詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川逸子「うばぐるま」、小松弘愛「ヘチ」

2012-03-25 12:24:39 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「うばぐるま」、小松弘愛「ヘチ」(「兆」153 、2012年02月05日)

 石川逸子「うばぐるま」は電車の中で見かけた若い女性と乳母車のことを書いている。乳母車にはぬのがすっぽりかぶせてあり、なかは見えない。そのなかの幼児は大丈夫なのだろうか、と石川は心配するのだが……。

女性はすぐ携帯を取り出して
なにやらさかんに打ちはじめている
かと思うと 布の上をいっときやさしく叩き
また 携帯に目を注ぐ
布はひくりとも動かない

ひょっとして
布のなかは幼児ではなく
とんでもない怪物がうずくまっているのでは?

布をぱっと剥がしたら
凄まじい唸りとともに
怪物が頭をもたげ むくむくと立ち上がり
電車の天井を突き破って
暴れ出すのではなかろうか

 これは、空想というより、願望かもしれない。そう思うと楽しい。
 こどもを連れているときはこどもにこそ細心の注意を払うべきで、携帯電話などに気を取られるな、あなた、母親として失格だよ--そう石川は叫んでいるのかもしれない。
 でも、いまは、そういうことを「注意」するのは、どうもはやらないみたい。
 だから、こどもが暴れ出せばいいと願っている。こどもが自己主張してくれればいいと願っているのかもしれない。怪物のように。
 そういう「意味」はちょっとわきにおいて……。

布はひくりとも動かない

 この「ひくり」が妙におもしろい。
 「ひくり」「ぴくり」「びくり」に、どれくらいの違いがあるのかよくわからないが、「ひくり」は何やら押し殺したような印象がある。「ぴ」「び」に比べて「ひ」の音がひっそりしているせいだろうと思う。暗いせいだと思う。その「ひっそり」が、何やら怪物の自己抑制(?)のような感じがして、とてもいい。「ぴくり」「びくり」よりも不気味な感じがする。
 この石川の詩には、具体的な音がない。具体的な音--というのは、たとえば会話のことである。電話の話し声のことである。そして、そのかわりに、音にならないものがある。携帯メールを操作するその姿。乳母車のなかで眠る何か。
 そこに「ひくり」が、これも音のないものなのだが--不思議な「音」を呼び覚ます。押し殺した音を呼び覚ます。その感じが、「怪物」へとつながっていく。
 もし「ぴくり」「びくり」だったら、「怪物」は出てこなかったかもしれない、と思う。



 小松弘愛「ヘチ」は、方言シリーズの一篇。

「ヘチぞね」
「コッチぞね」

高知新聞をひろげると
白いペンキの文字が飛び込んできた
三叉路に立てられた手作りの道案内
角柱に大きな横板を無造作に打ち付け
向かって左方向「ヘチぞね」
右方向「コッチぞね」

「ヘチ」と「コッチ」は
中土佐町大野見(おおのみ)から四万十川沿いに遡って行く所にあり
記者さんは
「ドライバーの思いを察したかのような道案内」と喜び
「コッチへハンドルを切った」あと
「ですが、県外の人には『ヘチ』が……」と心配している

 そうか、県外のひとが心配か……。
 うーん。
 私は県外のひとなのだけれど「ヘチ」はわかるなあ。いや、正確にわかっているわけではないのだが、「辺地」ということばをすぐに思い浮かべ、おっ、おもしろいなあ、と思った。
 「辺地」はまた「変地」でもある。「変」は、石川の書いていた詩に結びつければ「怪」でもある。「へ」には、そういう響きがあるでしょ?
 あ、これは正確な感じではないなあ。
 「コッチ」には「っ」がある。「ヘ(ン)チ」には「ん」がない。
 この「音」の変化、ことばの省略(?)のなかにある、不思議ななまあたたかさ。「ヘンチ」だとすっきりしていて「変」や「怪」が出てこない。「ん」がないぶん、何か、音が体のなかにもぐりこむというか、体のなかに何かを残している。
 で、その体のなかに残っているもの--変な欲望。自分自身の欲望のようなものが、誘うのである。
 ほら、ほら、ほら。「ヘチ」の方がおもしろいぞ。「ヘチ」の方がおまえの知らないこと--おまえがほんとうは知りたいと思っていることがあるんだぞ、と危険な誘惑をほのめかすのである。
 あらゆることがらは、ごとかにあるのではなく、まず自分のからだのなかにある。そういう方向へ「ん」を省略した「ヘチ」ということばは誘い込む。
 これは、私だけに起きることかな? 
 違うよね。
 小松も書いている。

「ヘチぞね」へ進んで行ったらどんな所へ行くのだろう
(略)
「ヘチぞね」
「コッチぞね」
今 わたしの思いは
この二者択一の文字の前に立ってみたいということ
そして
「ヘチぞね」のコースを選択してみたいということ

 「ヘチ」はその方向にあるのではなく、あくまでも自分のなかにある。それはひとつの欲望である。石川の書いた「怪物」と同じである。

 とても残念なのは、石川の詩も、小松の詩も、そういう欲望に触れながら、その欲望が暴走していかないことである。その暴走がことばを拡張していけば、そのとき、詩人の向き合っている「世界」と詩人の「内部(肉体)」が入れ替わって、いっそうおもしろくなるのに、ということである。
 「ことば」は「肉体」の外にある。けれど「音」は肉体から出ていく瞬間に姿をあらわす何かである。「音」のなかには、何か、「精神」とか「論理」ではないものがあって、それをたどっていくと、人間の「肉体(内部)」が噴出してくるかもしれない--という思いが私にはある。

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房
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