「幼年時代--回復期」。この詩には、ちょっとした思い出がある。「回復期」ということばがあるのだが、私には病気になった少年が回復するときのことを書いているとは読めなかった。死んでいく、と感じた。対話の相手が天国の父というのも影響している。『リッツォス詩選集』(作品社、2014年7月15日発行)の「感想」でも、そう書いた。中井は、私の感想に、谷内は「死にゆく少年の詩と読んでいるが、これは病気の少年が回復して、従妹の家に遊びに行ける喜びを表した話と私には思われる」とわざわざ「注釈」をつけている。
なぜ、死んで行く少年と思ったのか。
青い鹿が来るよね、
この「青」が印象的だったのだ。
馬の「青毛」と言えば、青光りのする黒い馬である。鹿の場合も、「青」には特別な意味があるかもしれないが、私は「青」を死の象徴と思ったのである。しかも、その「青」が三回も繰り返されている。そのあとに「天国」ということばが、もう一回出てくる。「天国にいる青い鹿」と思ってしまうのである。
もし、茶色の鹿だったら、そうは思わなかったかもしれない。
ここから少し脱線するが(自己弁護になってしまうが)、私は、実は、こういう「誤読」が好きなのである。間違っているとしても、その間違いには何らかの「根拠」というか、「私の真実」が含まれている。私は「青」を「死の色」と感じている。死の直前には、一瞬の「回復」がある。「回復」があるからこそ、次の瞬間の死が強烈なものになる。あのドン・キホーテも死ぬ直前正気に戻っている(回復している)。そして、死んでいく。そのことによって(だけではないが)、永遠に生き残る。
私は、そう思いたいのである。
少年は死ぬが、その直前に、一瞬、「幸福な回復」をした、と。
また、別なことも思う。
注釈こそつけているが、中井はよく私の「感想」を受け入れて、一冊の本にしてくれたなあ。この寛大さは、いったいどこから来るのだろうか。
中井の訳詩と私の感想を一冊の本にする提案があったとき、私は「私の感想は、詩の背景(時代状況など)を無視しているし、誤読にもとづく感想だと思う。訳詩を傷つけることにはなりませんか」と質問した。中井は「詩だから、(論文じゃないから)、それでいい」と言った。
私は、それに甘えたのだが、また、こんなことも思った。「誤読」のなかで出会うなにかもある、と。
和辻哲郎は何かの本の中で、和辻が書いていることは専門家から見れば間違いかもしれないが、事実として間違っていても、私は自分の考えを間違えずに(正しく)書いているというようなことを書いている。考えていることが、ことばのなかを動いていく。そのときの「動き」そのものが正しいか(本当に自分が感じたことか、考えたことか)を大切にしているということだと思う。
「青い鹿」を死の象徴と読むのは、リッツォスの意図とは違うかもしれないし、中井の解釈とも違う。しかし、それが間違いであったとしても、私が書いたことは私が感じたことであり、それを正直に書いている、と中井が判断してくれたのだと思う。
人は「間違い」を通してでも出会えるし、「間違い」をおかしても生きていくことができる、と私は信じている。