そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

裁判員制度をこれからも続けるのか

2012-05-21 | 政治と金

今日で裁判員制度が導入されて、3年になる。一般の人が人を裁く制度がどうして導入されたか理解できない。3年で国民の間に定着したと、推進者は自賛する。本当にそうか?

裁判員には守秘義務があり、検討内容は公開してはならないことになっている。裁判員には罰則規定もあるが、裁判官にはそれがない。検討内容は公開されることによって、”判例”が増える。

法治国家の法律は、文言の解釈だけで成り立つものではない。多くの判例を積み重ねることにより、法体系が豊富化するものである。裁判員制度は、どのみち素人集団であるから、判例にはならないとされているのであろうか?

そうではなく、制度作成時に権威を持たせようとしたのかもしれないし、個人負担を軽減させる誤った計らいもあったと思われる。

裁判員になった人たちは、貴重な体験をしたことに加えて、精神的な負担、苦痛を上げている。体験は当然としても、精神的な負担や苦痛は個人差はあるものの、今後の人生に身に着くものとはなっていない。

一つは検討内容を検証し合うなど、他の裁判員制度の検討事例や、人的な交流などによる吸収場所がないからである。

極めて安価な報酬も問題である。多くの人が、仕事時間となる時間帯にしか開催されることがない。裁判員の都合に合わせ、休日や深夜の開催などの柔軟性もない。

社会的に均等な人的割合から選ばれるものではなく、選考による偏りもあり、公平さを欠く事例もあるはずである。公開されることがないので、そのこともよく判らないし、そのため今後の改善も起きることはない。

常に新たな人が選考され、特定の人が請け負い習熟するアメリカのような利点が生かされることもない。

裁判員が判断を下したとしても、上告によってそれらが水泡に帰する。結局は、難解な法文を熟読し試験に合格した者、玄人職業人に委ねることになる。

裁判員の存在の意味は、どこにあったのであろうか。特に重大事件ほどその傾向が強い。裁判員制度はなくても同じことである。

国民の司法への参加あるいは、裁判に一般国民の感覚を導入することなどを謳っているが、他にいくらでも方法があるはずである。

判事や検事の評価を国民に委ねたり、被告や被害者たちの声などを取り上げるなど、開かれた裁判制度の検討はいくらでも考えられる。特定の人物に無為に負担をかけるのは、制度上も多くの矛盾を抱えたままである。

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