瀬戸口宣司「呼ぶ声」(「感情」6、2014年03月01日発行)
瀬戸口宣司「呼ぶ声」も「現代詩」と呼ばないと思う。「歌」という範疇に入るかもしれない。「声」に酔うためのことば。
「遠い風」と言われても何のことかわからない。でも、一瞬、知らない場所(忘れてしまった場所=「あるとき」という漠然としたことばが「遠い」過去を感じさせる)を風が吹き抜ける感じがする。その風のなかでは「歳月」は「消えてい」くしかないなあ。これは「意味」ではなく、一種の「流通イメージ」である。「流通イメージ」を組み合わせたものがきっと「歌」なのだ。「ふるえる」も「鳥のつばさ」も「流通イメージ」であり、そこに登場する「肉体」が「唇」というのも「歌」だからである。「現代詩」なら、「唇」ではなく、もっと「見えない肉体」をぶつける。ことばにすることによってはじめて見える肉体--それがないと、詩にはならない。
瀬戸口も、それは自覚しているのかもしれない。「存在」という異質なことばをそこに挿入している。「存在」というのはだれもがつかうことばだが、私はここで少しつまずく。「あたたかい存在の唇」というのは、「あたたかい存在」イコール「あたたかい唇」ということだと思う。つまり「存在」ということばはなくても「意味」は同じ。
いや、違う。
「意味」は同じに見えるが、何かが違う。何が違うかというと、「あたたかい唇」では、それが「存在している」という意識が少し薄れる。瀬戸口は「存在している」ということを書きたいのだ。力点は「唇」というよりも、「存在」の方に置かれている。「存在している」は「存在していた」という具合に時制が変化する。「遠い風(遠い過去)」には、それは「存在していた」という思いがあるから「存在」ということばがここで動くのである。
「歌」に隠して、詩を少しのぞかせている。
「教えた」にも「流通言語」とは少しずれたイメージがある。「教える」という動詞は「だれが(何が)」「だれに」「何を」というひとつづきの運動である。この詩では簡単に言うと「声」が「耳(ぼく)」に「唇の存在」を教えた、ということになる。
「声が耳に唇を教える」。--こういう文体は、いまでは日常的に読んだり聞いたりするが、かなり変な日本語である。「教える」は基本的に「だれ(人間)」が主語である。ふつうは、こういうとき「ぼくは声と耳をとおして、唇を知った」という具合にいう。「教える」ではなく「知る」。「知る」の主語は「ぼく」。
瀬戸口は「ぼく」を主語にしないことよって、唇の持ち主である「だれか」を感じさせる。主語を隠して、その主語の方に意識を引っぱっていく。この文体(この技法)は、「歌」か「詩」か……。昔なら「詩」だったかもしれないが、技法というのはどんどん発達してあたりまえになるから(「声が耳に唇を教える」という文体がいまではあたりまえであるように)、まあ、「歌」だろうなあ。
2連目は「真夜中にぼくは愛を眠らせる/夢のなかの天使とともに」という具合で、あまりにも安っぽい歌謡曲のようでぞっとするし、3連目は「あのときふたりの声が交差した/せわしない感触/濡れてはじけるむなしさと悦び/まわりをめぐる性に/熟れきれない叫びを発した」はスポーツ新聞のセックス描写を少年少女向きに書き換えたような文体だ。(昔スポーツ新聞を読んだ記憶で書いているのだが……。)
書きつづけると「歌」批判ばかりになってしまいそうなのだが。
最後の連。
「履歴」ということばに、1連目の「存在」ということばと同じようなものを感じた。そこで、私はつまずき、つまずく瞬間に、「歌」が一瞬吹き払われ、「詩」があらわれるのを感じた。「履歴」というのは「存在」と同じように「名詞」だが、そこには「肉体」の一連の動きがある。どういう「こと」を「肉体」が経験してきたか。「経験する」という「動詞」が隠れている。そしてこの「経験する」という「動詞」の隠れ方は、1連目の「存在」「存在する」という「動詞」の隠れ方よりも複雑である。
