NHKのアーカイブスで『昭和の選択』シリーズで、吉田茂を取り上げていた。
敗戦後6年、昭和26年当時、日本橋の三井本館にGHQの外交局が置かれていた。
日本はまだ占領下。貧困の極みにある国民も多く、1000万人が餓死する恐れがあるといわれる状況下であった。
戦後の総理大臣吉田茂は、とにかく占領状態から抜け出し、経済復興へ向かいたいと願っていた。
敗戦国日本が独立を認めてもらうためには、各国と講和条約を結ぶ必要がある。
昭和25年6月21日、予備調査のためアメリカからは対日特使としてダレスが来日。
当時はソ連や中国の共産党勢力が勢いを増している状況であり、ダレスとしては今後の日本が共産圏側に組み入れられるのを絶対に阻止しなくてはならないと考えていた。
国が自衛するすべを持たなくて自力で立つことはありえない、よって、日本も独立を願うのであれば再軍備が必要だ、というのがダレスの考えだった。
対談相手である吉田茂の考えは違った。戦前の日本の過ちは軍備の重さの結果であり、当時貧乏のどん底にある日本に再軍備という提案はありえなかった。占領軍の司令官であるマッカーサーも平和主義に徹した国を作ろうという意図を貫いており、アメリカ人であってもダレスとは考えが異なっていた。
昭和25年6月25日。朝鮮戦争勃発。
アメリカ軍をはじめ、国連軍が朝鮮半島に派兵された。
帰国したダレスは、日本における共産党勢力の芽を摘むためにも早期の講和条約締結が必要と国防総省に具申する。
ダレスの日本の再軍備の想定では10個師団(1個師団は約3万人)であり、それを日本側に求めてきていた。
昭和25年11月24日 対日講和条約の7原則を伝えてきた。
その中には、
すべての国は敗戦国日本に賠償金請求権を放棄する。
安全保障については継続的に協力する責任がある。
などが盛り込まれていた。
ダレス、再来日。
再び再軍備を求められる。しかし、新憲法の9条に背くことになる。しかしながらわが国の独立を勝ち取るためには、講和条約の締結が必要だ。どう選択すべきか、吉田茂は選択を迫られていた。
吉田の考え
1)日本は防衛力を持たないで、有事の際には国連軍を頼りにしたい。
2)北太平洋軍事制限案を提起し、日本を含む周辺地域を非武装地帯とする。
3)二国間での条約を結ぶことにする(マッカーサーの案)。
1)は、冷戦状態では期待できない。2)も現実的ではないので、結局 3)を選択することになる。
昭和26年1月25日 ダレスが再々来日。三井本館で吉田と会談。
吉田は、日本人の自尊心を傷つけない形で独立したいこと、今の日本の現状では自主経済が不能に陥るから、再軍備はできないと主張。
再軍備は日本経済の足かせになると、マッカーサーも再軍備案には反対の立場だった。
4日後の2月2日 講演でダレスは防衛力を持たず、望むだけでは平和は訪れない、と繰り返す。占領状態から脱したい吉田茂は2月3日に、5万人規模の保安隊を組織することを伝える。
2月5日 ついに、提案していた7か条に基づく講和を進めようという流れに向かう。
2月7日 ダレスと会談。上記の3)2国間で条約を結ぶ了解で、講和を進めていくことで合意。
この一連の講和に関して吉田茂は一切国会で審議することもなく進めていっている。
吉田茂からは、安保についても一切の説明もなく、当然了承もなされていなかった。
今とは違って、相手が強者であっても、当然に説明を求めていくほど、当時の日本の民主主義は成熟していなかった。
敗戦国民にとっては、互角に渡り合っている状況ではなかった。戦勝国アメリカに対して、よく頑張っているという反応が一般的だった。
占領の日本ではマッカーサーと互角に渡り合える人物は、吉田のほかにはいなかった。
マッカーサーと対等に渡り合える吉田がいたことが、国民には救いだった。
ダレスは日本を立って、オーストラリア、フィリピン、ヨーロッパなどを回り、講和成立のための了解を取り付けに回っている。
昭和26年8月31日 吉田茂ら一行は講和のためにサンフランシスコに向かう。
講和会議には52か国が参加。うち48か国が講和に応じた。
9月8日 日本がサンフランシスコ講和条約に調印。
調印から6時間後、吉田らは第6兵団駐屯地に向かう。
日米安保条約の調印のため。 吉田のほかには、大蔵大臣池田隼人もいたけれど、日本側として署名したのは「吉田茂」一人であった。
この安保条約は、アメリカ側に日本防衛の義務がないのに、米軍基地を置くことを認めた、偏務条約だった。吉田もそのことを承知のうえであり、独立獲得のための苦肉の選択でもあった。自分以後の世代が今後の交渉で是正していってくれることを願い、池田らが名前を連ねることを避けたといわれている。
平和主義者であるけれど、経済がいかに大切かをわかっている、実をとるリアリストだった、と紹介。
コメンティター氏のひとりは、当時の読売新聞のアンケートを話題にし、
新憲法が成立した時点では、国民の8割が、軍備を持たないことを指示しているけれど、独立国家になる時点では、相当数が再軍備に振れており、吉田以外であれば、ダレスの要求に応じていた可能性が高かったのではないか。そこを頑として跳ね返したのは、吉田だからできたことではなかったか、と。
保安隊ができたけれど、軍隊を持つことを拒んだことから、明治の富国強兵とは違って、日本は強兵抜きの富国への道をたどることができた。
以上はNHKの「昭和の選択」シリーズからの内容抜粋。
もう少し、吉田茂とその周辺を学びたいと、本を注文中です。
こんな話題、関心ないかもしれませんね。
自分用の備忘録として綴りました。
