詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子「三月」

2012-03-19 10:34:24 | 詩(雑誌・同人誌)
小島きみ子「三月」(「エウメニデスⅢ」42、2012年03月05日発行)

 小島きみ子「三月」の「二〇一一年三月」の後半の文体がおもしろい。

眠れない夢のなかで、いつの間にか雨が降ってきて、気がつくと止んでいて、桜が散っていく。風に吹かれて、鳥がきて飛びたっていくとき、地面に散り敷く薄紅色の花びらの美しさ。木にあったときの息がまだ残っていて、地面で息をしている。だんだん薄れていき、無くなるときは、咲いて散ったその記憶も無くなっているから、無くなり方も見事なもの。わたしというものもまたそうなのか。

 「いつの間にか雨が降ってきて、気がつくと止んでいて、桜が散っていく。」の「……て、……て、……」の「て」の接続と切断(飛躍)の動きが、とても「あいまい」である。どうしてこういう具合につながるのか、「論理」がわからない。「論理」がわからないが、そこに「肉体」があることがわかる。小島の「肉体」がことばを「とりまとめている」。そこに書かれていることが「夢のなか」のできごとなのか、それとも「夢から覚めて」のことなのか、--つまり、それが連続していることなのか、「……て、……て」ではわからないのだが、その「あいまい」が「あいまい」のまま、「風に吹かれて」とつながり、さらに「木にあったときの息がまだ残っていて」と、「対象(?)」は、あるいは「主語」は変化しながら(飛躍しながら/切断しながら)、「……て」という運動で「接続/持続」するとき、そこに「わたし(小島--眠れない夢を見た人間)」という「主語」がすべりこむ。桜も鳥も風も地面も花びらも、「わたし」から独立した「対象(客観)」ではなく、「主観」のように思えるのである。
 この運動はさらにつづいて「だんだん薄れていき」ということばをとるが、これは「だんだん薄れていって」と同じである。「……て」なのである。直前に「薄れて」と「て」があるので、変化するしかなかったのである。だから、この「薄れていき」は、わざと(無意識かもしれないけれど)書かれた「……て」なのである。
 で、「客観」と「主観」が「……て」のなかで、ゆっくり融合し、主語が変に(?)ふらつきながら(「だんだん薄れていき、無くなるときは、咲いて散ったその記憶も無くなっているから、無くなり方も見事なもの。」--の「主語」は何? 花びら? 「無くなり方」?)動くので、最後に、もう一度「わたし」が出てこなくてはならなくなる。

わたしというものもまたそうなのか。

 この一行は省略されるとき、「俳句」になる。自己と対象の融合としての、「遠心・求心」の世界--「わたし」であることが「対象」であり、「対象」であることが「わたし」という世界になるのだが。
 小島は俳句の世界での人ではなく、「わたし」を生きる人--どちらかというと「西洋哲学」の人なので、ここに「わたし」が出てくる。これは、まあ、小島の「肉体の癖」のようなものである。

 あ、話は少しずれてしまった。

 そういう小島の「肉体の癖(ことばの癖)」が最後に出てくるのだけれど、その癖が出てくるまでのことばの肉体の動き方が、不思議な美しさ、つやっぽさを発していると思った。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする