また通り魔事件があった。今回も派遣社員の男である。社会がこんない騒いでくれるならと、凶器を持って目に止まった人物を刺して殺した。人命を何とも思わない、残忍な事件である。
又々、彼の口から「誰でもいいから、殺したかった」という言葉が出た。怨恨や物取りを犯罪の原因としていた社会が、崩れてきたのである。不特定の人物が、無関係の人を殺すのである。
今年に入って、「誰でもいいから」と、他人を殺したりプラットホームから突き落としたりした事件が、10件近く発生しているらしい。ところで、彼らの発する「誰でもいいから」は、格差社会の底辺に追いやられた彼らが、まず叫んだ言葉ではない。
彼らこそ、雇用者から「誰でもいいから」と、派遣会社から人格も労働者の権利も与えられることもなく、雇われている存在である。
派遣社員で会社を埋めることで、雇用者たちは、最も高くつく人件費と、最も扱いの厄介な 労働者の権利に対して、無関心でいることができる。だから彼らは「誰でもいいから」、とにかく働く人物を派遣してもらう。
雇用関係は、派遣会社と派遣社員との問題である。労働者が、権利を主張したり賃上げを要求するようだと、派遣会社にクレームをつければ事足りる。派遣会社は、新たな人物を持って行けば良い。替わりはいくらでもある。何せ世の中不況である。誰でもいいのである。
格差社会は、貧困を生むだけではない。労働者としての当然の権利だでけでなく、人権や人としての尊厳までも奪うことになる。彼らには、自分の存在意義がなくなるのである。彼らこそ、「誰でもいい」存在となっているのである。
居場所をなくした派遣社員は、社会全体の活力を喪失させる。ひと時、会社の収支を良くするだけである。税収だけでなく、年金や各種社会保険関係の支柱を危うさせ、文化的活動を停滞させる。
通り魔事件を擁護するつもりは毛頭ないが、彼らを追い詰めた小泉・竹中新自由主義は、企業を税制で優遇させる一方で、労働者に過酷な制度を広く浸潤させた。精神的に、不安定な社会を現出させたのである。企業間の競争が社会を良くするというのである。
凶器を持って、「誰でもいいから」切りつける個人をいくら裁いても、ナイフの形や長さをいくら取り締まっても、監視カメラをいくら増やしても、根本的な問題は解決するとは思えない。