北条裕子「無告」(「木立」111 、2012年12月25日発行)
北条裕子「無告」のことばには不思議な軋みのようなものがある。
「鬼は鬼ではなく 醜・鬼・兵器」は、何をいいたい一行なのだろう。「鬼」というものは単独では存在しない。「醜」という文字のなかに「鬼」がいる。そして、「鬼」とは、ある意味で「兵器」である、ということか。そうすると、「醜」のなかには、何かしら「兵器」が含まれているということになる。
「鬼」をつかったことばに「鬼籍」というようなものもある。死んだひと。それは「あの人たちを生き返らせることができない」と呼応するような形で私のからだのなかに浮かんでくることばなのだけれど--そうすると「醜」のなかには死んだひとがいることになる。
死んだひとは「醜」のか。そうなら、その死んだひとを「生き返らせる」ということは、いったいどういうことなのか。生き返らせれば「醜」とはちがった何か、「酉」になるのか。「酉」と「鬼」は分離して、「醜」ではなくなるのか。
では「酉」とは何? 私は「酒」を思い出してしまう。「酒」は何か、人間を解きほぐす力を持っている。「論理」を解きほぐして、「論理」にはならない何かを噴出させる。何かしらの「逸脱」をそそのかすものである。
北条が何を考えているのか、このことばに何を託したのか、よくわからないが、私は「醜・鬼・兵器」ということばのつながり、そして「今はこの言葉にすがるしかない」ということばから、北条が、何かを揺り動かしながら、そしてその揺り動かしなのかでもつながっている何か--揺り動かしても揺り動かしてつながっているもの、切り離せないものをたぐりよせようとしているように感じた。
揺り動かすとき、「醜・鬼・兵器」をつないでいものが目覚め、揺り動かされて軋む。その軋みそのものが北条なのだと感じた。
でも、その「醜・鬼・兵器」のつながりと軋みは、いったいどこにあるのか。どこに「根源」のようなものがあるのか。
このことを言いなおしているのが、次の2行だと思う。
古い物語。そのなかに「醜・鬼・兵器」がある。つながりがある。形を変えながら「鬼」が活躍している。それは、今は、ことばから遠い--つまり、「物語」という世界に遠ざけられていて、「いま/ここ」という現実に対して、なんの効力も持っていないようだけれど、北条は、それに「すがるしかない」と感じている。
この「効力のなさ」は、詩のつづきに、次のように書かれる。
「無音」。「無音」だけれど、その「言葉にすがる」。肉体が「無音」をつかみとろうとして、うごめく。そのとき、たぶん肉体の内部に「軋み」が生まれる。
でも。
というか、しかし、というか。
これは、なんとも読んでいて、苦しい。
「言葉」でしかない。だから「言葉にすがる」と北条は書くのだろうけれど……。
書きたいことが、ことばのなかに閉じ込められている、という感じがするのだ。「醜」という文字の中に「鬼」がいた。同じように、北条の書いていることばのなかには、何かがひそんでいて、それが軋みとなってかすかに音を立てている。でも、解き放たれていなという感じがする。
「言葉にすがる」のはいいのだけれど、その「言葉」が「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」というような「物語」であることが「いま/ここ」としっかり結びつかないのかもしれない。
しかし、その一方で「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」以外のものに何かをもとめれば「軋み」は聞こえなくなるようにも感じる。
矛盾だね。私の書いているのは、矛盾だね。--その矛盾の先へ進んでみたいが、どう進んでいいのかわからない。
詩のなかほどに「日光写真だと物の影しか写らず」という魅力的なことばがある。このことばは「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」とは違って、北条自身の肉体がつかみ取ったことばだと思う。「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」ではなく、この肉体のことばで「醜・鬼・兵器」を言いなおすと、軋みがちがった形で噴出してくるかもしれないと思った。
北条裕子「無告」のことばには不思議な軋みのようなものがある。
百合もひとだったの?
