「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」というのはほんとうか。
私は、そもそも「絵を見ないとき、その絵は存在しない。酒を飲まないとき、その酒は存在しない」と考えている。「見る」「飲む」のかわりに「想像する」をつかえば、「ある絵を想像する(想起する)とき、その絵は存在する。ある酒を想像する(想起する)とき、その酒は存在する」と言えるが、それはあくまで「想像のなか」に存在するのであって、現実に存在するかどうかはわからない。いろいろ考えるとめんどうくさくなるので、便宜上「どこかに存在している」という形で対応してはいるが、こんなことは何の意味もない。
和辻は、「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」ということばから、別のことを考えている。「美しい」「うまい」というのは価値である。価値には志向性がある。価値は、人間が「対象」に対して「与える」ものである。「与える」という動詞が、このとき動いている。そこには「生きている人間」がいる。
つまり、「価値を与える」ということで、自分自身をあらわしている。「顕現化」していることになる。
ところで、この顕現化とはどういうことか。「価値を与える」にかえって考えるとわかりやすいかもしれない。
というか。
私は、こんなふうに「誤読」している。
私が和辻に惹かれるのは、和辻のことばの動かし方が「個人的」にとじこもらないからである。「哲学」というのは、なにか「個人にとじこもって考える」印象が強いが、和辻は「個人」から踏み出していく。どこかに「いまの自分」を否定して、「いまの自分」以外のところへ踏み出していく印象がある。
簡単に言いなおせば、「専門以外」のところへ踏み込んでいく。「専門以外」のところで、和辻なりの「価値付け」をする。それが、おもしろい。そして、その「踏み出し(新たな価値付け)」から、いままで存在しなかった時間と空間がひろがる。新しい時間と空間が和辻のなかから出てきて、それが新しい和辻になる。そういう印象がある。
すべてのこと(世界)は、和辻という「肉体」のなかにある。それが少しずつ何かに「価値を与える」につれて、「肉体」のそとへあふれてくる。
以上は少し前に書いた「日記」。
きょう読んだ文章のなかに「倫理」を定義した部分がある。
倫=なかま=一定の行為的関連の仕方
理=ことわり、すじ道
大胆に「要約」すると、そういうことになる。「すじ道」の「道」にも私は関心を持ったのだが(「古寺巡礼」で「道」ということばに出会って以来、私は、それが気になっている)、もうひとつ「一定の行為的関連の仕方」ということばに、何か、肉体をつかまれた気になった。「行為の仕方」を「行為のかた(型/形)」と「誤読」した瞬間、「歌舞伎」を思い出したのである。私は「歌舞伎」をほとんど知らないのだが。
島流しになっているある役者が、仲間と別れるシーン。彼は島に残され、仲間は許されて京都(?)へ帰っていく。それを岬で見送る。そのとき、その役者の手の動きがとてもすばらしかった。「さようなら」と力いっぱい叫んでいるときは、振っている手の(指の)隅々にまで力がこもっている。それが船が見えなくなるに連れて、力をなくし、次第に腕がさがり、指先もまがる。そこには「張りつめた感情」が変化していくときの肉体の動きが「新しい型/形」として具体化されていた。腕、指の動きに「感情の価値(形)」を与え、「表現」を創造していた。
歌舞伎は、引き継がれてきた「型/形」を繰り返して見せるものであり、まあ、そこで肉体の動きを確認し、自分のなかに感情を蘇らせる「仕組み」になっているのだと思うが、その役者がやったことは「型」の継承ではなく、昔からある「型」を破って、新しい「型」へ踏み出していくということだった。そうすることで、新しい「人間」に成ったのである。
和辻なら、もっと的確な表現で批評するかもしれないが。
なんとなく、私は、和辻がことばでやっていることを、その役者は肉体でやってみせたように感じたのである。
これは(きょう書いたことは)、「誤読」をはるかに通り越して、脱線の脱線かもしれないが……。
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