人口が減少し農業が衰退する地方にあっては、公共事業はありがたいものである。何せ頭をさっげるだけで、湯水のごとくのお金が降りてくるのである。
公共事業は、地方の要請があって橋を造ります、農地改良をやりますということになる。今まで私が見てきた事業で、確かにそうしたものがないでもないが、ほとんどの事業はこんなものではない。
「こんな事業があるから、地域の皆さんで要請するように」と何やら文章が降りてくる。どこから来るのかわからない。ほとんどは、地方自治体の議員さんか、農協の理事さんが署名を持って印鑑をもらいに歩く。
何か地域に、事業という名を借りたお金がが降りてくるのだから、ほとんどの人は反対などしない。事業にかかわる人以外も、署名する。AさんがするのだからとBさんも署名する。
国家に潤沢な資金があり、環境に包容力があるある間はそれも容認される要素はあったで あろう。そうしたものもらい、お上依存の事業は、結局は地域の健全な産業の育成を阻害する結果になる。
公共事業は、全国一律で規格が決められている。とりわけ農業に関係するものは、亜熱帯の沖縄でも亜寒帯の北海道でも、同じ基準で行われる。地域の特殊性も、事業の独自性もない。
地域の風土に合った産業や、農業は培われない。そのいい例が、北海道の冷涼地帯での酪農である。たとえば、道東の根室地方でも、集約的な農業形態が事業の対象になり、国の推薦形態になる。
その結果、府県の都市近郊型酪農と何ら変わらない、穀物依存型農業が根室地方の酪農形態になる。根室の乳牛から搾られた牛乳のほとんどは、閉そくされた牛舎で外に出ることがない乳牛から搾られている。輸入穀物依存の酪農は、海外の動静で大騒ぎとなる。
公共事業は、基本価格の底上げをする。例えばトラクターであるが、事業で購入すると業者の設定した定価の1千万円するものでも、直接お金を出すと700万円以下で買える。その差額は、業者が儲け国民が負担する。
こうして地域にお金が降りる。農業予算で、土建屋などの業者が潤うことになる。これは、角栄の作った構造的な問題である。日本はその負担を、次世代に残すことになるのである。