田中郁子「有刺鉄線と野茨」(「ぶーわー」28、2012年03月01日発行)
田中郁子「有刺鉄線と野茨」は有刺鉄線で囲まれた牧場で牛を買っている暮らしを描いている。有刺鉄線があるのは、飢えた放牧牛が稲を食べたことがあったからだ。稲籾が牛の胃のなかで膨らみ牛の胃袋をさいた。稲も損害を被ったが、牛も死んだ。稲を守り牛を守るための有刺鉄線に野茨が咲いている。それを田中は見つめている。
「常に青く澄んだ天の中で」の「天」ということばに私はびっくりした。「天」とは何か。「宇宙」か。「辺境」は「日本」のなかにあり、「日本」は「地球」のなかにあり、「地球」は「宇宙」のなかにある。「宇宙」とは「天体」のことでもある。だから「天の中で」牛を飼っていると言えるのか。--まあ、論理的には言えるのだろう。だが、この1行を読み、驚くのは、その「拡大する論理」(あるいは暴走した論理)のためではない。
辺境-日本-地球-宇宙(天体)というひとつづきの論理の中では辺境は最小の単位であり、存在しないにひとしいものになる。「天」のどの位置から田中の書いている「辺境」が見えるだろうか。牛が識別できるだろうか。--私はそんなことは考えなかったし、感じもしなかった。
「天」ということばに触れた瞬間に、「辺境-日本-地球-宇宙(天体)」という論理を飛び越えて、田中のいる場所の「いま/ここ」が「天」そのもの、「天の中心」に見えた。「天」が田中の書いている「辺境」におりてきて(?)、そこでビッグバンのように炸裂して輝くのを感じたのだ。
「天」はそのとき「運命」「宿命」かもしれない。そのことばのなかに存在する「いのち」かもしれない。「いのち」が「天」とつながっていると感じたのだ。詩のなかに「先祖」ということばが出てくる。田中は「先祖」につながっている。「辺境」の「先祖」の「いのち」につながっている--ではなく、まあ、つながっているのだけれど、それは偶然(?)であって、ほんとうにつながっているのは、先祖がつながっている「天」とつながっている。別な言い方をすると……。
という感じなのだ。
あくまで「天」を中心にしてつながっている。そして、そのつながり方はすべてのものに対してもあてはまる。
それは「運命」「宿命」であると同時に「掟」である。(掟--ということばは、後半に出てくる。)「掟」とは「いのち」の決まりである。「いのち」をつないでいくために「暮らし」がととのえた決まりである。
「掟」を「暮らし」を縛る決まりととらえると、なんだかとても窮屈で、いやな感じがするが、それは「自由」を縛るというよりも「いのち」を守るものなのだ。「掟」という「天」をくぐりぬけて、「いのち」はつづいていく。
そのつづきかた、つながりかたに、人間も牛も稲も野茨もないのだ。
そこにあるのは「掟」ではなく「天」なのだ。「いのち」のすべてなのだ。
「存在」、「存在すること」を「ゆるされる」「野茨」。そのとき「野茨」は「わたし」というよりも「暮らし」そのものである。「いのち」のありかたそのものである。
「天」は「野茨」を祝福する。そして「野茨」は「いつまでも輝いて散ることはない」。同じように、田中の暮らしている「いま/ここ」の「いのちのありかた」はいつまでも輝いて散ることはない。それは、天が祝福し、しっかりと抱いて守ってくれている。
この、ゆるされたものの、静かな美しさ--その美しさが「天」ということばをつかうことを「ゆるしている」のだと思う。
田中郁子「有刺鉄線と野茨」は有刺鉄線で囲まれた牧場で牛を買っている暮らしを描いている。有刺鉄線があるのは、飢えた放牧牛が稲を食べたことがあったからだ。稲籾が牛の胃のなかで膨らみ牛の胃袋をさいた。稲も損害を被ったが、牛も死んだ。稲を守り牛を守るための有刺鉄線に野茨が咲いている。それを田中は見つめている。
有刺鉄線の上に咲く野茨を見つめている
