詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

精神(こころ)は存在するか(2)

2024-01-19 21:41:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。

 「道」とは何か。

 いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせているのが「道」である。
 「道」は、あるときはある場所と別の場所をつないでいる。長いときもあれば短いときもあるが、ようするに「道」によってふたつの存在が結びつく。結びついた瞬間に「距離」は消える。「距離」を消してしまう、その結びつきが「道」。結びつきが「道」なのだけれど、結びついた瞬間「道」は消えてしまう。(それは「色即是空」の「即」に非常に似ている。)

 「道」には、時には「言う」という動詞が割り振られることもある。「言う」を名詞にすれば「ことば(言葉)」になるだろう。(「言葉」のなかに「言う」がある。)

 死ぬまでにもう一度読んでおきたいと思い、七十歳になったときから、中井久夫、林達夫、和辻哲郎と読み進んできた。三人の系列に、私は三木清も含めているのだが、この四人のことばは私のなかではつながりがある。
 中井久夫は、統合失調症について「目鼻のつかない病気などあるものか」と言ったが、このときの「目鼻をつける」が「道をつける」かもしれない。三木清は「構想力」ということばをつかうが、この「構想力」が「道」である。林達夫ならば「想像力」か。和辻も、類似のことばをつかう。ことばをとおして、そこに存在しなかったもの(意識化できなかったもの)が具体的に存在し始める。それを支える「力」。

 私は和辻の文章がとても好きなのだが、それには理由がある。和辻は、なんといえばいいのか、「専門外」の分野に足を踏み入れる。もちろん、その分野の勉強もするのだけれど、専門家から比べると、いわゆる「知識」が足りない。(専門家から、批判を受けている。)けれども、和辻は「間違い」をおそれずに、「未知」の部分を和辻の肉体のなかに動いているいのちを頼りに突き進んでいく。そこに、専門家がたどらなかった「道」ができる。
 「未知」がことばを動かすことで「道」になる。それは専門家から見れば「間違った道」かもしれないが、間違いというよりも専門家が見落としていた「可能性」であり、そこにはいつも「いのち」が存在している。「間違い」は、ある意味で「いのちの必然性」でもある。生まれてこなければならない、何かが、そこにはある。
 「道」は「いのち」なのである。

 

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精神(こころ)は存在するか(1)

2024-01-19 00:00:51 | こころは存在するか

2024年01月018日(木曜日)

精神(こころ)は存在するか(1)

 「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。

 仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。
 なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚)という「構図」にしなかったのか。仏教が誕生したころは脳は頭のなかに隠れていて見ることができない(触ることができない、存在を確認できない)から、目に見えない「精神(意識/こころ)」を割り振ったのか。そうだとしても、脳の存在が誰にもわかるものとして認識されてからも、その脳(頭)を組み込む形で、それまでいわれてきている仏教思想(東洋思想)を再編成しようとしないのはなぜなのか。
 私は、何も知らない人間の大胆さで、「目耳鼻舌身頭(脳)」と「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚(ことば=精神/こころ)」という「構造」で「世界」を整理し直したいと思っている。
 私は、「一元論」を、私なりに書いてみたいと思っている。
 私の「一元論」は簡単に言いなおしてしまうと、世界に存在するのは「私という肉体」だけであり、そのほかのものは「私の肉体」が、そのときそのときの必要に応じて、「存在すると知覚したもの/知覚しようとしているもの」ということになる。
 コップがある。水がある。そう認識する(知覚する)とき、それは「私という肉体」がコップや水を通してことばを動かし、何かを考えたいと思っているからである。別なことばで言えば、そのとき動いたことばの範囲(領域)が「世界」であり、コップや水を書いている瞬間、花や太陽は存在しない。花や太陽は存在しないと書いた瞬間(ことばにした瞬間)、存在するものとしてあらわれてくる。「肉体」は「ことば」とともにあり、「ことば」とともに、その瞬間瞬間に「世界」は形を変えながら存在する。
 こういうことを「無常」というのではないか、あるいはこの「肉体=ことば=世界」というときの「イコール(=)」を「法」と呼べばいいのではないか。

 結論(?)を先に書いてしまうと、もう書くことはないなあとも思うのだが、その「結論」までの「道筋」をどうデザインしていけばいいのか、よくわからない。よくわからないが、それを書きたいと思っている。

 

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