詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころ(精神)は存在するか(5)

2024-01-27 22:29:22 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 これは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。
 私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。
 私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。

 この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に「約束」ということばである。
 「約束」とは何か。
 「論理的結論」と言いなおすことができるかもしれない。「哲学」は「結論」を持つ。しかし「文学」は「結論」を持たない。「おわり」があるが、それが「結論」とは言い切れない。
 「哲学」が「論理」だとすると、「文学」とは何か。
 和辻がよくつかうことばを借りれば「人格」かもしれない。「人格」は「結論」を持たない。しかし、その「結論」のない「人格」から受け取るものは非常に多い。和辻がケーベル先生から受け取ったのも「人格的影響」だろうと思う。
 「人格」の定義はむずかしいが、「人格」を含む文章に、こういうものがある。18ページ、「ケーベル先生」。

目下の者への高慢を「心根の野卑下劣」とし、人の真の教養と気高さとが小さきものへの態度において認識せられるとした先生自身の人格のしわざである。

 「人格のしわざ」の「しわざ」ということばが強い。それは「こころ」の動きというよりも、人間の肉体の動き(態度)そのもののように、私には感じられる。ひとは態度(肉体の動き)に肉体の動き(態度)で反応する。

 

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Estoy Loco por España(番外篇428)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-01-27 21:10:56 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 Sólo una vez he visto ese color antes de que lo llamaran azul. Ese color se alejó, ocultándose detrás del rojo y el blanco. Era la forma en que un amante se alejaba diciendo: "Si realmente me necesitas, ven a buscarme".
 ¿Fue un pintor de Ruso que dijo que cuando ya no puede ver el color, este se vuelve más puro en la memoria, o un pintor de un país que combina los complejos sonidos del alrededor de Ruso? Nadie recuerda el nombre del pintor, pero sí sus palabras.
 Una vez que lo veamos, nunca olvidaremos el azul, que aparece silenciosamente en el lienzo redondo después de que el artista que pinta la luna deja el pincel. El color azul dijo que este es su lugar. Tratando de descubrir si la voz era real o fantasmal, el artista se adentró en las profundidades del color azul e inmediatamente desapareció. Dejando atrás las palabras: "Este azul soy yo".

 その色がまだ青と呼ばれる前に、私は一度だけ、その色を見たことがある。赤や白に隠れるように遠ざかって行った。それはまるで、本当に必要ならば探しにくればいいというような立ち去り方だった。
 見えなくなったとき、記憶のなかでより純粋になる色だった、と言ったのはロシア生まれの画家だったか、ロシアの周辺の複雑な音が組み合わさった国の画家だったか。誰も画家の名前を覚えていないが、そのことばを覚えている。
 一度見たら忘れることのできないその青は、月を描く画家が筆を置いたあと、ひっそりと丸いキャンバスにやってきた。ここが私の場所だ、と言った。その声がほんとうの声なのか、幻の声なのか、確かめようとして、画家は、その青い色の奥へ足を踏み入れたとたん、姿が見えなくなった。「この青が私だ」ということばを残して。

 

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