鈴木正樹『トーチカで歌う』(思潮社、2012年02月24日発行)
とても「意味」の強い詩集である。そして、その「意味」とは、実は「倫理」である。「道徳」である。
「掴む」に特徴がよくでている。昔は、うさぎは耳をつかむものと教えられた。しかし今は耳はつかんではいけない。そっと抱き上げるものだと教える。
最後の3行。ここに鈴木の「倫理(道徳)」と「意味」が念おしされているのだが、ウサギを掴んで吊るし、殺して食べていたとき、そしてその毛皮を防寒具につかったとき、ひとはほんとうに「優しさ」を気絶させていたのか。見失っていたのか。
こんなことは、簡単には言えない。
ウサギを殺して食べる、毛皮を防寒具につかう、あるいはしっぽ(だったかな?)をお守りにつかう--というとき、ひとは優しくないのか。たしかにウサギに対しては優しくはないだろう。ウサギにとっては不運だろう。だが、人間にとってはそれは必然であり、必然のあるところには、絶対的な優しさがある。
そのことを鈴木の「頭」は見落としている。「意味」にとらわれるあまり、肝心なものを見落としている。このとき鈴木の何かが「気絶している」。
「今のウサギは ペットなのだ」ということばがある。その「今」と「ウサギは 耳を掴むもの」と教えられた「敗戦後」を単純に比較してはならない。「今」を生きているからといって、簡単に「今」に身を寄せて、そこから「過去」を「倫理」的に批判してもはじまらない。
「暮らし」の「意味」が、鈴木には欠落している。
とても「意味」の強い詩集である。そして、その「意味」とは、実は「倫理」である。「道徳」である。
「掴む」に特徴がよくでている。昔は、うさぎは耳をつかむものと教えられた。しかし今は耳はつかんではいけない。そっと抱き上げるものだと教える。
なぜなのだろう?
抱けば
ふわふわで 温かい 赤ん坊のような
生き物 湧きあがってくる
優しさ
今のウサギはペットなのだ
抱けば
肉を 食料とするために
毛皮を 防寒具とするために
殺せなくなる
だから
耳を掴め と 教えた
ふわふわで 温かい 鼓動に
触れてはならなかった
ウサギの痛みに 気づいてはならなかった
掴んで 吊るし
気絶させていたものは 自らの
優しさだった
最後の3行。ここに鈴木の「倫理(道徳)」と「意味」が念おしされているのだが、ウサギを掴んで吊るし、殺して食べていたとき、そしてその毛皮を防寒具につかったとき、ひとはほんとうに「優しさ」を気絶させていたのか。見失っていたのか。
こんなことは、簡単には言えない。
ウサギを殺して食べる、毛皮を防寒具につかう、あるいはしっぽ(だったかな?)をお守りにつかう--というとき、ひとは優しくないのか。たしかにウサギに対しては優しくはないだろう。ウサギにとっては不運だろう。だが、人間にとってはそれは必然であり、必然のあるところには、絶対的な優しさがある。
そのことを鈴木の「頭」は見落としている。「意味」にとらわれるあまり、肝心なものを見落としている。このとき鈴木の何かが「気絶している」。
「今のウサギは ペットなのだ」ということばがある。その「今」と「ウサギは 耳を掴むもの」と教えられた「敗戦後」を単純に比較してはならない。「今」を生きているからといって、簡単に「今」に身を寄せて、そこから「過去」を「倫理」的に批判してもはじまらない。
「暮らし」の「意味」が、鈴木には欠落している。
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