「存在」は「存在する」という動詞から派生した名詞なのか、「存在する」は「存在」という名詞から派生した動詞なのか、私は知らないが、それはぴったりと重なる。それに対して「履歴」は「経験する」という動詞とはすぐには重ならない。「履歴」は「履歴する」という「動詞」と重なるのかもしれないが、私は「履歴する」とは言わない(そういうことばをつかわない)。「名詞+する」とう形の「動詞」は、もともと奇妙なものだが、その奇妙さは「流通」してしまうとなかなか見えにくくなる。「科学する」ということばが登場したときはなんだか大騒ぎしたような気がするが……。
あ、だんだん、書いていることがずれていく。
でも、ずれたまま、さらにずれていこう。
何かが「流通する」とき、そこには経済学が働く。合理主義といってもいいかもしれない。余分なものを省き、流通しやすくする。「履歴」ということばにも、「流通」のための経済学がある。ことばの経済学がある。
ひとはいろいろなことを経験する。それは簡単に「経験」と言ってしまえる。ただ、経験ではそれが「単独」に見える。ところが「経験」が複数になると、それをひとは「経験たち」とか「経験経験」という重ねことばではいわなくなる。かわりに「歴(歴史)」をくっつける。「学歴」「職歴」「恋愛歴(?)」。「履歴」の「歴」はそれなのである。つまり「履歴」というのは「経験が」複数あるということを語っている。そういうことにたどりつくまでに、私は、ちょっとつまずくのである。
瀬戸口は「いくつかの」ということばをつかっている。「履歴」の「歴」のなかに「複数」が隠れていることを知っている。「いくつか」を言いたくて「履歴」ということばを選んでいる。そこに「現代詩」がある。「わざと」がある。瀬戸口は「わざと」履歴ということばをつかい、「歌」を壊している。
この「歌」を壊していくことばの運動がもっと交錯すると、瀬戸口のことばはおもしろくなる。でも、瀬戸口は、そういうことばの破壊、破壊の一瞬にのぞく何かよりも「歌」が好きなのだろう。
詩の終わり方は昭和歌謡曲みたいだ。それはそれでいいのだろうけれど。
瀬戸口宣司「呼ぶ声」も「現代詩」と呼ばないと思う。「歌」という範疇に入るかもしれない。「声」に酔うためのことば。
ぼくを呼ぶ声がする
聞き覚えのある声
あるとき遠い風のなかに
消えていった歳月
その声はぼくの耳をふるわせ
鳥のつばさのように光って
あたたかい存在の唇を教えた
「遠い風」と言われても何のことかわからない。でも、一瞬、知らない場所(忘れてしまった場所=「あるとき」という漠然としたことばが「遠い」過去を感じさせる)を風が吹き抜ける感じがする。その風のなかでは「歳月」は「消えてい」くしかないなあ。これは「意味」ではなく、一種の「流通イメージ」である。「流通イメージ」を組み合わせたものがきっと「歌」なのだ。「ふるえる」も「鳥のつばさ」も「流通イメージ」であり、そこに登場する「肉体」が「唇」というのも「歌」だからである。「現代詩」なら、「唇」ではなく、もっと「見えない肉体」をぶつける。ことばにすることによってはじめて見える肉体--それがないと、詩にはならない。
瀬戸口も、それは自覚しているのかもしれない。「存在」という異質なことばをそこに挿入している。「存在」というのはだれもがつかうことばだが、私はここで少しつまずく。「あたたかい存在の唇」というのは、「あたたかい存在」イコール「あたたかい唇」ということだと思う。つまり「存在」ということばはなくても「意味」は同じ。
いや、違う。
「意味」は同じに見えるが、何かが違う。何が違うかというと、「あたたかい唇」では、それが「存在している」という意識が少し薄れる。瀬戸口は「存在している」ということを書きたいのだ。力点は「唇」というよりも、「存在」の方に置かれている。「存在している」は「存在していた」という具合に時制が変化する。「遠い風(遠い過去)」には、それは「存在していた」という思いがあるから「存在」ということばがここで動くのである。
「歌」に隠して、詩を少しのぞかせている。
「教えた」にも「流通言語」とは少しずれたイメージがある。「教える」という動詞は「だれが(何が)」「だれに」「何を」というひとつづきの運動である。この詩では簡単に言うと「声」が「耳(ぼく)」に「唇の存在」を教えた、ということになる。
