我が愛する三国志の酷い記事を見かけたので誤りを正させてもらう。
ファンの端くれとしてこういった「正しい情報を装った嘘八百」は大嫌いである。
元記事 → 三国志の英雄たちは実は「ダメ上司」だった 曹操・諸葛亮は「リーダーの反面教師」だ
後漢の歴史家・陳寿
↓
陳寿は233年生まれ。後漢は220年に滅びている。正しくは蜀または魏か晋の歴史家。
劉禅は完全な「お金持ちのドラ息子」で、諸葛亮が病死するとあっさりと魏に自国を明け渡すと、自らは生き残り、生涯遊んで暮らします。
↓
蜀の滅亡は諸葛亮の死から29年後。劉禅はその7年後に死亡した。享年65。あっさり明け渡しただのドラ息子だの生涯遊んで暮らしただのと呼べるだろうか。また陳寿は劉禅をドラ息子どころか無能などとは一言も書いていない。
袁紹はお気に入りの参謀・郭図の甘言ばかり採用しました。
↓
同じ参謀なら郭図よりも審配や逢紀の方が重用されている。郭図は袁紹の子の袁譚により重用されより酷い失策を重ねた。
郭図と張コウは別々の場所に兵を送ることを進言します。この際、袁紹は軍を二手に分けて攻撃するという優柔不断な戦略をとり、全軍が共倒れして大敗してしまいました。自分の君主が郭図の進言ばかり聞くことに反感を抱いていた張コウは、ついに袁紹を裏切り、敵である曹操に寝返ってしまいます。
↓
張郃の部隊は敗れておらず共倒れしていない。また「張郃伝」こそ郭図の讒言と書いているが「武帝紀(曹操伝)」や「袁紹伝」では讒言はしておらずそもそもその前に降伏している。だいいち部隊を二手に分けているなら張郃の進言も聞いているわけで不満は無いはずである。実際には張郃は「二手に分けず一方に兵を集めろ」と進言したのを退けられ不満を持ったのである。
袁紹は息子(袁尚)の病気を理由にこの進言を採用せず
↓
すでに成人していた袁尚ではなく赤子である。wikiに袁尚と書かれているのを鵜呑みにしているだけ。
田豊は「すでに勝機を逃し、今戦えば大敗する」と反対します。これに腹を立てた袁紹は、「田豊がわざと自分の考えに反対している」と、彼を投獄してしまいます。
↓
田豊が投獄されたのは戦いに反対したからではなく「すでに好機を逃している」と袁紹の急戦に対し持久戦を提案し、執拗に諫言したため「田豊は反対ばかりで全軍の士気をくじく」と激怒されたからである。
彼の強みは、神がかった人材登用術でした。「赤壁の戦い」では周瑜を用いて魏を破り、「荊州攻め」では呂蒙を用いて関羽を破り、「夷陵の戦い」では陸遜を用いて劉備を破るなど、「当たり采配」によって強固な地盤を築きます。
↓
周瑜も呂蒙も元から指揮官であり孫権がその戦に際し抜擢したわけではない。陸遜は確かに抜擢だろう。
孫権は自らが建国した呉を滅ぼす遠縁をつくってしまいます。
↓
遠因の誤り。
赤壁の戦いで魏を倒してから35年が経ち、呉も順調に発展して、余裕が出てきた時期です。
↓
魏(曹操)軍の侵攻を一時的に退けただけで別に倒してはいない。それどころか数年後には魏に降伏している。まるで赤壁の戦いを制したおかげで35年間平和だったかのような書き方はいかがなものか。
孫権は陸遜を含めた優秀な配下を次々と処刑してしまいます。
↓
陸遜は処刑されていない。長らく流刑にされたと言われていたが近年の研究ではそれすらされていない。
一方、魏でも曹操の息子たちである曹丕と曹植が後継者争いを行いましたが、曹操は曹丕を後継者に指名したことで争いは収まり、後の世代でも安定した治世が続きました。
↓
曹操もなかなか後継者を決められず曹丕と曹植は暗闘を繰り広げた。曹丕は即位後に曹植を遠流し、その一派である楊修や丁儀兄弟らを処刑した。曹丕は即位後わずか8年で没し、以降は幼君が続き魏は3代目から早くも傀儡政権を敷かれた。はたして安定した治世が続いたと言えるだろうか。
普段、曹操は、賈詡や程昱などの参謀の言うことによく耳を傾けました。しかし、天下統一を目前にして意識が高揚し、冷静な判断を欠いていたのです。こんなときこそ慎重になるべきですが、あの曹操でさえもそれは難しかったようです。
↓
そもそもこの荊州征伐自体が参謀の筆頭格である荀彧の立案である。参謀は賈詡と程昱だけではなく、無数の献策から選択しているのであり、曹操の独断専行と言うのは筋違い。ついでに言えば賈詡は曹操に仕えて10年も経っていない新参で、しかも宛城の戦いで曹操を殺しかけた人物でもある。
愛弟子の馬謖にある戦いを任せましたが、命令違反をした馬謖は大敗してしまいます。
↓
