詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木正樹『トーチカで歌う』

2012-03-26 09:45:30 | 詩集
鈴木正樹『トーチカで歌う』(思潮社、2012年02月24日発行)

 とても「意味」の強い詩集である。そして、その「意味」とは、実は「倫理」である。「道徳」である。
 「掴む」に特徴がよくでている。昔は、うさぎは耳をつかむものと教えられた。しかし今は耳はつかんではいけない。そっと抱き上げるものだと教える。

なぜなのだろう?

抱けば
ふわふわで 温かい 赤ん坊のような
生き物 湧きあがってくる
優しさ
今のウサギはペットなのだ

抱けば
肉を 食料とするために
毛皮を 防寒具とするために
殺せなくなる

だから
耳を掴め と 教えた
ふわふわで 温かい 鼓動に
触れてはならなかった
ウサギの痛みに 気づいてはならなかった

掴んで 吊るし
気絶させていたものは 自らの
優しさだった

 最後の3行。ここに鈴木の「倫理(道徳)」と「意味」が念おしされているのだが、ウサギを掴んで吊るし、殺して食べていたとき、そしてその毛皮を防寒具につかったとき、ひとはほんとうに「優しさ」を気絶させていたのか。見失っていたのか。
 こんなことは、簡単には言えない。
 ウサギを殺して食べる、毛皮を防寒具につかう、あるいはしっぽ(だったかな?)をお守りにつかう--というとき、ひとは優しくないのか。たしかにウサギに対しては優しくはないだろう。ウサギにとっては不運だろう。だが、人間にとってはそれは必然であり、必然のあるところには、絶対的な優しさがある。
 そのことを鈴木の「頭」は見落としている。「意味」にとらわれるあまり、肝心なものを見落としている。このとき鈴木の何かが「気絶している」。

 「今のウサギは ペットなのだ」ということばがある。その「今」と「ウサギは 耳を掴むもの」と教えられた「敗戦後」を単純に比較してはならない。「今」を生きているからといって、簡単に「今」に身を寄せて、そこから「過去」を「倫理」的に批判してもはじまらない。
 「暮らし」の「意味」が、鈴木には欠落している。

トーチカで歌う
鈴木 正樹
思潮社
コメント
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