詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(20)

2014-04-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(20)          2014年04月11日(金曜日)

 「単調」は文字通り単調な日々を書いている。

単調な日が単調な日を追う。
どこも違わぬ日。
違わぬことが来る。また来る。
違わない時間が我等を捉え、放つ。

 おもしろいのは「追う」と「来る」というふたつの動詞である。単調な日を単調な日が追いかけるだけではない。単調な日は向こうからもやって来る。何の考えもなく、そういうことを感じたことがある(いまも感じる)と思ってしまうが、時間が過去から未来へ向かって流れるものなら、「来る」という表現は逆流になるからありえない。また未来の「単調な日」というのはまだ存在しないのだから、きょうの「単調な日」がそれを追いかけるということもない。過去を振り返り、単調な過去が単調な過去を繰り返し、それが「きょう」になっている、ということだろう。「きょう」のなかに、単調な過去と単調な未来が見える、ということだろう。
 だが、「時間論」のなかにはいり込むのはやめよう。
 カヴァフィスが「追う」と「来る」という反対の動詞で「時間」をみつめているということに集中してみる。「きょう」のなかには「追う」と「来る」という反対の動きがある。カヴァフィスは何かをとらえるとき一つの「方向」でとらえない。ひとつの「意味」に向かってことばを整えない。むしろ逆だ。一つのものを複数の視点でとらえる。
 矛盾。一貫性がない--これがカヴァフィスの特徴だ。
 「捉える」「放つ」というふたつの動詞が衝突する。それが「いま」という瞬間である。
 カヴァフィスは、これを別のことばで繰り返す。

ひと月にひと月がつづく。
何が来るか ほぼ見通し済み。
昨日と同じ退屈ばかりが来て、
明日が「明日」でなくなる。

 「追う」は「つづく」と言いなおされているが、「来る」は「来る」のままである。「時間」は本質的に「来る」ものなのだろう。自分で積み上げていくよりも先に、どこからか「来る」。そのために自分でつくりだそうとした「明日」は実現されない。楽しいはずの明日は実現されず、退屈な明日が「きょう」になる。「明日」はなく、「きょう」だけがある。
 この作品は詩的興奮、生き生きと動く精神の美しさ、音楽の楽しみというものを欠いているが、その分、カヴァフィスの「思想」と真摯に向き合っている。

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