詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤代伍「あさ」

2012-03-20 10:13:05 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤代伍「あさ」(「震災 宮城・子ども詩集」2012年03月11日発行)

 佐藤代伍(塩竈第三小学校三年)「あさ」は美しい詩である。震災のことを書いているのに「美しい」といという感想を書いていいのかどうかわからないが、まず「美しいなあ」と感じた。そして、強いなあ、と感じた。強さが「美しさ」として私の肉体に迫ってきた--と言いなおせばいいのかもしれない。

金ようびに
地しんがきたとき
みんな ないていた
世界で三ばん目に強い地しんだった

近くまでつなみが来た
あんなに海が遠いのに
つなみが来てびっくりした

となりの家の
ピンクのバラが顔を出していた

ちょっとしぼんでいる
地しんがきてショックを受けたのかな?

 最後の2連が、とても美しい。そして、強い。バラはほんとうにしぼんでいるのか? 地震でショックを受けたために佐藤のこころがしぼみ、そのためにバラもしぼんで見えるのか。--こういうことは、いちいちことばにするとうるさい感じになってしまうが、ここには佐藤とバラとのすばらしい一体感がある。バラに思いを寄せながら、自分のこころを少し解きほぐしている。バラに自分のこころを受け止めてもらっている。
 これは、詩を書くこと、あるいはことばにすることというこういうのなかにある人間のいのちの工夫なのだと思う。自分のなかにためこむだけではなく、ひととことばをかわす。何かを言う。そのとき、ひとは互いに何かを受け止めあう。
 「世界で三ばん目に強い地しんだった」も同じである。ことばにすることで、そのときのことを互いに確かめあうのだ。「近くまでつなみが来た/あんなに海が遠いのに/つなみが来てびっくりした」は佐藤が書いたことばだけれど、佐藤だけではなく、そのことばを聞いたひとのことばでもある。同じように、バラが「ちょっとしぼんでいる/地しんがきてショックを受けたのかな?」も佐藤のことばであるけれど、読んだ瞬間からみんなのことばになる。みんなが佐藤のこころになる。
 ここには「絆」ということばはつかわれていないが、私は、とても強い「絆」を感じる。ひととひとを越えていく絆、この世にあるもののいのちの繋がりを感じる。
 そして。
 この詩には、和合亮一が何度も何度も書いたいやらしいことば(私は和合の詩について感想を書くとき、その一行だけは絶対に引用しないと思った--だから、ここでも書かない)を越えるもう一つの美しさがある。
 「あさ」というタイトル。詩のなかには「あさ」に関する直接的な描写はない。でも、そうなんだね、地震を越えて、いっしょに朝を生きてるんだね。ひとも、バラも、ということがとても強く実感できるのである。その「強さ」--それが美しい。そこにある静かな喜びが美しい。



マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする