詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「眩暈原論(その7)」ほか

2012-03-27 11:01:06 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その7)」ほか(「hotel  第2章」29、2012年03月01日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その7)」を読みながら自分自身を振り返ると、私は「意味」を読んでいないなあ、ということがよくわかる。今回、私がいちばん気に入ったのは、

あるキンキラが起こる場合のざらざらは、起りうるすべての場合のざらざらで割らなければならないからね。

 からつづく部分。
 この「一文」は、なにを言っているのかな? なんのことかな? まあ、どうでもいいね。ここにある数学(算数?)の答えを考えるひとっているのかな? というより、野村は「答え」を用意して、そういう数学を思いついたのかな?
 きっと、そうではないと思う。それは、そのことばが、答えとは無関係(ほんとうは関係がある?)な具合に--つまり、つぎのような具合につづいていくことからわかる。(あ、ほんとうはわからないのだけれど、「わかる」と言ってみただけ。)

ともあれ、スペクタクルする主体だ。眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ、するとそれは眼としてすくっと立ったのだ。

 むりやり(?)野村の「算数」にのっかってみると、「キンキラが起こる場合のざらざら」を「起りうるすべての場合のざらざら」で割ると、「眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ」、「眼」が答えとして出てくる--ということになる。
 でもねえ、そんなこと、どうやって証明できる? 確認できる? 野村の最初の「割り算」が「理論物理」だとして、あとから書かれている「眼」という答えが「実証」といえる?
 そんなことは、まあ、考えられないね。
 でも、そこがおもしろい。
 点検している「余裕」がない。ここでは、ことばが暴走するスピードだけがある。そして、そのときのことばの暴走を支える「音」だけがある。「意味」ではなくて、「音」をつらぬいていく「何か(音楽)」がある。
 そして。(この「そして」、はまあ、論理的でなくなったとき、適当に飛躍してごまかす「そして」である。「そして」と書くと、なんとなく前とつながっている感じがするでしょ?)
 そして。
 野村の、この詩の音楽は、「音」と「音」との響きあいというよりも、最初に書いた「算数(数学)」ということと関係している。算数(数学)というのは楽譜と同じように世界共通である。論理の展開の方法として、きちんと形式化されている。その形式を、野村のことばの運動は踏まえている。
 前にもどると、

あるキンキラが起こる場合のざらざらは、起りうるすべての場合のざらざらで割らなければならないからね。

 この「割る」を、

眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ、

 という具合に言いなおす--つまり、等式とし関連づける。そういう形式を踏まえている。
 形式があるから、ことばはどこまでも暴走できる。
 この形式を「文体」といってもいい。
 野村は確立した文体を「ことばの肉体」として持っている。



 井本節山「青空の作法」。父と僕とヘンリー・ダーガーさんが登場する。

ヘンリー・ダーガーさん、父さんの部屋であなたの変な画集を見つけました。変な絵ですね。でも僕は悲しくなった。友達も恋人もいなかったというあなたが、こっそり創り上げた広大な想像の庭。ダーガーさん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが暴力に満ちていますか?

 問いかけるとき、井本には「答え」がある。あらゆる「答え」は問いかけそのものにある。だからこそ、大切なのは「問いかけ」の「文体」なのだ。「問いかけ」の「形式」なのだ。「形式」を通り抜けてしか「答え」にはたどりつけない。
 そう考えたとき、1連目に書かれている次の文章が思い出される。

太陽は、雲の谷に隠れて、つぶやきは、いくつかの眩い流れとなって。一日の楽しかったことや苦しかったことを滝のように放出している。

 「流れとなって。」の句点「。」--ここに井本の「隠れた形式」がある。本能のようなものがある。
 ふつうなら(学校作文の教科書なら)、ここは「。」ではなく「、」である。しかし、井本は、そこで「。」を書く。いったん文章を終わる。終わったのに、前を引き継いでつないでしまう。
 これは、逆の形をとることもある。

良いことと悪いこととのあいだ、そこから、

音楽が漏れてくる、と父さんは言う。 

 1連目が「そこから、」という中途半端な形で終わり、1行あき--つまり2連目で「音楽が漏れてくる、と父さんは言う。」という「断絶(空白)」をはさんでつながっていく。
 井本のことばは、切断と接続の関係が、学校教科書の文法とは違うのだ。
 そして、その違いのなかに、井本の書いている僕、父、ヘンリー・ダーガー、さらに音空、地上、音楽、絵が、私たちの見ているものとはちがったもの、つまり井本独自の「想像の庭」として誕生する。
 で、ふいに問いかけたくなる。井本のことばを少し書き換える形で、私は問いかけてみる。

井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが暴力に満ちていますか?
井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが哀しみに満ちていますか?
井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが寂しさに満ちていますか?


詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店
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