布村浩一「歩く」(「別冊詩的現代」2023夏、2023年夏発行)
布村浩一「歩く」は、こうはじまる。
大川を北へ折れて
そのまま歩いて
途中で
団地の方へ
団地の方角へ
入っていき
そのまま歩き
「そのまま」がこの詩のキーワードで、歩いた場所を「そのつまま」書いている。歩いていくと「大きな建物」がある。「そのまま」とは書いてないが、「そのまま」入っていく。という具合に、どこにでも「そのまま」を補えるのだが。
ここに百均の店と
スーパーマーケットと
ドラッグストアと
本屋がある
ドラッグストアとスーパーマーケットの
あいだにきれいな白いトイレがあり
そこで用を足してから
本屋に入る
店の中をぐるっとまわって
雑誌のコーナーで停まる
ここにある週刊誌と隔週の週刊誌と月刊誌を
読む
この「そのまま」の感じがとてもおもしろく、「そこで用を足してから/本屋に入る」のあいだに、思わず「そのまま」を挿入したくなる。そのまま、手を洗わず。手を洗ったのなら「そこで手を洗って」と書きそうなのに、書いてないなあ。きっと「そのまま」手を洗わず、本屋に入ったんだろうなあ。
ま、これは、私の「妄想/誤読」だから、気にしないでね。
その本屋の描写では「ここにある」ということばがとてもおもしろい。「ここにある」もの以外は読むことはできないのだが、「ここにある」と書く。「ここ」、つまりそのとき布村が存在する場所を、「そのまま」克明に書いている。
「そのまま」が「ここにある」を発見するまでの過程が書かれていて、私は、詩は「ここ」でおわってもいいなあ、と思った。私なら「ここ」でおえるだろうと思うのだが、布村は私ではないので、当然、違ったことを書く。
このあと、当然なことながら、本屋を出て「そのまま」歩き続ける。
細い長い道がみえる
坂だ
そこへ向かう
細い長い道に向かう
細い長い道に向かって歩いていると
大きな風景があらわれる
高い広い大きな風景に向かって
歩く
ここに「そのまま」は補えるか。もちろん、補ってもいい。しかし、なんなとく「そのまま」を補いたくない。
本屋で発見した「ここ」が「そこ」に変わったときから、「そのまま」も変わってしまったのだ。「歩く」と書いているが、「そのまま」歩くのではなく、「向かって」歩く。大きく変わったわけではなく、少し意識が変わっただけであり、布村は、日が暮れればやっぱり家へ帰るだろうが、その途中で、ふいに「高く」「広い」「大きな」を見つけ、その瞬間に「向かう」が鮮明になる。
短く、どうでもいいような(?)詩だが、そのどうでもいいことが、とてもいい。この詩は贅沢だ。二篇にわけて書くことができるのに、一篇に統合し、何か正反対とでも言うべきものを、分離できない「ひとつ」にしている。
最終連の「高い広い大きな風景」が特に気に入りました。
上り坂を登っていくときに、頂上の向こうに広がる風景の描写としては、素晴らしく的を得ており、共感できます。
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