監督 フィリダ・ロイド 出演 メリル・ストリープ、ハリー・ロイド
冒頭、サッチャーの認知症が描写される。夫は死んでしまって、もういない。その夫と向き合って朝食をとっている。「ミルクが値上がりした」というようなことを言っている。認知症になったサッチャーが見ている世界がそのまま映像になっている。こういうシーンが何度も何度も出てくる。そして、その合間に首相時代のサッチャー、娘時代のサッチャー、政治家になったばかりのサッチャーが描かれる。
それを見ていて、とても不思議な気になった。認知症のサッチャーの見ている世界--それはほんとうに「現実」とは違うものなのか。夫はほんとうにいないのか。--違うのかもしれない。夫は生きている。少なくともサッチャーのこころのなかに生きている。夫は死んでしまって「いま/ここ」に肉体がないのは、私たちから見た「現実」であって、サッチャーにとっての「現実」ではない。
そう気がついたとき、はっとしたのだ。「現実」とは、それぞれの人間によって違って見えるものである。「客観的現実」というものは、あるようであって、たしかなところははっきりしない。私の見ている「現実」と他人が見ている「現実」は違っている。(私はいま、眼の疾患--原因不明--を抱えていて、実際に「見える世界」が他人と明確に違っているので、そのことを強く感じる。)
フォークランド戦争にしろ、テロにしろ、あるいはさまざまな経済問題にしろ、サッチャーが「見ていた世界」と他の政治家が(あるいは国民が)「見ていた世界」は違っているのではないのか。違っていたのではないのか。フォークランド戦争のときはアメリカの国務長官が「やめろ」と直談判にくるのだが、それにサッチャーは真珠湾を持ち出して反論している。その反論が端的にあらわしているが、サッチャーが「見ている世界」、サッチャーに「見えている世界」は他人とは違う。
この「違い」を説明するのはとても難しい。映画での、サッチャーの認知症のシーンは死んでしまった夫を登場させることで「違い」を明確にしているが、こころ(あるいは頭脳)が認識している「違い」は、ふつうは、こんな手際よく便利に他人に説明できない。どんなに説明しても、そのひと本人にしかわからない説明しがたい「現実」がある。
私たちは(私は)、では、サッチャーが「現役」だったときの、サッチャーに「見えていた世界」、サッチャーが「見ていた世界」をほんとうに理解していたか。
--この問題に、答えは簡単には出せない。少なくとも、サッチャーの認知症のシーンのようには簡単に答えは出せない。「違っている」とはいえない。サッチャーの勘違いとはいえない。サッチャーの考えを、サッチャーの肉体の内部から感じているわけではないのだから。
これは、考えはじめると、何かとんでもなく長くなる問題なのだが……。
メリル・ストリープは不思議な演技力で、そこに「肉体」を出現して見せている。サッチャーそのものがそこにいる、という感じにさせられる。サッチャーを私は知っているわけではないのだが、これがサッチャーだと感じる。そしてそれは、「政治家」を描いた部分ではなく、認知症のシーンで非常に強く感じる。愛するひとを失い、不安のなかで、その人との時間を思い出す。思い出すことが不安を消してくれる。その、人間の「生き方」が「肉体」そのものとして目の前にある。
最後、サッチャーは夫が死んでしまったこと、もうここにはいないことを受け入れるのだが、そういうことがいまも認知症を患いながら生きているサッチャー自身に起きているかどうかわからないが、思わずそうあってほしいと祈ってしまう。そういう祈りを誘う演技である。
「自伝映画」として見ると、政治家の部分の描写が表面的な感じがするが、認知症の描写は人間そのものを考えさせる。不思議な映画である。
冒頭、サッチャーの認知症が描写される。夫は死んでしまって、もういない。その夫と向き合って朝食をとっている。「ミルクが値上がりした」というようなことを言っている。認知症になったサッチャーが見ている世界がそのまま映像になっている。こういうシーンが何度も何度も出てくる。そして、その合間に首相時代のサッチャー、娘時代のサッチャー、政治家になったばかりのサッチャーが描かれる。
それを見ていて、とても不思議な気になった。認知症のサッチャーの見ている世界--それはほんとうに「現実」とは違うものなのか。夫はほんとうにいないのか。--違うのかもしれない。夫は生きている。少なくともサッチャーのこころのなかに生きている。夫は死んでしまって「いま/ここ」に肉体がないのは、私たちから見た「現実」であって、サッチャーにとっての「現実」ではない。
そう気がついたとき、はっとしたのだ。「現実」とは、それぞれの人間によって違って見えるものである。「客観的現実」というものは、あるようであって、たしかなところははっきりしない。私の見ている「現実」と他人が見ている「現実」は違っている。(私はいま、眼の疾患--原因不明--を抱えていて、実際に「見える世界」が他人と明確に違っているので、そのことを強く感じる。)
フォークランド戦争にしろ、テロにしろ、あるいはさまざまな経済問題にしろ、サッチャーが「見ていた世界」と他の政治家が(あるいは国民が)「見ていた世界」は違っているのではないのか。違っていたのではないのか。フォークランド戦争のときはアメリカの国務長官が「やめろ」と直談判にくるのだが、それにサッチャーは真珠湾を持ち出して反論している。その反論が端的にあらわしているが、サッチャーが「見ている世界」、サッチャーに「見えている世界」は他人とは違う。
この「違い」を説明するのはとても難しい。映画での、サッチャーの認知症のシーンは死んでしまった夫を登場させることで「違い」を明確にしているが、こころ(あるいは頭脳)が認識している「違い」は、ふつうは、こんな手際よく便利に他人に説明できない。どんなに説明しても、そのひと本人にしかわからない説明しがたい「現実」がある。
私たちは(私は)、では、サッチャーが「現役」だったときの、サッチャーに「見えていた世界」、サッチャーが「見ていた世界」をほんとうに理解していたか。
--この問題に、答えは簡単には出せない。少なくとも、サッチャーの認知症のシーンのようには簡単に答えは出せない。「違っている」とはいえない。サッチャーの勘違いとはいえない。サッチャーの考えを、サッチャーの肉体の内部から感じているわけではないのだから。
これは、考えはじめると、何かとんでもなく長くなる問題なのだが……。
メリル・ストリープは不思議な演技力で、そこに「肉体」を出現して見せている。サッチャーそのものがそこにいる、という感じにさせられる。サッチャーを私は知っているわけではないのだが、これがサッチャーだと感じる。そしてそれは、「政治家」を描いた部分ではなく、認知症のシーンで非常に強く感じる。愛するひとを失い、不安のなかで、その人との時間を思い出す。思い出すことが不安を消してくれる。その、人間の「生き方」が「肉体」そのものとして目の前にある。
最後、サッチャーは夫が死んでしまったこと、もうここにはいないことを受け入れるのだが、そういうことがいまも認知症を患いながら生きているサッチャー自身に起きているかどうかわからないが、思わずそうあってほしいと祈ってしまう。そういう祈りを誘う演技である。
「自伝映画」として見ると、政治家の部分の描写が表面的な感じがするが、認知症の描写は人間そのものを考えさせる。不思議な映画である。
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