坂多瑩子「らしく」ほか(「触」7、2012年01月31日発行)
坂多瑩子「らしく」は死んだ母のことを書いている。「いま/ここ」にはいないのに、ふっとあらわれてくる。この「無時間」を、あたりまえのこととして書いている。きのう感想を書いた田中郁子の詩では「天」が田中と他のいのち(存在)をつないでいた。坂多の場合、いのちをつなぐのは「ことば(日常会話)」である。
母は「あんたはいつだって」と坂多をたしなめてきたのだろう。そのことば--というより、口調そのものが坂多の体のなかに残っている。そして、それに反発したときに言った坂多自身のことばも。
ひとは誰でもそうだろうけれど、母親が(あるいは父親が)生きているとき、その肉体で守ってくれていることに気がつかない。いなくなって初めて、その肉体が隠していた背後というか、その肉体でせきとめていた「社会」が見えてくる。押し寄せてくる。そのとき、あ、こんなふうにして私は守られていたのかと思う。同時に、その瞬間、いま/ここにない母や父の、その肉体のなかにしまいこまれていたものがぱっと開くのを感じる。母や父の肉体がせきとめる形で子どもを守っていた肉体--そのせきとめる力が母や父の、「天(田中の書いていた天)」への「道」なのだ。方法なのだ。それが見える瞬間を、坂多は「ひらきかけた蕾」と「大きな花」という比喩をつかって、「誰にもとめることができない」力ということばで書き表している。--この部分は、とても美しい。そして詩のハイライトである。
と、書いた上で、私は少し引き返したい。「蕾」から「花」への運動はとても美しいが、私は実はその3行よりもほかに感動したことばがある。5行目。
怒る、反発する、へらず口をたたく--その母と娘の関係のなかに、そうやって動かすことばと、そのときの肉体のなかに、ことばにならない真実がある。その真実をわかっている。わかっているから、そうしない。わかっているから、したくない。
それは、何といえばいいのだろう、ひとは必ず死ぬとわかっていても、いまを生きるということにつながる運動である。
この一見乱暴なことばのなかにも、それがある。
この不思議な何かをきちんと(論理的に?)言うことができないのは、たぶん、それが「無時間」と関係があるからだ。論理というのは、ある意味では、ことばの順序である。順序というのは、時系列をとるものである。先に「花が」ということばがあり、つぎに「咲く」という具合に、先・後がある。(倒置法というのはいっしゅの技巧なので、ここでは触れない。)しかし、人間の意識そのものの動きのなかには先・後というものがあるようであって、存在しない。いつでもいれかわる。時間を無視する。
死んでしまって「いま/ここ」にいないはずの母の「あんたはいつだって」ということば。それは、たとえば坂多が中学生のときに聴いたことばか。あるいは社会人になってから叱られたときのことばか。区別がない。「時間」を無視して、あらゆる時間をひっくるめて「いま/ここ」にやってくる。時間の区別がない--無時間である。
この無時間は「永遠」でもある。それは、つまり、永遠につづくということなのだ。そして、それは坂多の肉体の中でつづくだけではなく、私たちの肉体のなかでもつづく。まったく知らないひとの肉体のなかでもつづくことでもある。
こんなことは誰でも
わかっているから、なかなか書けない。わかりすぎているから、ことばにする必要を感じないのかもしれない--のではなく、わかりすぎているから、どこから順序立てて書けばいいのか見当がつかないのである。
そういうものを、坂多は、ことばを動かしながら少しずつほどいている。
*
木村和「阿武隈川」は東日本大震災を題材にしている。そのなかほどの2行。
「かたちづくる」。すべては、かたちづくられる。「誇り」も「美しさ」も。この2行を書くとき、木村は木村自身を「誇り高く美しい」人間にしている。
坂多の母も、そして坂多もまたそれぞれに何かを「かたちづくる」。それは、生きているときは気がつかなかったが、実は「大きな花」だったということがある。
死んでしまってから気づいたのでは遅い--ということはけっして、ない。思い出すとき、それは「生きる」からである。すべては「無時間(永遠)」のなかで起きることがらだからである。
阿武隈川が「誇り高く美しい流れを」永遠に「かたちづくる」ように。
こういうことは、だれもが「ほんとはわかっている」。わかっているから、ことばにならない。だから、そのわかっていることをことばで読み返すと、とてもこころが落ち着く。
坂多瑩子「らしく」は死んだ母のことを書いている。「いま/ここ」にはいないのに、ふっとあらわれてくる。この「無時間」を、あたりまえのこととして書いている。きのう感想を書いた田中郁子の詩では「天」が田中と他のいのち(存在)をつないでいた。坂多の場合、いのちをつなぐのは「ことば(日常会話)」である。
母さん 死んだのでは 声をかけると
