今日は終戦記念日である。日本が350万人もの犠牲者を出して、戦争 終結をようやく天皇の“御聖断”で終結させた日である。国体護持(天皇を守るということである)を最優先させた無条件降伏のポツダム宣言から、22日の経っていた。その間に100万人近い人が犠牲になっている。
大本営は、ポツダム宣言を無視することで乗り切ろうとした。この間に、広島長崎の原爆投下や、関西地域の大規模な空襲が無差別に行われ、地方都市は空襲によって壊滅状態になるところも少なくなかった。
我が家は、東京の真ん中で何度も空襲を受け、逃げ惑っていた。疎開先に荷物と次男を20年1月に送っている。この最初の荷物だけが無事であったが、その後の荷物はことごとく、どこかの操車場で灰になったのであろう。疎開先の広島には届くことがなかった。
残った貴重な戦時下の写真がある母が男の子3人を引き連れたこの写真は、奇跡的に残った1枚である。手を繋がれてようやく立っている私は、1歳を過ぎたばかりの、昭和19年(1944年)の秋とのことである。写真を撮る余裕があったという意味で、まだ裕福だったのかもしれない。(クリックすると大きくなります)
焼夷弾による東京空襲は身に付けた僅かなものを残して、我が家の財産をことごとく灰にした。私は、母の背中で火の中を長兄とともに逃げ惑った。その痕跡は、母が決して捨てようとしなかった、防空頭巾に無数に穴の火の粉による焼けた跡となって残っている。
戦後間もなく疎開先で父の戦死の公報を受け、母は女手一つで育てることになった。僅かな預貯金は、戦後の大インフレで無いに等しいものになってしまった。火災保険は、重病になって治療することになった、二男の入院費に消えた。住むところがなく、親戚を転々と厄介になる生活がその後しばらく続くことになる。
家庭の大黒柱を亡くした我が家の生活は、困窮を極めた。お嬢様育ちの母を戦争は逞しくさせた。父の知り合いの紹介で母が定職に付けたのは、26年になってからである。男手が残っている人を羨む言葉を何度も吐いていた。