詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

2024-01-20 22:38:27 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「井戸のまわりで」。女たちが水を汲みにきている。誰か(恋人かもしれない)が小石を投げる。壺に当たってしまう。壺が壊れる。しかし、

水はこぼれない。水はそのままだった。

 これは非現実的だが、一瞬のこととしてならあり得る。こぼれる前、水は壺の形のまま、そこに立っている。映画の、ストップモーションのよう。そのまま動かない。そこに緊張がある。心臓が止まりそうなくらいの。
 「水は」の繰り返しが、その緊張を高める。
 原文は「水は」を繰り返していないかもしれない。一行一文かもしれない。しかし、中井は、それを二文に分けた。分けながら、「水は」を繰り返すことによって緊張感を高めている。「分断」と「接続」の、緊張した時間。とりかえしのつかない時間。
 というのも。
 たぶん、その井戸のまわりには、石を投げた男をつかまえようと待ち構えている敵がいるのだ。壺が割れれば、誰かが(隠れている男が)石を投げたことがばれてしまう。そう思ったのは、隠れている男だけではない。恋人の女も、そう思っただろう。いや、女の方がいっそう緊張し、金縛りにあったみたいに、そのまま動けないでいる。その、声にならない緊張感を、この一行は表現している。

 

 

 


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精神(こころ)は存在するか(3)

2024-01-20 21:16:28 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻の464ページ。

最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、

 この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。
 このとき、いったい何が起きるのだろうか。
 先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。

思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。

 「思うに」ということばがある。
 強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。
 497ページには、こんな文章がある。

古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らかにしなくてはならない。

 和辻が「思う」のは、ある作品の「想像力」について「思う」のである。和辻が「読みこなしたい」と思っているのは、その作品の「想像力」の動きである。このときの「想像力」とは「道」のつくり方だろう。違った存在をイコール(=)で結びつける「想像力」。そして、ある作品が完成したとき、そこには何と何がイコールであるかは「説明」されず、ただ完成した形だけがある。形のなかに、想像力は消えてしまっている。
 消えてしまっている想像力を明らかにするために、さまざまな分析をするのである。さまざまな「ことば」を動かすのである。
 逆に言えば「読みこなせない」とき、そこには和辻の知らない「想像力」が動いており、だからこそ和辻は強引に「読みこなせない」けれども、読みこなしにかかるのである。

 「読みこなす」は「読み熟す」と書くかもしれない。「熟す」は「うれる」でもある。うまく「うれる(熟す)」のは、そのとき、和辻の「想像力」かもしれない。「熟す(こなす=うまく処理する)」と「熟す(うれる)」が、入れ代わるようにして交錯する。そういうことが起きるかもしれない。「熟す(うれる)=熟す(こなす)」、つまり「熟す(うれる)即熟す(こなす)」へ向けて、和辻の想像力(思う)は動くのである。
 この瞬間がおもしろい。言いなおすと、和辻が「わかっていること」を書くときよりも、「わかっていないこと(読みこなせないこと)」を書くとき、そこに、とても魅力的なことばの運動が展開するのである。
 「古寺巡礼」のどの部分がそれにあたるか、いま私は的確に指し示すことができないけれど、私が和辻の文章にひきつけられるのは、そうしたことばの運動を随所に感じるからである。

 もうひとつ。
 きょう読んだ部分では、489ページに、こんな文章が出てくる。

道元の著書は仏教哲学史の一通りの理解なしにはこれらの高僧の思想に近づくことの無謀なのを教えたが、さてその哲学史に触れようとすると、ギリシアの哲学があの戯曲的に優れた対話の中から流れ出てくるように、大乗仏教の哲学があの巨大な交響楽のような法華経から流れ出てくるのを、無視するわけには行かなかった。

 道元とギリシャ哲学の関係を書いたものではないのだが、私は、妙にこの文章が印象に残る。「ギリシアの哲学」ということばが唐突に挿入されていることに刺戟を受ける。それは、私がプラトン(ソクラテスと言ってもいいのかもしれない)に惹かれることと関係しているのかもしれない。私はどこかでプラトン(ソクラテス)と道元が出会う「場」を探しているのかもしれない。そして、その「手がかり」を和辻の文章に感じているのかもしれない。 

 

コメント (1)
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