詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「おきにいりをうて。」

2012-03-28 09:40:06 | 詩集
海埜今日子「おきにいりをうて。」(「hotel  第2章」29、2012年03月01日発行)

 海埜今日子「おきにいりをうて。」は全編ひらがなで書かれている。私はもともと誤読する人間なのだが、いま、眼の状態が非常に悪いので、ひらがなばかりの文字を読んでいると、誤読以前にことばが散らばって、ことばの遠近感がなくなる。ことばの運動に焦点があわなくなる。その、ぼやけた焦点のなかで、いくつかの風景が浮かんでは消えていく。それが、おもしろいのだが、ときどき変なことが起きる。

にんしょうのにじむすいしつでは、はんてんだったか、しみだったか、めくれるようないんえいも、うずいているようなきがします。

 私は「はんてん」につまずいてしまう。
 「斑点」なのかな? 「斑点」であっても「斑点」でなくても、なんでもいいのだけれど--つまずくのは、実は「音」に対してである。「はんてん」のなかにでてくる2回の「ん」が「にんしょう」「すいしつ」「いんえい」のなかにある「音」と相いれない。
 その後に繰り返される「だったか」という音も気になる。
 ことばの風景が、そこだけ異質の遠近感でできているように感じるのだ。
 私は目で読んでいるようで、実は耳で読んでいるかもしれない。
 「はんてんだったか、しみだったか、」を省略して、

にんしょうのにじむすいしつでは、めくれるようないんえいも、うずいているようなきがします。

 とすると、「音」がスムーズに動き、ことばの遠近感が美しくなるように感じられる。まあ、これは、私の印象であって、海埜の書きたいこととは違うかもしれない。

 --どうも、うまく言えないが……。言い換える。言い換えてみる。
 この詩は「かのじょはかくうのしょうねんのあいだでそだちました。」という文からはじまっている。その冒頭の「かのじょはかくうのしょうねの」という「音」のなかには、引き伸ばされる「音」のゆらぎ(融合)がある。その、あいまいなまじりあいに誘われるようにして私はことばのなかに入っていくのだが--そして、その揺らぎにまかせて、あらわれては遠ざかる遠近感を楽しんでいるのだが、

はんてん

 この音が、どうもなじめない。
 「意味」ではなく、「音」が何かをこわしていると感じてしまう。
 「意味」ではない--というのは。
 たとえば。

あるいはよんどころないこうしん。それることで、みずはやぶけるのでしょうか。

 「やぶける」は「破ける」だろう。そこには「破壊」の「意味」がある。けれど、「こうしん」や「それる」「しょうか」という「音」のなかで「破ける」とは違うものになる。「意味」は「破ける」なのだが、何か、「破れ」をつつみこむものがあって、「破れ」が、幻のように感じられる。一瞬だけ、そこにあらわれた、美しいまぼろし。
 「やぶれる」が「われる」なら、また静かな印象が強くなるだろうし、「よんどころない」という「音」にも何か別なものがありそうな気がするのではあるのだけれど。でも、まあ、「はんてんだっかた」ほどの違和感は覚えない。

しんしょうなら、たいせつなほどそうしつです。

 「心象なら、大切なほど喪失です。」だろうか。
 これは「意味」がわからない。「意味」がわからないけれど、「音」が美しい。「しんしょう」と「そうしつ」が響きあう。引き伸ばされた音(しょう、そう)が結びついて、遠近感を宙ぶらりんにする。

みずをとじたひしょうが、しょうねんのおんどにそだちます。

 「水を閉じた飛翔が、少年の温度に育ちます。」漢字まじりにすると、ここでも「閉じた」と「飛翔」の衝突があるのだけれど、ひらがなだと「ひしょう」と「しょうねん」の響きあいのなかに、風景が「消失」していく。「消失」することで、記憶の奥から(肉体の奥から)風景が生まれてくる。
 「意味」ではなく、「音」がひきつれて動くものが、肉体のなかから静かに浮かび上がってくる。

 「音」の問題を整理して、ことばが動くようになると、海埜の詩は大きく変化するような気がする。「耳」にことばをまかせてみるといいのかもしれない。



詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房
コメント
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