東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

小松帯刀の墓

2008-04-20 09:41:16 | 篤姫

肝付の尚ちゃんは無事小松家に婿入りをしましたかな。しばらく我慢してNHKの篤姫を見ておりましたが、あまりのひどさに最近はトント御無沙汰なのであります。

それでも正月以来何回が辛抱してNHKを見ていたのは、歴史でも、小説でも、映画でも明治維新ものでまったく扱われることのなかった小松帯刀がノッケから順主役の形で出ていたからなのであります。尚五郎さんは小松家に婿入りしたかどうか(篤姫で)も不案内なのでありますが。

今回は小松帯刀の墓であります。キモツキさんのころはあまり人気がなかったでしょうが、小松尚五郎帯刀とドラマでも名前が変われば、観光スポットとして人気もそこそこ出るやもしれませぬ。そこで今回のテーマとなります。

何年か前に鹿児島県日置市にある小松家墓所をたずねた時のことです。交通の便の悪いところで、鹿児島本線の伊集院駅で降りてタクシーで二千円くらい南下したところでしたかね。鹿児島本線はやや北上しますので、鹿児島市内から車で直接行くほうがいいのかもしれません。

農道から30メートルほど土の道をおくに入ります。やや小高い台地になっております。ここは吉利園林寺の墓所でありますが、寺は廃寺となっております。小松家の墓所は突き当たりで、広さは50ないし60平方メートルの広さ(狭さ)であります。これに小松家の10代から29代小松帯刀までの墓が密集しております。

さらに墓所には当主の墓のほかに独立した夫人や側室の墓石もあり、昭和天皇からの下賜金を記念した石碑もある。また薩摩藩お抱えの横綱陣幕の奉納した石灯籠もたっている。これらがせいぜい60平方メートルのマンションの一室ににあるところを想像してください。狭いところに密集状態であります。それがまず第一に異様な印象を与えます。

墓石がもろい材質のせいもあるのでしょうが、彫られた名前、戒名が読める墓石は一つもありません。明治になってから立てられた帯刀の墓の銘も全く隠滅磨耗しております。わずかに読めるのは昭和10年に昭和天皇の下賜金を記念した石碑でこれは彫られた文字が読めます。それとどういうわけか帯刀とはなれたところにある彼の側室琴子の小さな墓石の銘ははっきりと残っております。

そのせいもあるのでしょう。市の観光課が立てたと思われる案内板があり、どの墓が誰のものかを示しています。これを見ないとどれが誰の墓だか分かりません。

墓所は10メートル弱の高さの台地上にあるのですが、最後の当主帯刀の墓は台地のがけから30センチも離れていません。転落を防ぐためにフェンスがありますが、2,30センチの隙間しかなく帯刀の墓の前で額ずくスペースはありません。かろうじて体を横にして通れるくらいの幅しか墓とフェンスの間はありません。

鹿児島は台風が多く、大雨もよく振るところです。もしがけ崩れが起これば帯刀の墓は崩落してしまうのではないでしょうか。ま、いままで災害も無いところからよほど固い地盤の上に立っているのでしょう。

もともと墓所がこのようなレイアウトで作られたとは信じられないようなロケーションであることは間違いありません。不思議なところです。墓の密集状態も土葬であれば不可能ではないかとも危惧されるところです。