十分間に合ってしまうほどで、2台目は2~3人の客が乗っているだけという状態であったのには忍びなさを禁じ得ませんでしたが、とにかくこの列車には客の多寡に関係なく2台の代行バスを走らせることが決まっているようだ……ということで、約10分の乗換時間を経て静かに出発進行と相成りました(後で角の浜で待っていた練習試合帰りの高校球児がドドッと2号車に乗り、彼らは久慈まで乗り通しましたので、客の数に対してバスが2台とは……という杞憂はすっ飛びました)。
 八戸線代行バスが走るのは、長大な三陸海岸の被災地を貫き「復旧と復興の生命線」となっている国道45号線。鉄道が寸断された区間では代行バスのお世話にならざるを得ない今回の旅も、必然的に国道45号線の旅という位置づけとなります。しかし、八戸線と並行する区間における国道45号線は基本的に標高が高いところを走りますので、その限りにおいて被災地を感じさせるものは見当たりません。バスの車内も、夕方につき家路を急ぐ人々ばかり……ということで、時折駅代わりの臨時停留所に近づくたびに熟練バスガイドさんの美声が響くほかは静寂……。



 しかし、陸中八木駅に向かうために国道45号線から分かれますと、風景の余りの変貌に内心戦慄……。海を見下ろす位置まで進み、眼下に海沿いの堤防らしきものが見えたなぁ……と思うや否や、その先には橋脚を残して全てが流された鉄橋が……。嗚呼……これが八戸線だったとは……。そして陸中八木駅周辺の建物も、漁業センターをはじめ絶句するほどの破壊ぶり……。陸中八木駅そのものも、既に瓦礫は撤去されていましたが、窓が破れた駅舎には無造作にベニヤ板が打ち付けられ、RJ誌2002年8月号 (「郷愁列車再発見」特集) で見られる賑わいは偲ぶべくも無い状態……。とはいえこの風景も、翌日目にする惨状に比べれば「まだまし」でありました(だからこそ、JREと地元との間で八戸線の来春全線再開に向けた合意が出来たのでしょう。地形自体もいざとなったら高所に逃げやすく、郵便局が修理中であった等、元の場所に集落を再建するという動きが始まっていました)。
 陸中八木からは再び元来た道をたどって無傷な国道45号線に戻り、しばらく高所を走った後、今度はいきなり右折して「これは林道か?」と思うような驚愕の狭隘路へ突っ込んで行き、大柄なエアロバスにはしばしば木の枝が当たりそうになります。この地域の土地勘は全くない私は思わず「これは何処へ連れて行かれるんだぁ!」と内心絶叫ものでしたが、数キロ超ヒヤヒヤものの狭隘路を走った先に現れたのは侍浜駅。「凄まじい山の中なのに侍浜とはこは如何に」と思ったのですが、実際の侍浜は切り立った断崖絶壁につき、そんなエリアに鉄道を通しようもなく、内陸部を迂回しているという次第。代行バスも必然的に、面倒ながらも狭隘路をかき分け寄り道することになります。そして何と……すっかり暗くなった侍浜駅からも若い女性が代行バスに乗ってきたではありませんか……。代行バスが小さな集落にとっても生命線となっていることを認識させられたのでした。
 侍浜駅からは別の広い道を走って国道45号線に再合流し、久慈の街へラストスパート! 闇の奥に光り輝く久慈の街が見えてきたときには思わず安堵し、19時30分頃久慈駅前に到着~。EOS 5D MⅡの描写力を活かして、到着直後の代行バスと間もなく階上へ発車しようとする代行バスを手持ちで撮影しつつ、地味ながらも着実に地方交通として息づいている八戸線の早期復旧を祈ったのでした。

三陸の旅2011 (1) 八戸線の赤鬼キハ40

2011-09-04 00:00:00 | 国鉄型車両


 3月11日の大震災から間もなく半年。遅々として進まない後始末と復興の背景にあった政治の機能不全は、新内閣の発足によって果たしてどこまでマシになるのでしょうか? とくに、鉄道の復興にとっても大きな意味があるといわれる第三次補正予算の成立は焦眉の急……。あくまで首都圏南部に住む一端の愚民でしかない私ではありますが、日本国民の誰もが「震災で傷ついた国で暮らしている」ことを常に自覚して、何はさておき奮起することによってこそ、そんな努力の束がめぐりめぐって本当の復興につながって行くのだろう、と思います。
 そこで、大震災から半年となるのを前に、7月の十和田観光電鉄遠征の後に敢行した三陸北部・乗り撮り鉄&バスの模様を連載したく存じます。大変恥ずかしながら、個人的にこれまで三陸というところは訪れたことがなく、「いつかゆっくり旅したいものだ」と思っていたところ大震災が起きてしまいましたので、「被災地を高みの見物か」という批判は恐らく免れず、自分自身も果たして行くべきか行かざるべきか……という煩悶があったのも確かです。しかし、7月には基本的に非常時ではありながらも交通・物流は回復し、再開出来るものは再開しようという気運をニュースなどから得ることが出来ました。そこで、ここは折角北東北に行く以上是非三陸にも足を延ばし、交通機関や美味いものに直接金を落とすことで、ほんの僅かながらでも支援させて頂くと同時に、これまでメディアを通じて知るのみであった被災地の現実、とくに美し過ぎる風景と破壊の爪痕のギャップを生で見ることによって、「傷ついた国」で生きているという自覚を改めて確認したい……と考えた次第です。(以上についてのコメントはご遠慮下さい)



