詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(21)

2014-04-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(21)          

 「足音」はローマ皇帝ネロと復讐の神フリエスを描いている。前半はネロの描写。

珊瑚でできた鷲が
黒檀の寝台で拝んでいる。
その上のネロは
静穏、幸福、平和なまどろみ。
肉体の盛りのきわみ、
若さの晴れやかな力。

 短いことばが「盛り」を端的に表現する。充実したものに多くのことばは必要としない。「盛りのきわみ」がどんな状態か描写は必要がない。それを見たことがない、見て感じたことがない人間にはいくらことばをつかって描写してみてもわからない。わかる人間にはわかる。それは、男色家が若い男の姿を引きつけられるときの感じだ。ネロをカヴァフィスはそういう視線で見つめている。その肉体の盛りがやがて終わるとわかっているからこそ、その晴れやかさにみとれている。
 この前半に対し、カヴァフィスはおもしろい試みをしている。フリエスを直接登場させない。ネロとフリエスが直接ぶつかれば、力と力のぶつかりあいになってしまう。それでは、ふつうの人間がはいり込む余地がない。感情移入できない。カブァフィスはフリエスを「足音」として登場させるだけで、あとはネロの家を護る神々を描写する。

小さな神々はおののいて
小さな身体を隠そうとする。
神々には聞こえる、恐ろしい音が。
破滅の音が昇ってくる。一段一段近づく。
鉄の足音に階段が上から下まで一つに振動する。
怖れに気もそぞろな家の神たちは
あわてて神棚のうしろに隠れて
押し合い、よろめき、

 ネロの平穏とは対照的である。そして、家を護る神々の恐怖が描かれれば、あとは読者の想像に任せてしまう。
 ネロの平穏が短いことばによって描写されるのに対し、神々の恐怖の描写は長い。この対比もおもしろい。恐怖はこころのなかで起きる。こころは細部へ細部へと迷い込んで行く。自分自身で迷路をつくり、そこから逃れられなくなる。「鉄の足音に階段が上から下まで一つに振動する。」という行は、想像力(ものを歪めてみてしまう力)の姿をはっきりとつたえる。「階段」そのものが振動するというよりも、フリエスが昇ってくると思うと、階段が振動して見える。階段は部屋の外にあるのではない。階段は神々の「こころ」のなかにある。カブァフィスはこころのなかの「こと」を描写する。

カヴァフィス全詩集
クリエーター情報なし
みすず書房

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