川上亜紀「寒天旅行」(「現代詩手帖」2012年04月号)
「現代詩手帖」2012年04月号は、「新鋭詩集2012」という特集を組んでいる。川上亜紀「寒天旅行」は、そのうちの一篇。
という具合に、小学生の作文のように、ていねい(?)にはじまる。
うーん、この文体は何? 新幹線の社内放送の文体がそのまままじりこんでいる。いいかえると、ここでは川上自身の文体が動いていない。あるいは、川上の文体は、もともと他人の無機質な文体を受け入れるタイプのものなのか。
いやだなあ、こういう文体……。
と、思い、もう読むのをやめようかな、と思った瞬間。関が原の雪の描写、新幹線にはねとばされる雪、窓にはりつく雪の描写があって。
あ、おもしろい。
突然、「過去」が出てくる。書き出しに「指定席券を前日に駅で買った」という「過去形」が出てくるが、これは単なる文法上の時制の問題。私のいう「過去」とは、芝居でいう役者の「肉体」のようなものである。役者というのは「肉体」のなかに「過去」を抱え込んで舞台に登場し、舞台の人間にリアリティーを与える。脚本に従ってことばをしゃべり、時間を動かしていく前に、まず「過去」を「いま/ここ」引っぱりだして見せる。そして、時間を動かすふり、物語を展開するふりをしながら、実は「自分勝手な(つまり役者個人の、という意味)過去」へ観客を引き込む。「あ、○○って、かっこいい。好きだなあ」と、観客をとりこにする。観客は芝居の「物語」を見る一方で、役者の肉体そのものを、恋人のように見つめてしまう。役者がそれまで生きてきた「過去」そのものを抱きしめるようにして、役者を見てしまう。
それに似た感じが、この5行にはある。
あ、川上は寒天をつくったことがあるんだ。そうか、川上は寒天パウダー(粉末)をつかうのか。固形のスポンジみたいなのを千切って煮るんじゃないのだなあ。いまは、そういう時代なのか……というような私の「過去」をつき混ぜながら、そのことばを読んでいくのだが。
このていねいな手順がいい。レシピみたいでしょ? そのとき、川上の肉体(体の動き)が見えるしょ? いいなあ。これは。これは、いいなあ。
寒天をつくるとき、わざわざ、それが固まるまでじーっと見つめるものではないけれど、ときどき固まったかな、とつついてみたりする。「ぷるぷる」の具合を確かめてみたりする。
そういうとき、ふと、寒天のなかで眠っている(?)果物はどんな夢を見ているのだろう--というようなことを、ふと考える。
だから。
と書くとき、そこには「わたし(川上)」と「果物」の区別がない。一体になっている。「寒天」もね。
そうか。こういう自然な「過去」を描くためには、冒頭の「大阪へ行くために土曜日の新幹線に乗る/<のぞみ>の指定席券を前日に駅で買った/6号車8E 窓側の席で」というようなていねいな手順のことばの動かし方が必要だったのか。
こんなふうに手順をきちんと(?)踏んで、文体をととのえるのが川上の方法なのかもしれないなあ。
「過去」をていねいに浮き彫りにしたあと、そこから空想がはじまるが、「過去」がリアルなので、空想もしっかりとことばに定着する。肉体になる。その部分もいいなあ。
「白いタオルと白い石鹸」は月並みかもしれない。あるいは、いまどきは石鹸は珍しいから、川上の泊まるホテルはかなり高級だなあ、なんてどうでもいいことも私は考えたりするのだけれど--こんな具合に私のことばが勝手に動いてしまうのは、川上のことばに「肉体(過去、つまり思想)」があるからなんだなあ。
あ、花があるなんてしゃれている--と思ってよく見たら造花だった、というような「過去」がしっかり「過去」としてことばになっていて、それが肉体から、いま、ここに噴出してきている。そういうときの「過去」というのはそれがどんなものであれ、まっすぐに噴出してくるとき、強く輝く。
「現代詩手帖」2012年04月号は、「新鋭詩集2012」という特集を組んでいる。川上亜紀「寒天旅行」は、そのうちの一篇。
大阪へ行くために土曜日の新幹線に乗る
<のぞみ>の指定席券を前日に駅で買った
6号車8E 窓側の席で
という具合に、小学生の作文のように、ていねい(?)にはじまる。
けれどもこのあと近畿地方の積雪のため
<のぞみ>は速度を落とさなくてはならない
新大阪への到着時刻には数分の遅れが出る予定
うーん、この文体は何? 新幹線の社内放送の文体がそのまままじりこんでいる。いいかえると、ここでは川上自身の文体が動いていない。あるいは、川上の文体は、もともと他人の無機質な文体を受け入れるタイプのものなのか。
いやだなあ、こういう文体……。
と、思い、もう読むのをやめようかな、と思った瞬間。関が原の雪の描写、新幹線にはねとばされる雪、窓にはりつく雪の描写があって。
私は座席に座りなおして寒天ゼリーのことを考えてみる
寒天の粉末はゆっくり煮溶かして牛乳と砂糖を加えて
切った果物を並べた容器に流し入れて固める(寒天はさむいのでなんでも固めてしまう)
冬の空の粉末からつくる白いゼリーがぷるぷると震えている
そのなかにわたしも静かに入って暖かくなるまで固まっていてもいい
あ、おもしろい。
突然、「過去」が出てくる。書き出しに「指定席券を前日に駅で買った」という「過去形」が出てくるが、これは単なる文法上の時制の問題。私のいう「過去」とは、芝居でいう役者の「肉体」のようなものである。役者というのは「肉体」のなかに「過去」を抱え込んで舞台に登場し、舞台の人間にリアリティーを与える。脚本に従ってことばをしゃべり、時間を動かしていく前に、まず「過去」を「いま/ここ」引っぱりだして見せる。そして、時間を動かすふり、物語を展開するふりをしながら、実は「自分勝手な(つまり役者個人の、という意味)過去」へ観客を引き込む。「あ、○○って、かっこいい。好きだなあ」と、観客をとりこにする。観客は芝居の「物語」を見る一方で、役者の肉体そのものを、恋人のように見つめてしまう。役者がそれまで生きてきた「過去」そのものを抱きしめるようにして、役者を見てしまう。
それに似た感じが、この5行にはある。
あ、川上は寒天をつくったことがあるんだ。そうか、川上は寒天パウダー(粉末)をつかうのか。固形のスポンジみたいなのを千切って煮るんじゃないのだなあ。いまは、そういう時代なのか……というような私の「過去」をつき混ぜながら、そのことばを読んでいくのだが。
寒天の粉末はゆっくり煮溶かして牛乳と砂糖を加えて
切った果物を並べた容器に流し入れて固める
このていねいな手順がいい。レシピみたいでしょ? そのとき、川上の肉体(体の動き)が見えるしょ? いいなあ。これは。これは、いいなあ。
寒天をつくるとき、わざわざ、それが固まるまでじーっと見つめるものではないけれど、ときどき固まったかな、とつついてみたりする。「ぷるぷる」の具合を確かめてみたりする。
そういうとき、ふと、寒天のなかで眠っている(?)果物はどんな夢を見ているのだろう--というようなことを、ふと考える。
だから。
そのなかにわたしも静かに入って暖かくなるまで固まっていてもいい
と書くとき、そこには「わたし(川上)」と「果物」の区別がない。一体になっている。「寒天」もね。
そうか。こういう自然な「過去」を描くためには、冒頭の「大阪へ行くために土曜日の新幹線に乗る/<のぞみ>の指定席券を前日に駅で買った/6号車8E 窓側の席で」というようなていねいな手順のことばの動かし方が必要だったのか。
こんなふうに手順をきちんと(?)踏んで、文体をととのえるのが川上の方法なのかもしれないなあ。
「過去」をていねいに浮き彫りにしたあと、そこから空想がはじまるが、「過去」がリアルなので、空想もしっかりとことばに定着する。肉体になる。その部分もいいなあ。
宿泊するホテルの浴室の白いタオルと白い石鹸を思い浮かべる
花が一輪飾ってあるといいがそれは造花かもしれない
「白いタオルと白い石鹸」は月並みかもしれない。あるいは、いまどきは石鹸は珍しいから、川上の泊まるホテルはかなり高級だなあ、なんてどうでもいいことも私は考えたりするのだけれど--こんな具合に私のことばが勝手に動いてしまうのは、川上のことばに「肉体(過去、つまり思想)」があるからなんだなあ。
あ、花があるなんてしゃれている--と思ってよく見たら造花だった、というような「過去」がしっかり「過去」としてことばになっていて、それが肉体から、いま、ここに噴出してきている。そういうときの「過去」というのはそれがどんなものであれ、まっすぐに噴出してくるとき、強く輝く。