和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。
「道」とは何か。
いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせているのが「道」である。
「道」は、あるときはある場所と別の場所をつないでいる。長いときもあれば短いときもあるが、ようするに「道」によってふたつの存在が結びつく。結びついた瞬間に「距離」は消える。「距離」を消してしまう、その結びつきが「道」。結びつきが「道」なのだけれど、結びついた瞬間「道」は消えてしまう。(それは「色即是空」の「即」に非常に似ている。)
「道」には、時には「言う」という動詞が割り振られることもある。「言う」を名詞にすれば「ことば(言葉)」になるだろう。(「言葉」のなかに「言う」がある。)
死ぬまでにもう一度読んでおきたいと思い、七十歳になったときから、中井久夫、林達夫、和辻哲郎と読み進んできた。三人の系列に、私は三木清も含めているのだが、この四人のことばは私のなかではつながりがある。
中井久夫は、統合失調症について「目鼻のつかない病気などあるものか」と言ったが、このときの「目鼻をつける」が「道をつける」かもしれない。三木清は「構想力」ということばをつかうが、この「構想力」が「道」である。林達夫ならば「想像力」か。和辻も、類似のことばをつかう。ことばをとおして、そこに存在しなかったもの(意識化できなかったもの)が具体的に存在し始める。それを支える「力」。
私は和辻の文章がとても好きなのだが、それには理由がある。和辻は、なんといえばいいのか、「専門外」の分野に足を踏み入れる。もちろん、その分野の勉強もするのだけれど、専門家から比べると、いわゆる「知識」が足りない。(専門家から、批判を受けている。)けれども、和辻は「間違い」をおそれずに、「未知」の部分を和辻の肉体のなかに動いているいのちを頼りに突き進んでいく。そこに、専門家がたどらなかった「道」ができる。
「未知」がことばを動かすことで「道」になる。それは専門家から見れば「間違った道」かもしれないが、間違いというよりも専門家が見落としていた「可能性」であり、そこにはいつも「いのち」が存在している。「間違い」は、ある意味で「いのちの必然性」でもある。生まれてこなければならない、何かが、そこにはある。
「道」は「いのち」なのである。