詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇429)Obra, Joaquín Llorens

2024-01-28 21:37:49 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Cuando vi esta obra, me acordé de la obra "人, o persona" que presenté el 1 de enero. Aquí una de la 人 (probablemente Joaquín) sostiene a la otra. Podría ser su esposa. Podría ser su hijo. La persona en sus brazos se siente completamente aliviada y su cuerpo flota en el aire. Sus rostros están muy juntos como si estuvieran a punto de besarse. El pequeño objeto atrapado entre dos cuerpos puede ser un hijo. En otras palabras, su esposa está embarazada y, en su alegría, están a punto de besarse.
 La razón por la que asocio esto es porque cada parte de la escultura está llena de cálida. Aunque está hecho de hierro, no siente nada de frío. Tampoco es dureza. En otras palabras, hay fuerza que posee el cuerpo humano. Es similar al cuerpo humano, que se fortalece al comunicarse entre sí. Parece una forma de familia.

 1月1日(421)で紹介した「人」につながる作品。ここでは、人のうちのひとり(たぶんJoaquin )がもうひとりを抱き抱えている。妻かもしれない。子供かもしれない。抱かれた相手は、安心しきって体を宙に浮かせている。顔はキスするときのように接近している。抱えあげられた方がキスを求めている。ふたつの肉体の間にはさまった小さな立体はこどもかもしれない。つまり妻は妊娠し、その喜びで、ふたりはキスしようとしている。
 こういうことを連想するのは、彫刻のひとつひとつの部位が温かい力に満ちているからだ。鉄なのに、冷たさがまったくない。固さもない。言い換えると、人間の肉体がもっている強さがある。こころを通い合わせることで強くなる人間の肉体、家族の姿に似ている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉惠美子「ハプニング」ほか

2024-01-28 18:01:57 | 現代詩講座

杉惠美子「ハプニング」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年01月14日)

 受講生の作品を中心に。

ハプニング  杉惠美子

接触事故で電車が止まった
復旧の目途は立っていませんと
アナウンス
駅のホームには既に並ぶ人々
こんな待ち時間は何と説明するのだろう

おみやげにもらった饅頭を
食べたいけれどそういう訳にもいかない
別に焦る気持ちもないけれど
黙って待つより他はない

少しずつ夕暮れ時の空に包まれ
寒気がしてきた
ビルの明かりがより明るくなり
時間を取られたのかもらったのかと考えた

昔、    たまたま帰りの電車で
父と一緒になった時の、父の横顔を
思い出した

 「三連目、時間を取られたのかもらったのかと考えた、がおもしろい。二連目の、実際に起きた出来事に、作者の気持ちが重なっていく部分が、とても自然に読むことができる」「日常的な時間の流れ、待つという行為を通じて、別の時間が現われる。それが三、四連目につながる。ビルの明かりがより明るくなり/時間を取られたのかもらったのかと考えた、から時間がゆっくり流れ、過去へ入っていく。その変化が詩的」「胸に迫ってくる。ハプニングから、少しずつ変化し、三連目の、寒気がしてきた、で冬の時間であることが自然にわかる。父に会ったことも、一つのハプニングだとわかる」
 とても自然な感じ、ある意味ではエッセイのように淡々とことばが動いていくのだが、最後の連がとても印象に残る。「昔」と書いてあるのだが、まるで、いま、実際に父に会っているような感じでもある。「昔」が何年前なのか、作者にはわかるが、読者にはわからない。それが、特にいい。どんな「昔」でも、思い出した瞬間、その「昔(時間)」は作者のすぐそばに存在している。
 「ビルの明かりがより明るくなり」という一行が、そういう「感覚の動き」ととてもよく似合っている。ある意味では、その一行は四連目を先取りしている。遠い昔が、突然、鮮明に輝き出したのである。昔なのに、いまであるかのように、すぐそばにきている。
 時間をテーマにした詩はむずかしくなりそうだが、二連目の「饅頭を/食べたいけれどそういう訳にもいかない」というユーモアが、全体をやわらかくしている。

まるちゃんの窓  緒加たよこ

撫でてもらったの
おなか
指3本分の
ねむりながら
まるちゃんを撫でたつもりだった
その手は
おなかを撫でてくれた
まるちゃんの気持ちになった
うっとりするね
撫でてって いうね
まるちゃんは きょとんとしてたけど
まるちゃんになったよ
夜 あったかかった
朝も あったかかった
障子を引いたら
まるちゃんの窓が開いてた
昨日 まるちゃんがアツイっていったから
開けてた 指3本分
寒くなかったよ
昨日 まるちゃんは帰ったけど
まるちゃんの 窓をみつけて
笑ったの