馬謖が愛弟子というのがまず「演義」の脚色である。諸葛亮が「街道を固めよ」と命令したのは「演義」の話であり、馬謖は判断ミスから山上に陣を構えて大敗した。
諸葛亮は人材を用いることをやめ、将軍の姜維などの一部の者を除き、後継者を育てることをしませんでした
↓
諸葛亮がいつ人材を用いるのを辞めたのだろうか。死後に丞相の座についた蔣琬や費禕は後継者ではないのか。
諸葛亮はその後まもなく病で倒れ、人材が育たなかった蜀はあっさりと魏に征服されてしまいます。
↓
前述した通り蜀の滅亡は諸葛亮の死から29年後でありあっさり征服されていない。29年後の滅亡まで諸葛亮の育成失敗のせいと片付けられるのか。
以上細かいあげつらいをしたがそもそも、
群雄たちの活躍の多くは、実は後年の作家・羅貫中の小説『三国志演義』による“創作”にすぎない。
実際の英雄たちの姿は、後漢(※晋)の歴史家・陳寿が記した歴史書・『正史 三国志』に記されているが、フィクションのヒロイックな姿とはかけ離れた、「リアルなリーダー像」が描かれている。
と最初にぶち上げているが、今回紹介している逸話はほぼ全部が「三国志演義」でも描かれているし「演義」限定の逸話も多々あるのだが、「演義」をわざわざ「“創作”にすぎない」と貶める必要はあったのだろうか。
「演義」を不当にこき下ろし、正確な知識を用いず、詳しくない人々に誤った情報をばらまく。
我々三国志ファンが最も嫌い、最も許せない行為である。筆者には猛省を促したい。
ファンの端くれとしてこういった「正しい情報を装った嘘八百」は大嫌いである。
元記事 → 三国志の英雄たちは実は「ダメ上司」だった 曹操・諸葛亮は「リーダーの反面教師」だ
後漢の歴史家・陳寿
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陳寿は233年生まれ。後漢は220年に滅びている。正しくは蜀または魏か晋の歴史家。
劉禅は完全な「お金持ちのドラ息子」で、諸葛亮が病死するとあっさりと魏に自国を明け渡すと、自らは生き残り、生涯遊んで暮らします。
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蜀の滅亡は諸葛亮の死から29年後。劉禅はその7年後に死亡した。享年65。あっさり明け渡しただのドラ息子だの生涯遊んで暮らしただのと呼べるだろうか。また陳寿は劉禅をドラ息子どころか無能などとは一言も書いていない。
袁紹はお気に入りの参謀・郭図の甘言ばかり採用しました。
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同じ参謀なら郭図よりも審配や逢紀の方が重用されている。郭図は袁紹の子の袁譚により重用されより酷い失策を重ねた。
郭図と張コウは別々の場所に兵を送ることを進言します。この際、袁紹は軍を二手に分けて攻撃するという優柔不断な戦略をとり、全軍が共倒れして大敗してしまいました。自分の君主が郭図の進言ばかり聞くことに反感を抱いていた張コウは、ついに袁紹を裏切り、敵である曹操に寝返ってしまいます。
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張郃の部隊は敗れておらず共倒れしていない。また「張郃伝」こそ郭図の讒言と書いているが「武帝紀(曹操伝)」や「袁紹伝」では讒言はしておらずそもそもその前に降伏している。だいいち部隊を二手に分けているなら張郃の進言も聞いているわけで不満は無いはずである。実際には張郃は「二手に分けず一方に兵を集めろ」と進言したのを退けられ不満を持ったのである。
袁紹は息子(袁尚)の病気を理由にこの進言を採用せず
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すでに成人していた袁尚ではなく赤子である。wikiに袁尚と書かれているのを鵜呑みにしているだけ。
田豊は「すでに勝機を逃し、今戦えば大敗する」と反対します。これに腹を立てた袁紹は、「田豊がわざと自分の考えに反対している」と、彼を投獄してしまいます。
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田豊が投獄されたのは戦いに反対したからではなく「すでに好機を逃している」と袁紹の急戦に対し持久戦を提案し、執拗に諫言したため「田豊は反対ばかりで全軍の士気をくじく」と激怒されたからである。
彼の強みは、神がかった人材登用術でした。「赤壁の戦い」では周瑜を用いて魏を破り、「荊州攻め」では呂蒙を用いて関羽を破り、「夷陵の戦い」では陸遜を用いて劉備を破るなど、「当たり采配」によって強固な地盤を築きます。
