和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。
Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた
これは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。
私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。
私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。
この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に「約束」ということばである。
「約束」とは何か。
「論理的結論」と言いなおすことができるかもしれない。「哲学」は「結論」を持つ。しかし「文学」は「結論」を持たない。「おわり」があるが、それが「結論」とは言い切れない。
「哲学」が「論理」だとすると、「文学」とは何か。
和辻がよくつかうことばを借りれば「人格」かもしれない。「人格」は「結論」を持たない。しかし、その「結論」のない「人格」から受け取るものは非常に多い。和辻がケーベル先生から受け取ったのも「人格的影響」だろうと思う。
「人格」の定義はむずかしいが、「人格」を含む文章に、こういうものがある。18ページ、「ケーベル先生」。
目下の者への高慢を「心根の野卑下劣」とし、人の真の教養と気高さとが小さきものへの態度において認識せられるとした先生自身の人格のしわざである。
「人格のしわざ」の「しわざ」ということばが強い。それは「こころ」の動きというよりも、人間の肉体の動き(態度)そのもののように、私には感じられる。ひとは態度(肉体の動き)に肉体の動き(態度)で反応する。