そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

戦陣訓が父を殺した

2010-08-16 | 平和

父は苦学して早稲田の夜学を出たそうである。逓信省(後の郵政省)に勤務していた。志願兵ということであるが、実際は上官に促されて兵役についた。通信兵ということで、フィリッピンに行った。赴任地はマニラである。

東京には、長男と二男それに身重の若き妻を残して出兵した。“♪ 勝ってくるぞと勇ましく・・・ ”と、身重の母は玄関先までしか見送ることができなかった。その僅か1週間あとに、三男が生まれた。私である。

赴任地はマニラであった。その時の写真が送られてきたのが残っSyukuている。マニラ市街戦は熾烈を極めた。元々軍人ではない父は、マニラからセブ島に転進した。マニラの2年足らずの生活は楽しかったと、戦友が伝えてくれた。

昭和20年3月にマッカーサーがセブ島に上陸し、日本軍は敗走した。脚気になっていた父は銃弾を全て戦友に託し、自害用の手りゅう弾を動けずに残る3名に一つ渡し、本隊は前進し密林に逃げた。父が3名を代表して決意を述べたそうである。

「生きて虜囚の辱めを受けず」、東条英機が作った”戦陣訓”である。まじめな父は戦陣訓を忠実に守った。本国に愛しい3人の子供と若い妻を残し、どうしてのような判断が出来たのか、いくら考えても今の私には理解できない。それほど戦陣訓は大きな力を持っていた。戦争は正常な判断を人から奪う。

日本軍は、17年6月のミッドゥエー開戦でほぼ敗戦が決定されている。正常な国家の指導者であればこの時点で、敗戦を決定するべきなのである。真珠湾攻撃の僅か8ヶ月後のことである。この戦争を引き延ばせたのは、戦陣訓である。物資がなく兵士には白兵戦を強制された。白兵戦とは銃弾をなくした兵士が、銃剣を突き立て突進する戦いである。バンザイ突撃でもあるが、自殺行為で何の役にも立たない。神風特攻も回天も同じである。それでも戦いで死んだものは兵士の様を見ることができる。その倍を超える兵士が餓死か病死で『戦死』している。ミッドゥエー以降の戦いは全て意味がない戦いであった。

母は「死んだものは良いさ」とよく言っていた。ひもじい育ち盛りの男の子3人を抱えて、お嬢さんとして育てられた三女の母は懸命になりふり構わず働いた。戦争は、私たち平和な家庭から全てを奪った。夏が来るたびに、靖国神社に詣でる愚民を許すことのできない感情で見つめ続けている。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羅臼港

春誓い羅臼港