現代詩人会西日本ゼミナール岡山(2)(2012年03月10日)
小島きみ子、北川朱実、高垣憲正、山本衛、古賀博文の詩の朗読があった。
小島の朗読「凍える文字」では、ある単語のアクセントが私とは違っていて、そこにひっかかって、詩の全体が目で読んだときのようには結晶しなかった。私は音痴だし、私自身「訛り」(方言のアクセント)が抜けないのだが、他人の「声」には不思議と反応してしまうのである。
北川の詩「11番ホーム」では、一か所、「えっ、これいいじゃないか。文字で読んだときは気がつかなかったなあ。どうして読み落としたのだろう」とあわててテキストを読み返してみた。ところがテキストは、「朗読」とは違っていた。つまり、私は、北川の「声」を聞き間違えたのだった。しかし、私が聞き間違えたことばの方がテキストのことばよりいいよなあ、なんて私は思った。思ったことはなんでも口にしてしまうのが私なので、「懇親会」のとき北川に、そんなことを話してみた。(初対面だけれど、私はこういう不躾が得意である。)--これからあとのことは、ちょっと内緒。
山本の「俺らン言語について」は方言詩といえばいいのだろうか。高知の方言が折り込まれている。
小島きみ子、北川朱実、高垣憲正、山本衛、古賀博文の詩の朗読があった。
小島の朗読「凍える文字」では、ある単語のアクセントが私とは違っていて、そこにひっかかって、詩の全体が目で読んだときのようには結晶しなかった。私は音痴だし、私自身「訛り」(方言のアクセント)が抜けないのだが、他人の「声」には不思議と反応してしまうのである。
北川の詩「11番ホーム」では、一か所、「えっ、これいいじゃないか。文字で読んだときは気がつかなかったなあ。どうして読み落としたのだろう」とあわててテキストを読み返してみた。ところがテキストは、「朗読」とは違っていた。つまり、私は、北川の「声」を聞き間違えたのだった。しかし、私が聞き間違えたことばの方がテキストのことばよりいいよなあ、なんて私は思った。思ったことはなんでも口にしてしまうのが私なので、「懇親会」のとき北川に、そんなことを話してみた。(初対面だけれど、私はこういう不躾が得意である。)--これからあとのことは、ちょっと内緒。
山本の「俺らン言語について」は方言詩といえばいいのだろうか。高知の方言が折り込まれている。
考えに考えたたあ思われんでも
自分が自分に毎日(やんだ)吐きかけよるコトバ
外に迄(まじゃ)ぁ言わんじゃちええこっちゃろうけんど
君(わん)らんもの言いは
のコトバと言われたときもあったがぜよ
この朗読を聞きながら、非常に違和感を覚えた。まるでNHKの朝の連続ドラマの台詞のようなのである。(「カーネーション」は連続ドラマはじまって以来の名演技合戦といううわさをきいているので、最近は違うのかもしれないが……。私はテレビはここ30年ほどドラマを見ていないので、違っているかもしれないが。)
何が不自然かというと、「文体」が標準語なのである。「論理」が標準語なのである。そして、その「文体」に「方言」が単語としてまじりこむ。方言の「肉体」が「文体」のなかにはなくて、表面の飾り、付け足しの「演技」としてあるだけで、「肉体」が感じられない。
それは「やんだ」を「毎日」という感じで「説明」するような部分に端的にあらわれている。「やんだ」は「毎日」という「意味」かもしれないけれど、「毎日」とは違うんじゃないだろうか。
でも、これは仕方のない表現方法なのかなあ。
しかし、たとえばタイトルの「俺らン言語について」はどうだろう。ほんとうに「ついて」ということばを山本が育ったところの人は言うのかなあ。そういう「文体」で話すかなあ。--私は山本の育ったところとは違う場所で育ったけれど、たとえば、私の両親は「ついて」というような標準語の「論理」を口にしたことがない。私は聞いたことがない。標準語の「論理」を取っ払ったところで話している。
正確には指摘できないのだけれど、どうも、山本のやっていることは「方言」の詩とは違うのではないのかなあ、と感じた。「肉体」を感じることができないかぎり、それは「方言」ではない、と私は感じている。ことばとともに、そのことばを発した人の「肉体」が目の前に一種の「ゆがみ(個性)」として浮かび上がらないかぎり、その「方言」は「飾り物」という感じがする。
ねじめ正一の朗読と比較するとわかりやすいかもしれない。ねじめは「あーちゃん」(ひらがなでよかったかな?)シリーズの作品を朗読した。最後が「落とし話」みたいになっている。「意味」的には、くだらない(失礼!)な詩なのだが、聞いていてなかなかおもしろい。「意味」ではなく、「肉体」が。つまり、朗読しているうちに、ことばと肉体が追いかけっこをしはじめて、ことばも肉体ももつれる。つっかえる。間違える。つばが飛ぶ。--このとき、私はことばを聞いていない。ねじめの肉体の「音(声)」を全身で受け止め、あ、ねじめという人間がほんとうにここにいる。いま、私はねじめに会っているのだ、と感じる。で、ねじめは毛糸(?)の帽子のようなものをかぶっていたのだけれど、あれって、禿隠し?なんて思ったり、帽子を奪い取ったらどう反応するかなあ、なんて思ったりしている。最後は、詩のことは忘れて、ねじめって禿だったのかなあと思ったということだけ思い出すのかもしれない、なんて思ったりしている。
こういう感じ方は、たぶん「正しい詩の朗読の聞き方」ではないのだと思うけれど、私はそう感じてしまうのだ。どうしても「肉体」に反応してしまう。
読み間違え、つっかえ、つばを飛ばして、それでもことばを疾走させようとする--そのときの肉体がそのままことばの肉体とつながっている。ことばは「精神」や「意味」ではなくて、肉体そのものである、と私は感じている。
あ、ねじめの朗読には、今回はだれも勝つことができなかったなあ、と最後に思ったのだった。
くぎをぬいている―山本衛詩集 山本 衛 風涛社