あんたはいつだって と少しおこった声でいう
それでわたしはもっとおこった声でいう
お母さんはお母さんらしくしていなさい
ほんとはわかっている
母親なんてものは
きりきざんだって
おまえのお母さんだっていうんだから
それでも
いっぱい孕んだものが
そうだよ 生きているときに
なに それって非難されて
ぎゅうぎゅうに押しこまれていたものが
死んでしまったら
ひらきかけた蕾のように
誰もとめることができなくて
大きな花になって
母は「あんたはいつだって」と坂多をたしなめてきたのだろう。そのことば--というより、口調そのものが坂多の体のなかに残っている。そして、それに反発したときに言った坂多自身のことばも。
ひとは誰でもそうだろうけれど、母親が(あるいは父親が)生きているとき、その肉体で守ってくれていることに気がつかない。いなくなって初めて、その肉体が隠していた背後というか、その肉体でせきとめていた「社会」が見えてくる。押し寄せてくる。そのとき、あ、こんなふうにして私は守られていたのかと思う。同時に、その瞬間、いま/ここにない母や父の、その肉体のなかにしまいこまれていたものがぱっと開くのを感じる。母や父の肉体がせきとめる形で子どもを守っていた肉体--そのせきとめる力が母や父の、「天(田中の書いていた天)」への「道」なのだ。方法なのだ。それが見える瞬間を、坂多は「ひらきかけた蕾」と「大きな花」という比喩をつかって、「誰にもとめることができない」力ということばで書き表している。--この部分は、とても美しい。そして詩のハイライトである。
と、書いた上で、私は少し引き返したい。「蕾」から「花」への運動はとても美しいが、私は実はその3行よりもほかに感動したことばがある。5行目。
ほんとはわかっている
怒る、反発する、へらず口をたたく--その母と娘の関係のなかに、そうやって動かすことばと、そのときの肉体のなかに、ことばにならない真実がある。その真実をわかっている。わかっているから、そうしない。わかっているから、したくない。
それは、何といえばいいのだろう、ひとは必ず死ぬとわかっていても、いまを生きるということにつながる運動である。
母親なんてものは
きりきざんだって
おまえのお母さんだっていうんだから
この一見乱暴なことばのなかにも、それがある。
この不思議な何かをきちんと(論理的に?)言うことができないのは、たぶん、それが「無時間」と関係があるからだ。論理というのは、ある意味では、ことばの順序である。順序というのは、時系列をとるものである。先に「花が」ということばがあり、つぎに「咲く」という具合に、先・後がある。(倒置法というのはいっしゅの技巧なので、ここでは触れない。)しかし、人間の意識そのものの動きのなかには先・後というものがあるようであって、存在しない。いつでもいれかわる。時間を無視する。
死んでしまって「いま/ここ」にいないはずの母の「あんたはいつだって」ということば。それは、たとえば坂多が中学生のときに聴いたことばか。あるいは社会人になってから叱られたときのことばか。区別がない。「時間」を無視して、あらゆる時間をひっくるめて「いま/ここ」にやってくる。時間の区別がない--無時間である。
この無時間は「永遠」でもある。それは、つまり、永遠につづくということなのだ。そして、それは坂多の肉体の中でつづくだけではなく、私たちの肉体のなかでもつづく。まったく知らないひとの肉体のなかでもつづくことでもある。
こんなことは誰でも
ほんとうはわかっている
わかっているから、なかなか書けない。わかりすぎているから、ことばにする必要を感じないのかもしれない--のではなく、わかりすぎているから、どこから順序立てて書けばいいのか見当がつかないのである。
そういうものを、坂多は、ことばを動かしながら少しずつほどいている。
*
木村和「阿武隈川」は東日本大震災を題材にしている。そのなかほどの2行。
ああ阿武隈川よ 醜い現実にさらされてなお
誇り高く美しい流れをかたちづくる川よ
「かたちづくる」。すべては、かたちづくられる。「誇り」も「美しさ」も。この2行を書くとき、木村は木村自身を「誇り高く美しい」人間にしている。
坂多の母も、そして坂多もまたそれぞれに何かを「かたちづくる」。それは、生きているときは気がつかなかったが、実は「大きな花」だったということがある。
死んでしまってから気づいたのでは遅い--ということはけっして、ない。思い出すとき、それは「生きる」からである。すべては「無時間(永遠)」のなかで起きることがらだからである。
阿武隈川が「誇り高く美しい流れを」永遠に「かたちづくる」ように。
こういうことは、だれもが「ほんとはわかっている」。わかっているから、ことばにならない。だから、そのわかっていることをことばで読み返すと、とてもこころが落ち着く。
お母さんご飯が―詩集 | |
坂多瑩子 | |
花神社 |