 「まるちゃんを猫だと思って読んだ。書き出しの、指3本分が体温の温かさを感じさせる。私ということばは書かれていないのだが、私とまるちゃんが一体になってる。指3本分は後半の部分で窓と交錯する。意味はつかみにくいが、あいまいにぼかされていることでより一体感が出てくる。書き方がやさしく、ぬくもりのある詩」「最近の緒加さんの詩は輪郭がつかみやすくなった。いいなあ、と思う。ことばにスタッカートが効いているが、同時に展開にやわらかさ、まるさがある」「猫は飼ったことはないが、犬にはない猫のよさが伝わってくる。一体感がよく書けていて、猫と人とのつながりがあり、気持ちがいい」
 作者によれば「まるちゃん」はマルチーズということなのだが、私も猫を想像した。二年目の「その手は/おなかを撫でてくれた/まるちゃんの気持ちになった」の非文法的な(?)ことばの展開がユニークでおもしろい。やわらかいというよりも、不定形な猫の肉体を想像させる。「まるちゃんの気持ちになった」から「まるちゃんになったよ」への変化、「気持ち」の省略がとてもおもしろい。「気持ち」というものも「時間」と同じように、どんなに遠く離れていても、すぐそばにある(一体になっている)と感じさせるものがある。

ダンス  青柳俊哉

水中でそばだてる耳

星が響く うえに世界がある
空中の葉が鳴る
一枚が離れ いく枚かがあとを追う

雨が乱れる
水面にふれるかすかな葉音
風のもように斜めにくずれて頭上の水が移動する

耳かしぐ

耳元へ 
風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす

空の呼吸のような渦の中へ 
耳はばたく

 「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす、という一行、一気に言ってしまっているのが珍しく、とても印象的。自由な感じがし、解放されたように感じる」「絵を想像する。いつもはその絵の全体を想像するのとむずかしいのだが、今回の詩は絵が浮かんでくる」「動きがことこまかに書かれている。タイトルがいなあ」
 今回の詩は、つかわれていることばが少ない。水と耳、水の中と水の外(世界/宇宙)をつないでいる風と葉。その動きが重なり合う。そして、受講生が指摘した「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす」という一行に凝縮しながら、その凝縮が、ビッグバンのような爆発をもたらす。名詞ではなく、動詞が動いて、その動きの中に名詞を誘い込んでいるような緊密感がある。

年を越える  石垣りん

そして さしかかる

私たちは登りつめる。
一年の終わりの何日かを
どうしても
どうしてか
越えなければならなかった。
だれと約束したのでもない
そのことじたい目的があるわけでもない。
そういう旅を人は強いられていて
急ぐ。
なぜか この道はさびしい。
多勢の足音がきこえているのに
みんなひとりの峠を越えていく。

 「峠にはいろいろな意味が込められていると思う。それに共感する」「年を越す、なぜさびしいのかなあ。毎年、こんなふうに思っているわけではないだろう。深く思ったことがあったのかなあ」「年越し、一生のおわりの何回か。人と時間について考えさせられる。そのことじたい目的があるわけでもない、ということばは、ひとりひとりの誰にでもあてはまるのではないか」「何かを自分で越える。最後の三行、とくにひとりということばに覚悟を感じる」
 この詩の書き出しの「そして」はとてもおもしろい。「そして」という表現が成り立つとき、そこには詩人と読者の「共通認識」がないといけない。いままで、こういうことを話してきた。その話のつづきとして、これから話します(語ります)。これから書くことは「つづき」です、というニュアンスがある。
 もちろん読者は「そして」の前に何があったか知らない。そのため、突然「そして」といわれると緊張する。この詩は、読者を緊張させる、あるいは読者の関心を引きつける工夫をしていることになる。この緊張感が「さしかかる」という動詞の意味を強める。「峠」は、それがどういう峠であれ、人を緊張させる。何らかの変化が「峠」を中心にして始まることを暗示する。
 しかし、おもしろいことにこの詩のタイトルは「峠を越える」ではなく「年を越える」である。「峠を越える」ともちろん比喩としても成り立つが、実際に「峠を越える」という具体的な動きを表わすこともある。「年を越える」は、それに比べると抽象的である。だからこそ「峠」という比喩で、動詞の方に読者の意識を誘っているのだともいえる。
 「そして さしかかる」という行の中の「し」の繰り返し。その「し」の音が随所に響いているのも、この詩に緊張感を与えている。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする