詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「人名論」ほか

2012-03-22 09:37:55 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「人名論」ほか(「ガーネット」66、2012年03月01日発行)

 廿楽順治「人名論」は小詩集なのだろう。人名を題材に3篇。そのうちの「『いわた』さん」。(原文表記は尻揃えになっているが頭揃えで引用する。)

「いわた」さんの下の名前はわからない
下の人生がないままで
そのころ毎晩うちの店にやってきた
ひとはわるくないが
いい年をして所帯をもたない
知り合いの娘さんを紹介しようとすると
いつも怒るんだ
だからもう何もいわない
父は「いわた」さんの下について断定した
しばらくして
「いわた」さんはどこにもいなくなってしまった

 あ、日本人でよかったねえ。「下の名前」か。これが英語だとファーストネーム、どっちかというと頭の名前になるからねえ。
 なぜ日本人でよかったかというと、「下」の名前、「下」の人生が、「しも」の人生になるというおもしろさが、日本人だからわかるという単純なことなのだけれど。まあ、中国語でも同じかもしれないけれど。(下の名前、という表現が中国語にあるかどうかしらないけれど。)
 「下」の名前が「下」の人生→「しも」の人生→所帯(結婚)と自然に動いていく。この自然な動きのなかにある「肉体」が楽しい。そうか、「所帯をもたない」というのは「下半身」の生活が安定しないということなのか。あるいは、独自の嗜好を生きているということなのか。

下のからだがないままで
生き続けていくひともいた
そういうこと
(見せ物じゃないのにね)
父もわたしも
「いわた」さんについては
たぶんはんぶんしか語り合ってこなかったのだ

 おおっと、すごいなあ。「はんぶん」って、何? というか、他人について語るとき、そのひとの「しも」の人生について語り合うということがある? 父と息子(わたし)が、だれかのセックスについて話すなんて、考えたら変じゃない? 異常じゃない? たまに、あのひとはどんなセックスをしているのだろうと思うときがあっても、語り合うようなことがらではないし、語り合わなかったからといって「はんぶん」しか語り合わなかったことにはならないだろうなあ。
 というのは、まあ、屁理屈。
 廿楽のことばが、こんなふうに展開していくとき「下(しも)」→「下半身」→「半分」という「ことばの肉体」がどこかで動いている。そして、その動きは「日本語」というか、口語では何かとても自然である。「肉体」にしみついている動きである。(しみついていないひともいるかもしれないけれど。「頭」でことばを読むひとには、非論理的に思えるかもしれないけれど、口語会話で生きている人間には、とても自然な成り行きだと思う。)
 で、ね。
 そんなことを語り合うことが他人について語ることではもちろんないのだけれど、このときの「下半身」というのはセックスだけではなく、そこからはじまる「所帯」というもの、暮らしを含んだものでありつづける。ここが、廿楽のおもしろいところだなあ。
 「下半身」を描きながら、セックスに没入しない。野村喜和夫が何を書いてもセックスに没入していくのとはまったく違うね。
 廿楽のことばにはいつも「暮らし」がある。それは「非論理」があるということである。「頭」では消化しきれないもの、「肉体」で受け止め、受け継いでいるものがあるということである。

独身で
酔い方がいか墨のようにくろかったひと
上下がそろわないので
いつも店先で
いわたです
ゆれながら立っていた
いい年なのにいつも上だけが泣きそうだった

 「泣きそうだった」--このことばのなかにある「共感」。共感と言ってはいけないのかもしれないけれど、「肉体」が「肉体」にであったときに感じる不思議なものがあるね。ほら、道端でだれかが腹を抱えてうずくまりうねっていると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるような共感。自分の体ではないのに感じてしまう何か。
 廿楽は、いつもそういうものをていねいにことばにしている。



 大橋政人が「君恋し」の歌詞をめぐって、いろいろ書いている。「君恋し 唇あせねど /涙はあふれて 今宵も更け行く」の「唇あせねど」は「唇あわせねど」ではないか、というのである。
 ちょっとびっくりしてしまう。
 大橋って、こんなに純情なの? プラトニックラブのひと?
 私などは「君恋し」と声に出して言うくらいなら、きっとセックスはすんでいると思うなあ。当然、キスはしている。キスは絶対にしないというセックスもある職業のひとにはあるみたいだけれど。
 歌詞の全体は、たしか次のようなものだった

宵闇迫れば悩みは果てなし
乱るるこころに映るは誰が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く

 宵闇の迫るときの「悩み」って何? 肉欲の悩みじゃないのかなあ。あ、セックスがしたい。でも相手がいない。あれこれ相手を思い浮かべ、こころが乱れるとき、必ず浮かんでくるのは誰でもない「君」の姿。君がほしい。ある唇(きっと唇フェチだね)はいまもまざまざとよみがえる。決して褪せることはない。体は、こんなに君を覚えているのに、君はいない。君に会えない。(きっと不倫--いや、自由恋愛の相手だね)だから、涙があふれる--この「涙」は、まあ、ほんとうかどうかわからないなあ。口説く文句だね。それくらい君がほしい。
 私には、そんなふうにしか感じられない。フランク永井の歌を聴いたことがあるが、彼の声も「純情」というよりは、「肉体」に迫ってくるね。つまり、「色気」があるね。大橋は藤田まことの歌を聴いたらしいが、藤田まことって、大橋が想像するようにプラトニックな感じで歌っていた?
 声というのは、私にはセックスそのもの。声を聴いて、色っぽいなあとか、あ、かまとととか思ったりする。ことばも、私は、そこからつかみはじめる。
 大橋は、耳では他人と共感しないのかな?
 それにね、歌謡曲なんて(といったら叱られるかな)、みんなセックスを連想するのじゃない? いくら「純情」を売り物にしていても。たとえば山口百恵の歌った「ひと夏の経験」(タイトル、間違えてる?)の

あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ

 この歌について大切なものを百恵は「こころ」とか「愛」なんてテレビで言っていたように記憶しているけれど、誰もそんなことを信じちゃいないよね。「経験」なんだから「下半身」に関することでしょう。「女の子の」は、「おんなの、この」にもなるね。

 私は音痴だし、歌は歌わないし、詩も黙読しかしないけれど、ことばはいつでも「耳」でしか理解できない。音のなかにある「暮らしのひびき」(日常の口語会話のなかにひとがしっかりと含める「意味」)しか理解できない。


化車
廿楽 順治
思潮社
コメント
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