どなたかにでも読んでいただけたら、幸いです。
敗戦後6年、昭和26年当時、日本橋の三井本館にGHQの外交局が置かれていた。
日本はまだ占領下。貧困の極みにある国民も多く、1000万人が餓死する恐れがあるといわれる状況下であった。
戦後の総理大臣吉田茂は、とにかく占領状態から抜け出し、経済復興へ向かいたいと願っていた。
敗戦国日本が独立を認めてもらうためには、各国と講和条約を結ぶ必要がある。
昭和25年6月21日、予備調査のためアメリカからは対日特使としてダレスが来日。
当時はソ連や中国の共産党勢力が勢いを増している状況であり、ダレスとしては今後の日本が共産圏側に組み入れられるのを絶対に阻止しなくてはならないと考えていた。
国が自衛するすべを持たなくて自力で立つことはありえない、よって、日本も独立を願うのであれば再軍備が必要だ、というのがダレスの考えだった。
対談相手である吉田茂の考えは違った。戦前の日本の過ちは軍備の重さの結果であり、当時貧乏のどん底にある日本に再軍備という提案はありえなかった。占領軍の司令官であるマッカーサーも平和主義に徹した国を作ろうという意図を貫いており、アメリカ人であってもダレスとは考えが異なっていた。
昭和25年6月25日。朝鮮戦争勃発。
アメリカ軍をはじめ、国連軍が朝鮮半島に派兵された。
帰国したダレスは、日本における共産党勢力の芽を摘むためにも早期の講和条約締結が必要と国防総省に具申する。
ダレスの日本の再軍備の想定では10個師団(1個師団は約3万人)であり、それを日本側に求めてきていた。
昭和25年11月24日 対日講和条約の7原則を伝えてきた。
その中には、
すべての国は敗戦国日本に賠償金請求権を放棄する。
安全保障については継続的に協力する責任がある。
などが盛り込まれていた。
ダレス、再来日。
再び再軍備を求められる。しかし、新憲法の9条に背くことになる。しかしながらわが国の独立を勝ち取るためには、講和条約の締結が必要だ。どう選択すべきか、吉田茂は選択を迫られていた。
吉田の考え
1)日本は防衛力を持たないで、有事の際には国連軍を頼りにしたい。
2)北太平洋軍事制限案を提起し、日本を含む周辺地域を非武装地帯とする。
3)二国間での条約を結ぶことにする(マッカーサーの案)。
1)は、冷戦状態では期待できない。2)も現実的ではないので、結局 3)を選択することになる。
昭和26年1月25日 ダレスが再々来日。三井本館で吉田と会談。
吉田は、日本人の自尊心を傷つけない形で独立したいこと、今の日本の現状では自主経済が不能に陥るから、再軍備はできないと主張。
再軍備は日本経済の足かせになると、マッカーサーも再軍備案には反対の立場だった。
4日後の2月2日 講演でダレスは防衛力を持たず、望むだけでは平和は訪れない、と繰り返す。占領状態から脱したい吉田茂は2月3日に、5万人規模の保安隊を組織することを伝える。
2月5日 ついに、提案していた7か条に基づく講和を進めようという流れに向かう。
2月7日 ダレスと会談。上記の3)2国間で条約を結ぶ了解で、講和を進めていくことで合意。
この一連の講和に関して吉田茂は一切国会で審議することもなく進めていっている。
吉田茂からは、安保についても一切の説明もなく、当然了承もなされていなかった。
今とは違って、相手が強者であっても、当然に説明を求めていくほど、当時の日本の民主主義は成熟していなかった。
敗戦国民にとっては、互角に渡り合っている状況ではなかった。戦勝国アメリカに対して、よく頑張っているという反応が一般的だった。
占領の日本ではマッカーサーと互角に渡り合える人物は、吉田のほかにはいなかった。
マッカーサーと対等に渡り合える吉田がいたことが、国民には救いだった。
ダレスは日本を立って、オーストラリア、フィリピン、ヨーロッパなどを回り、講和成立のための了解を取り付けに回っている。
昭和26年8月31日 吉田茂ら一行は講和のためにサンフランシスコに向かう。
講和会議には52か国が参加。うち48か国が講和に応じた。
9月8日 日本がサンフランシスコ講和条約に調印。
調印から6時間後、吉田らは第6兵団駐屯地に向かう。
日米安保条約の調印のため。 吉田のほかには、大蔵大臣池田隼人もいたけれど、日本側として署名したのは「吉田茂」一人であった。
この安保条約は、アメリカ側に日本防衛の義務がないのに、米軍基地を置くことを認めた、偏務条約だった。吉田もそのことを承知のうえであり、独立獲得のための苦肉の選択でもあった。自分以後の世代が今後の交渉で是正していってくれることを願い、池田らが名前を連ねることを避けたといわれている。
平和主義者であるけれど、経済がいかに大切かをわかっている、実をとるリアリストだった、と紹介。
コメンティター氏のひとりは、当時の読売新聞のアンケートを話題にし、
新憲法が成立した時点では、国民の8割が、軍備を持たないことを指示しているけれど、独立国家になる時点では、相当数が再軍備に振れており、吉田以外であれば、ダレスの要求に応じていた可能性が高かったのではないか。そこを頑として跳ね返したのは、吉田だからできたことではなかったか、と。
保安隊ができたけれど、軍隊を持つことを拒んだことから、明治の富国強兵とは違って、日本は強兵抜きの富国への道をたどることができた。
以上はNHKの「昭和の選択」シリーズからの内容抜粋。
もう少し、吉田茂とその周辺を学びたいと、本を注文中です。
こんな話題、関心ないかもしれませんね。
自分用の備忘録として綴りました。
どなたかにでも読んでいただけたら、幸いです。