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周瑜も呂蒙も元から指揮官であり孫権がその戦に際し抜擢したわけではない。陸遜は確かに抜擢だろう。
孫権は自らが建国した呉を滅ぼす遠縁をつくってしまいます。
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遠因の誤り。
赤壁の戦いで魏を倒してから35年が経ち、呉も順調に発展して、余裕が出てきた時期です。
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魏(曹操)軍の侵攻を一時的に退けただけで別に倒してはいない。それどころか数年後には魏に降伏している。まるで赤壁の戦いを制したおかげで35年間平和だったかのような書き方はいかがなものか。
孫権は陸遜を含めた優秀な配下を次々と処刑してしまいます。
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陸遜は処刑されていない。長らく流刑にされたと言われていたが近年の研究ではそれすらされていない。
一方、魏でも曹操の息子たちである曹丕と曹植が後継者争いを行いましたが、曹操は曹丕を後継者に指名したことで争いは収まり、後の世代でも安定した治世が続きました。
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曹操もなかなか後継者を決められず曹丕と曹植は暗闘を繰り広げた。曹丕は即位後に曹植を遠流し、その一派である楊修や丁儀兄弟らを処刑した。曹丕は即位後わずか8年で没し、以降は幼君が続き魏は3代目から早くも傀儡政権を敷かれた。はたして安定した治世が続いたと言えるだろうか。
普段、曹操は、賈詡や程昱などの参謀の言うことによく耳を傾けました。しかし、天下統一を目前にして意識が高揚し、冷静な判断を欠いていたのです。こんなときこそ慎重になるべきですが、あの曹操でさえもそれは難しかったようです。
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そもそもこの荊州征伐自体が参謀の筆頭格である荀彧の立案である。参謀は賈詡と程昱だけではなく、無数の献策から選択しているのであり、曹操の独断専行と言うのは筋違い。ついでに言えば賈詡は曹操に仕えて10年も経っていない新参で、しかも宛城の戦いで曹操を殺しかけた人物でもある。
愛弟子の馬謖にある戦いを任せましたが、命令違反をした馬謖は大敗してしまいます。
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馬謖が愛弟子というのがまず「演義」の脚色である。諸葛亮が「街道を固めよ」と命令したのは「演義」の話であり、馬謖は判断ミスから山上に陣を構えて大敗した。
諸葛亮は人材を用いることをやめ、将軍の姜維などの一部の者を除き、後継者を育てることをしませんでした
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諸葛亮がいつ人材を用いるのを辞めたのだろうか。死後に丞相の座についた蔣琬や費禕は後継者ではないのか。
諸葛亮はその後まもなく病で倒れ、人材が育たなかった蜀はあっさりと魏に征服されてしまいます。
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前述した通り蜀の滅亡は諸葛亮の死から29年後でありあっさり征服されていない。29年後の滅亡まで諸葛亮の育成失敗のせいと片付けられるのか。
以上細かいあげつらいをしたがそもそも、
群雄たちの活躍の多くは、実は後年の作家・羅貫中の小説『三国志演義』による“創作”にすぎない。
実際の英雄たちの姿は、後漢(※晋)の歴史家・陳寿が記した歴史書・『正史 三国志』に記されているが、フィクションのヒロイックな姿とはかけ離れた、「リアルなリーダー像」が描かれている。
と最初にぶち上げているが、今回紹介している逸話はほぼ全部が「三国志演義」でも描かれているし「演義」限定の逸話も多々あるのだが、「演義」をわざわざ「“創作”にすぎない」と貶める必要はあったのだろうか。
「演義」を不当にこき下ろし、正確な知識を用いず、詳しくない人々に誤った情報をばらまく。
我々三国志ファンが最も嫌い、最も許せない行為である。筆者には猛省を促したい。