詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(62)

2024-01-01 21:30:15 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「三幅対」。三篇で構成された詩から一行選ぶのは難しいが。「一、たそがれまで」から、その三行目。

自分の内部に聞いたのかも。

 「外部」に存在するものを、「自分の内部」に聞く。そのとき「外部」と「内部」を区切るものは何だろうか。一人の人間に内部と外部があり、それを区切るものがある。もうひとりの人間にも内部と外部があり、それを区切るものがある。その区切るもの同士が触れ合ったとき、どちらの人間の区切るものが優先されるのだろうか。あるいは、区切るものと区切るものの間にあるもの、つまり「外部」は、そのときどんな形で存在するのだろうか。
 この私のことばは、私の「内部」から生まれたのか。それとも私の「外部」からやってきたのか。もし「外部」だとして、それはたとえば中井久夫の、あるいはリッツォスの「内部」とどう関係しているのか。
 「内部」ということばが、内部-外部-内部という「三幅対」を生み出す。

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Estoy Loco por España(番外篇421)Obra, Joaquín Llorens

2024-01-01 21:03:05 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 「人」es la carácter kanji para "persona". Es difícil vivir solo, pero si se apoyan uno a otro, no caerán. Se dice que 人 representa tal forma. Me acordé de esto cuando vi la obra (derecha) de Joaquín.
 La obra de Joaquín intenta tomar la forma de esa "人". Una persona conoce a otra y, a partir de ahora, los dos se convierten en "人". De ahí nacen nuevas "人". Muchas de las obras de Joaquín me evocan un sentimiento de familia y amor, y esta obra es una de ellas.
 Aunque es una dura hierro, los ángulos suaves y la sensación de seguridad que crea el grosor de cada pieza hacen que se sienta como un ser humano vivo.

 漢字に「人」という文字がある。一人で立っているのは難しいが、支えあえば倒れない。そういう形をあらわしていると言われる。ホアキンの作品(右)を見て、そのことを思い出した。
 ホアキンの作品は、その「人」の形になろうとしている。一人と一人が出会って、これから二人で「人」になる。そこから、また新しい「人」が生まれる。ホアキンの作品には、家族や愛を感じさせるものが多いが、この作品も、そのひとつ。
 鉄でできた硬い作品なのに、柔らかさを含んだ角度、それぞれの太さがかもしだす安心感が、生きている人間を感じさせる。

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プラトン「饗宴」

2024-01-01 16:51:57 | 考える日記

プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)

 2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。

正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にある

 ここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。
 「中間」としての「思いなし」。
 中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無知)との間にあって、何かを感じ、それを動かす。その動いていく力を信じる。動いていく力を信じて、ことばを追いかけていく。そのとき、何かとシンクロする形で、一つのものが姿をあらわす。
 「思いなし」という表現が象徴的だが、それは「絶対的真実(真理)」ではないかもしれない。それでも、その「思いなし」がなければ、人間は生きていけない。何かを「正しい」と「思いなし」て「中間」を生きていく。

 こんなふうに「要約」してはいけないのかもしれないが、好きな本を(その著述家のことばを)読みながら、私は自分が何が「好き」なのかを探している。私の読み方は、もちろん「誤読」だろうけれど、その「誤読」を通して、好きな著述家のことばが少しずつ重なってくるのを感じるのは、とても楽しい。
 広いことばの世界の「中間」で、少しだけれど、「正しい」ものがどこにあるのか、その「方角」が見えてくるように感じられる。もちろん、それは錯覚で、結局、何もわからなかったなあと思いながら死んでいくのだろうけれど、ソクラテスではないが「無知」を自覚できて死ぬのが私の理想だ。
 まだまだ、「私は何かがわかっている(これからも何かがわかる)」と思ってしまう。そこから、抜け出すことは、できない。それでいいのかもしれないが。

 私の家は貧乏だった。小学校、中学校時代、私の家には、教科書以外の本は一冊もなかった。高校生のとき、岩波文庫の「ソクラテスの弁明」を買った。とてもうれしかった。からだも健康とはいえないし、目も悪い。残された時間で何冊、どれだけ本を読むことができるかわからないが、ともかく読みたい。
 読めば読むほど「中間」が広がり、どこへもたどり着けないのだけれど、でも読みたい。まだ私は生と死の「中間」にいる、とあらためて気がついた。

 

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