「声が耳に唇を教える」。--こういう文体は、いまでは日常的に読んだり聞いたりするが、かなり変な日本語である。「教える」は基本的に「だれ(人間)」が主語である。ふつうは、こういうとき「ぼくは声と耳をとおして、唇を知った」という具合にいう。「教える」ではなく「知る」。「知る」の主語は「ぼく」。
瀬戸口は「ぼく」を主語にしないことよって、唇の持ち主である「だれか」を感じさせる。主語を隠して、その主語の方に意識を引っぱっていく。この文体(この技法)は、「歌」か「詩」か……。昔なら「詩」だったかもしれないが、技法というのはどんどん発達してあたりまえになるから(「声が耳に唇を教える」という文体がいまではあたりまえであるように)、まあ、「歌」だろうなあ。
2連目は「真夜中にぼくは愛を眠らせる/夢のなかの天使とともに」という具合で、あまりにも安っぽい歌謡曲のようでぞっとするし、3連目は「あのときふたりの声が交差した/せわしない感触/濡れてはじけるむなしさと悦び/まわりをめぐる性に/熟れきれない叫びを発した」はスポーツ新聞のセックス描写を少年少女向きに書き換えたような文体だ。(昔スポーツ新聞を読んだ記憶で書いているのだが……。)
書きつづけると「歌」批判ばかりになってしまいそうなのだが。
最後の連。
ぼくを呼ぶ超えに目覚めた
あれはいくつかの履歴か
それとも信じたくない
封が切られないまま
戻ってきた幾通かの手紙の人か……
乾いた唇に気づき
ぼくは東京の青い空を齧る
「履歴」ということばに、1連目の「存在」ということばと同じようなものを感じた。そこで、私はつまずき、つまずく瞬間に、「歌」が一瞬吹き払われ、「詩」があらわれるのを感じた。「履歴」というのは「存在」と同じように「名詞」だが、そこには「肉体」の一連の動きがある。どういう「こと」を「肉体」が経験してきたか。「経験する」という「動詞」が隠れている。そしてこの「経験する」という「動詞」の隠れ方は、1連目の「存在」「存在する」という「動詞」の隠れ方よりも複雑である。
「存在」は「存在する」という動詞から派生した名詞なのか、「存在する」は「存在」という名詞から派生した動詞なのか、私は知らないが、それはぴったりと重なる。それに対して「履歴」は「経験する」という動詞とはすぐには重ならない。「履歴」は「履歴する」という「動詞」と重なるのかもしれないが、私は「履歴する」とは言わない(そういうことばをつかわない)。「名詞+する」とう形の「動詞」は、もともと奇妙なものだが、その奇妙さは「流通」してしまうとなかなか見えにくくなる。「科学する」ということばが登場したときはなんだか大騒ぎしたような気がするが……。
あ、だんだん、書いていることがずれていく。
でも、ずれたまま、さらにずれていこう。
何かが「流通する」とき、そこには経済学が働く。合理主義といってもいいかもしれない。余分なものを省き、流通しやすくする。「履歴」ということばにも、「流通」のための経済学がある。ことばの経済学がある。
ひとはいろいろなことを経験する。それは簡単に「経験」と言ってしまえる。ただ、経験ではそれが「単独」に見える。ところが「経験」が複数になると、それをひとは「経験たち」とか「経験経験」という重ねことばではいわなくなる。かわりに「歴(歴史)」をくっつける。「学歴」「職歴」「恋愛歴(?)」。「履歴」の「歴」はそれなのである。つまり「履歴」というのは「経験が」複数あるということを語っている。そういうことにたどりつくまでに、私は、ちょっとつまずくのである。
瀬戸口は「いくつかの」ということばをつかっている。「履歴」の「歴」のなかに「複数」が隠れていることを知っている。「いくつか」を言いたくて「履歴」ということばを選んでいる。そこに「現代詩」がある。「わざと」がある。瀬戸口は「わざと」履歴ということばをつかい、「歌」を壊している。
この「歌」を壊していくことばの運動がもっと交錯すると、瀬戸口のことばはおもしろくなる。でも、瀬戸口は、そういうことばの破壊、破壊の一瞬にのぞく何かよりも「歌」が好きなのだろう。
詩の終わり方は昭和歌謡曲みたいだ。それはそれでいいのだろうけれど。
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