プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)
2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。
正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にある
ここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。
「中間」としての「思いなし」。
中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無知)との間にあって、何かを感じ、それを動かす。その動いていく力を信じる。動いていく力を信じて、ことばを追いかけていく。そのとき、何かとシンクロする形で、一つのものが姿をあらわす。
「思いなし」という表現が象徴的だが、それは「絶対的真実(真理)」ではないかもしれない。それでも、その「思いなし」がなければ、人間は生きていけない。何かを「正しい」と「思いなし」て「中間」を生きていく。
こんなふうに「要約」してはいけないのかもしれないが、好きな本を(その著述家のことばを)読みながら、私は自分が何が「好き」なのかを探している。私の読み方は、もちろん「誤読」だろうけれど、その「誤読」を通して、好きな著述家のことばが少しずつ重なってくるのを感じるのは、とても楽しい。
広いことばの世界の「中間」で、少しだけれど、「正しい」ものがどこにあるのか、その「方角」が見えてくるように感じられる。もちろん、それは錯覚で、結局、何もわからなかったなあと思いながら死んでいくのだろうけれど、ソクラテスではないが「無知」を自覚できて死ぬのが私の理想だ。
まだまだ、「私は何かがわかっている(これからも何かがわかる)」と思ってしまう。そこから、抜け出すことは、できない。それでいいのかもしれないが。
私の家は貧乏だった。小学校、中学校時代、私の家には、教科書以外の本は一冊もなかった。高校生のとき、岩波文庫の「ソクラテスの弁明」を買った。とてもうれしかった。からだも健康とはいえないし、目も悪い。残された時間で何冊、どれだけ本を読むことができるかわからないが、ともかく読みたい。
読めば読むほど「中間」が広がり、どこへもたどり着けないのだけれど、でも読みたい。まだ私は生と死の「中間」にいる、とあらためて気がついた。