 そんな、私にとって初の三陸訪問……出発点として選んだのは八戸駅でした。その理由は、十和田観光電鉄イベントとの掛け持ちもさることながら、三陸鉄道不通区間の代行バスの本数が極めて少なく、明るい時間に最小限のタイムロスで久慈~宮古間を移動するならば、前日までに久慈に到着しておく必要があるからです。先日、八戸駅で青い森鉄道の701系を撮影したカットをアップしましたが、それはひとえに八戸発17:08・階上行の発車まで時間があったためでして……(^^;
 八戸駅2・3番線の先端で撮り鉄しておりますと、青い森鉄道の車両だけでなく、JR八戸線のキハ40・48もジャンジャン撮影することが出来ます。八戸線は最近「うみねこレール八戸市内線」という、ヨソ者にはナゾな愛称がつけられていますが、「市内線」の名称に違わず (?) 鮫までは本数が多く、しかも八戸運輸区と八戸駅のあいだの入換も多数 (?) ありますので、恐らくこれからハイブリッド車や燃料電池車の増加によって急激に減って行くであろうキハ40・48のモタモタした加速ぶりを何度でも楽しめてしまうという……(^O^)。そして今回は、約3年前の撮影時にはフラれてしまった「赤鬼顔」をゲット♪ 今回の大震災では仙台支社のキハ40・48が複数被災しているだけに、盛岡支社色キハ40・48の長寿を祈るととともに、撮影しながら「う~ん、果たしてこれらのキハ40・48は東南アジアに輸出されるかのぅ……?」という邪念に取り憑かれる私でした (笑)。
 その後は、臨時ダイヤで1日4本が設定されているのみであった階上行に乗り、いよいよ三陸の旅へ……。これまで八戸線は本八戸までしか乗ったことがないため (汗)、見るもの全ては目新しく……市街地がぷっつり途切れるところにある鮫駅を発車してすぐ左側にある蕪島に無数のウミネコが群れているのを見てようやく「うみねこレール八戸市内線」の意味を深くかみしめた次第です (汗)。階上までの線路は基本的に高いところを走り、それが早期の復旧の所以だったのかと納得。時折現れる海岸線は最高に素晴らしく、とくに種差海岸の奇岩と芝生の組み合わせには「これはスゴい・・」の一言。津波で海岸線が荒れた印象は、鮫から階上まで乗っている限り余り受けなかったのですが、津波の高さが他よりも低かったためか、後片付けが進んだためだったのか……(少なくとも蕪島入口の道は復旧工事中でしたが)。
 こんな感じで車窓風景に目を凝らしているうちに階上到着。ここから先の鉄路は赤く錆び付き、乗客は全員代行バスに乗換となりましたが、今では復旧区間が利用客の多い種市まで伸び、本数も7往復となって目出度い限りです。


 階上にて。1番線と2番線久慈方の線路が錆びており、これも記録の一つということで……。



 久慈にて。来年春にはこれらの車両も線路を走って無事八戸へ戻ることが出来るようです。

第三ジャカルタ炎鉄録 (13) メトロ7117F

2011-09-03 00:00:00 | インドネシアの鉄道


 メトロ7000系をはじめ有楽町・副都心線筋の車両がじきに東横線を白昼堂々闊歩し始めるという「美しい時代」に乾杯 (爆)……というわけで、ジャカルタのメトロ7000系を大量に撮ったカットの中からもう少々 (^^;)。
 ジャカルタでのデビューを飾ってから約1年を経たメトロ7000系の活躍ぶりは本当に華々しい限りでありまして、ある日の夕方、ボゴール~中央線筋をジャカルタ・コタへ向かう電車が超ド順光(ハードコアな○ロ光線)となるのを狙って構えていたところ、何と4本連続でメトロ7000系だったことも……(4本全てが一時に集中し揃い踏んだということです)。有楽町~東上&西武池袋ユーザーであれば恐らく超鼻血モノであったと思われるそんな光景も、第一義的には東急8000系列&JR103系狙いである私にはいささか「何だかなぁ……もうちょい他のもよこしてくれぇ~」という感じではありましたが (滝汗)、それでも編成中3両が狭窓である7117Fが来れば最高に盛り上がってしまいますね~(^O^)。



 それにしても、昨年8月上旬の訪問時にはメトロ7000系の営業運転はタッチの差で始まっていなかったため、メトロ7000系のジャカルタでの営業運転を目にするまで約1年待つ格好になってしまった私ですが、今年の訪問もまさにその二の舞になってしまっているような……。帰国後ネットを見ておりますと、つい最近次のような動きがあったようです (滝汗)。
 *メトロ6000系26F営業運転開始!
 *ボンバルディア製下回りを持つINKA社製冷房車「KFW」試運転開始!
 *都営6000系のイモムシ風先頭化編成・6227F、青黄帯化され試運転開始!
 *エコノミーAC客レ(新ジャンル客車)「Gajah Wong」号、運転開始!
 (*そして……間もなく東海色103系低運が全検を終え試運転開始?!)
……う~ん、何ともタイミングが宜しくない訪問となってしまいました (苦笑)。レバラン(断食明け)以後となる9月の訪問としておけば、食生活で苦労することなくこれらの車両を撮ることも出来たと思われますが、1週間休めるタイミングがなかなかないもので仕方がないですね……。まぁ来年訪れれば203系を含めて全部撮れるだろうということで……(^^;
 そして特に期待しているのは、メトロ6000系のうち狭窓車、そして田の字窓車がジャカルタ・デビューを飾ることですが、既にジャカルタ入りした15Fがいずれ走り始めるとして、果たしてこれらの特徴を持つ他の編成はジャカルタに送られることになるのでしょうか? とくに田の字窓プリーズ……(^^;;