身重の母は、父たちが「靖国で会おう」と話していたのを怖ろしい気持ちで聞いていた。それは、即ち死ぬことを意味するからである。やがてそれが3年後に現実になることをまだ知らぬまま、母は二人の子供の手をとって、玄関先で父を送った。 懸命に日の丸の旗を振る以外に母に出来ることはなかった。
父は靖国に奉られている。小学校時代に戦災遺児として見舞った以外は、訪れたことはない。前をを通ったこともあるが、神殿に手を合わせる気にはなれない。父の思いはこの神社の中にあるのだとは思っている。国家に裏切られたことを知らぬまま、父は奉られている。
靖国神社にはA級戦犯14名が合祀しているから参拝しないこともある。国家に身を捧げた父は正確な情報もなく、作り上げられた国家の虚像を信じて自害したのである。英霊と呼ぶにはあまりにも、悲惨な死に方をしている人たちばかりである。餓死と病死が殆どの南方で亡くなった方々、死を強制された戦いの中で自害した人たち、自殺攻撃をした方たちを「英霊」と呼ぶのは過ちを隠そうとする虚飾でしかない。
靖国神社は終戦直後から筑波藤麿宮司が、32年間勤め上げた。筑波宮司は皇室出身者である。彼は戦死者でない戦犯者の合祀には一貫して反対であった。遺族会や厚生省から、年金との突合を指摘され、渋々B、C級戦犯の合祀は国家への受難者とし認めた。
後を継いだ、皇国史観を強く持つ元軍人の松平永芳宮司が、1978年10月に秘密裏にA級戦犯を「昭和受難者」として合祀した。翌年朝日新聞がスクープして大騒ぎになった。その後天皇は靖国に参拝しなくなった。この時期から、遊就館の建設など、急速に靖国は右傾化してくる。
先の戦争をいまだに正しい正義の戦いだと信じる人たちが、恥ずかしげもなく終戦の日に参拝する。この連中は、戦争で死んだ国民を「英霊」と祭り上げることで、次の戦争を模索するのである。戦前の国家を形づくった虚構は未だに死ぬことはない。
父の思いは靖国にあるのだとは思う。殆ど遺品のない父の奉られる神社であるが、いまだに靖国には行く気にはなれない。