生まれる前からあった窓から見つめている
くる日もくる日も辺境の地で土地を耕し
家畜を飼う先祖を見つめている
わたしたちははてしなく産み続ける牛を飼い
常に青く澄んだ天の中で
はてしなく草を食べ続ける飢えた牛を飼う
「常に青く澄んだ天の中で」の「天」ということばに私はびっくりした。「天」とは何か。「宇宙」か。「辺境」は「日本」のなかにあり、「日本」は「地球」のなかにあり、「地球」は「宇宙」のなかにある。「宇宙」とは「天体」のことでもある。だから「天の中で」牛を飼っていると言えるのか。--まあ、論理的には言えるのだろう。だが、この1行を読み、驚くのは、その「拡大する論理」(あるいは暴走した論理)のためではない。
辺境-日本-地球-宇宙(天体)というひとつづきの論理の中では辺境は最小の単位であり、存在しないにひとしいものになる。「天」のどの位置から田中の書いている「辺境」が見えるだろうか。牛が識別できるだろうか。--私はそんなことは考えなかったし、感じもしなかった。
「天」ということばに触れた瞬間に、「辺境-日本-地球-宇宙(天体)」という論理を飛び越えて、田中のいる場所の「いま/ここ」が「天」そのもの、「天の中心」に見えた。「天」が田中の書いている「辺境」におりてきて(?)、そこでビッグバンのように炸裂して輝くのを感じたのだ。
「天」はそのとき「運命」「宿命」かもしれない。そのことばのなかに存在する「いのち」かもしれない。「いのち」が「天」とつながっていると感じたのだ。詩のなかに「先祖」ということばが出てくる。田中は「先祖」につながっている。「辺境」の「先祖」の「いのち」につながっている--ではなく、まあ、つながっているのだけれど、それは偶然(?)であって、ほんとうにつながっているのは、先祖がつながっている「天」とつながっている。別な言い方をすると……。
先祖-天-田中(わたし)
という感じなのだ。
あくまで「天」を中心にしてつながっている。そして、そのつながり方はすべてのものに対してもあてはまる。
牛-天-わたし
牛-天-稲
それは「運命」「宿命」であると同時に「掟」である。(掟--ということばは、後半に出てくる。)「掟」とは「いのち」の決まりである。「いのち」をつないでいくために「暮らし」がととのえた決まりである。
「掟」を「暮らし」を縛る決まりととらえると、なんだかとても窮屈で、いやな感じがするが、それは「自由」を縛るというよりも「いのち」を守るものなのだ。「掟」という「天」をくぐりぬけて、「いのち」はつづいていく。
そのつづきかた、つながりかたに、人間も牛も稲も野茨もないのだ。
そこにあるのは「掟」ではなく「天」なのだ。「いのち」のすべてなのだ。
狂気のように膨らんだ稲籾が胃袋を裂いたのだ
存在することは許されなかった
放牧の牛を囲う有刺鉄線はものいわぬ掟
その掟の上に野茨は可憐にゆれる
いつ咲こうといつ散ろうとゆるされている
それらがわたしの小さな窓からよく見える
「存在」、「存在すること」を「ゆるされる」「野茨」。そのとき「野茨」は「わたし」というよりも「暮らし」そのものである。「いのち」のありかたそのものである。
わたしのまなかいの底
鋼鉄のように凍りついた
有刺鉄線の上で咲く野茨は
取り返しのつたないほどの青い天に抱かれ
いつまでも輝いて散ることはない
「天」は「野茨」を祝福する。そして「野茨」は「いつまでも輝いて散ることはない」。同じように、田中の暮らしている「いま/ここ」の「いのちのありかた」はいつまでも輝いて散ることはない。それは、天が祝福し、しっかりと抱いて守ってくれている。
この、ゆるされたものの、静かな美しさ--その美しさが「天」ということばをつかうことを「ゆるしている」のだと思う。
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