私があの人たちを生き返らせることができないのは わかっていた
鬼は鬼ではなく 醜(しこ)・鬼(もの)・兵器(もの)
今はこの言葉にすがるしかない
「鬼は鬼ではなく 醜・鬼・兵器」は、何をいいたい一行なのだろう。「鬼」というものは単独では存在しない。「醜」という文字のなかに「鬼」がいる。そして、「鬼」とは、ある意味で「兵器」である、ということか。そうすると、「醜」のなかには、何かしら「兵器」が含まれているということになる。
「鬼」をつかったことばに「鬼籍」というようなものもある。死んだひと。それは「あの人たちを生き返らせることができない」と呼応するような形で私のからだのなかに浮かんでくることばなのだけれど--そうすると「醜」のなかには死んだひとがいることになる。
死んだひとは「醜」のか。そうなら、その死んだひとを「生き返らせる」ということは、いったいどういうことなのか。生き返らせれば「醜」とはちがった何か、「酉」になるのか。「酉」と「鬼」は分離して、「醜」ではなくなるのか。
では「酉」とは何? 私は「酒」を思い出してしまう。「酒」は何か、人間を解きほぐす力を持っている。「論理」を解きほぐして、「論理」にはならない何かを噴出させる。何かしらの「逸脱」をそそのかすものである。
北条が何を考えているのか、このことばに何を託したのか、よくわからないが、私は「醜・鬼・兵器」ということばのつながり、そして「今はこの言葉にすがるしかない」ということばから、北条が、何かを揺り動かしながら、そしてその揺り動かしなのかでもつながっている何か--揺り動かしても揺り動かしてつながっているもの、切り離せないものをたぐりよせようとしているように感じた。
揺り動かすとき、「醜・鬼・兵器」をつないでいものが目覚め、揺り動かされて軋む。その軋みそのものが北条なのだと感じた。
でも、その「醜・鬼・兵器」のつながりと軋みは、いったいどこにあるのか。どこに「根源」のようなものがあるのか。
このことを言いなおしているのが、次の2行だと思う。
夕餉をすませてから 終夜 本を読んでずっと過ごした
講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記
古い物語。そのなかに「醜・鬼・兵器」がある。つながりがある。形を変えながら「鬼」が活躍している。それは、今は、ことばから遠い--つまり、「物語」という世界に遠ざけられていて、「いま/ここ」という現実に対して、なんの効力も持っていないようだけれど、北条は、それに「すがるしかない」と感じている。
この「効力のなさ」は、詩のつづきに、次のように書かれる。
夕餉をすませてから 終夜 本を読んでずっと過ごした
講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記
静けさの中 時おり電話がなった
受話器に耳をあてると 無音だった
「無音」。「無音」だけれど、その「言葉にすがる」。肉体が「無音」をつかみとろうとして、うごめく。そのとき、たぶん肉体の内部に「軋み」が生まれる。
でも。
というか、しかし、というか。
これは、なんとも読んでいて、苦しい。
「言葉」でしかない。だから「言葉にすがる」と北条は書くのだろうけれど……。
書きたいことが、ことばのなかに閉じ込められている、という感じがするのだ。「醜」という文字の中に「鬼」がいた。同じように、北条の書いていることばのなかには、何かがひそんでいて、それが軋みとなってかすかに音を立てている。でも、解き放たれていなという感じがする。
「言葉にすがる」のはいいのだけれど、その「言葉」が「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」というような「物語」であることが「いま/ここ」としっかり結びつかないのかもしれない。
しかし、その一方で「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」以外のものに何かをもとめれば「軋み」は聞こえなくなるようにも感じる。
矛盾だね。私の書いているのは、矛盾だね。--その矛盾の先へ進んでみたいが、どう進んでいいのかわからない。
詩のなかほどに「日光写真だと物の影しか写らず」という魅力的なことばがある。このことばは「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」とは違って、北条自身の肉体がつかみ取ったことばだと思う。「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」ではなく、この肉体のことばで「醜・鬼・兵器」を言いなおすと、軋みがちがった形で噴出してくるかもしれないと思った。
形象―北条裕子詩集 (1971年) | |
北条 裕子 | |
母岩社 |