ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」(★★★★★)
監督 ビリー・ワイルダー 出演 ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム
過去の名声を生きるグロリア・スワンソンの演技がすばらしいのはもちろんだが、私はウィリアム・ホールデンと脚本家を夢見る若い女性のやりとりに興味を持った。
若い女性は、ウィリアム・ホールデンの書いた脚本の一部をほめる。「人間が描かれている云々」。そして、そこから二人で脚本を手直しして、新しい作品をつくろうとする。そこでは「ことば」でしか説明されていないのだけれど、新しい映画、ビリー・ワイルダーがほんとうにつくりたかった映画が説明されていると思った。
先週見た「情婦」では、「結末は話さないでください」という字幕が最後に出る。しかし、映画はストーリーではないのだから「結末」がわかっていてもいい、と私は考えている。そして、そのことを「情婦」の感想にも書いたが、ビリー・ワイルダーもストーリーよりもほかのものを描きたいのではないのか。
映画なのだから、もちろんストーリーはある。けれど、ストーリーではなく、そのときどきの人間のあり方、人間そのものを描きたいのだと思う。
この映画では、売れない脚本家がかつての大スターの家に迷い込み、大スターが若い男に夢中になり、という恋愛(?)悲劇がストーリーとしてあるのだが、まあ、これは冒頭の射殺体でストーリーが見る前からわかっている。ここでは「結論」は先に知らせておいて、途中をじっくり見せるという手法がとられている。(ね、ストーリー、結論は関係ないでしょ?)
で、人間を描く--とき、もちろんグロリア・スワンソンが「主役」になるのだけれど、主役がどれだけ演技をしても映画にはならないときがある。特に、この映画のように過去の映画を生きる狂気を描いたものは、どうしたって強烈な演技がスクリーンを支配してましって、迫真に迫れば迫るほど嘘っぽくなるという逆効果も生まれがちである。
そうならないようにするためには、周囲のほんの小さな人物をていねいに描くことが大切である。一瞬登場するだけの人物にも「過去」を明確にあたえ、そこにほんものの時間を噴出させるということが大切である。
この映画は、そこがとてもよく描かれている。
たとえば、グロリア・スワンソンがウィリアム・ホールデンに服をあつらえてやるシーン。店員がコートを2枚持ってくる。ウィリアム・ホールデンは安い方のコートを選ぶのだが、店員は「高い方にしなさい。お金を払うのはあなたではなく、女なのだから」と耳打ちする。あ、すごいねえ。店員は単に高いものを売れば利益が上がるからそう言っているのではないのだ。そういう金のつかい方をする「人種」がいることを知っていて、そのことをウィリアム・ホールデンに教えているのだ。店員の教えには、店員が客と向き合うことでつかみとった「真実」がある。ほんとうのことが、そこでは演じられているのである。
グロリア・スワンソンが撮影所を訪れたとき、昔からいる照明係が彼女の名前を呼んで、ライトを当てる。それにスワンソンが応じる。その瞬間に、過去があざやかによみがえる。その過去にはスワンソンだけがいるのではなく、照明係も生きている。名もない「脇役」が狂っている大女優の「現実」を支えている。
これは--どういえばいいのだろうか。狂っているのは大女優だけではないということである。大女優の狂気は、彼女をとりまくすべての人の狂気であるということだ。テーラーの店員も照明係もまた大女優と同じような「狂気」をどこかに隠している。それは、いまは見えないだけなのである。大女優がいるから、見えないだけなのである。
そこで、最初に書いたことに戻るのだが……。
映画がおもしろいのは、そこに人間がリアルに描かれているときである。たとえそれが大女優ではなく教師であっても、その人が生きている姿そのままに描かれれば、そこから映画がはじまる。--それは、脚本家を夢見ている若い女性そのもののことでもある。この映画では売れなくなった大女優が主役を演じているが、脚本家志望の若い女性が主人公であってもいいのだ。彼女から始めるストーリーがあってもいいのだ。
大女優の狂気を描きながら、つまり映画の過去を描きながら、この映画は逆に映画の未来をも描いている。なんでもない市民が主人公になり、なんでもない日常が描かれる。そこに生きる人間の「生きる」姿がそのまま描かれる--そういう映画を目指している人間が、この映画のなかに、すでに描かれている。
ビリー・ワイルダーは映画の予言者でもあるのだ。
監督 ビリー・ワイルダー 出演 ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム
過去の名声を生きるグロリア・スワンソンの演技がすばらしいのはもちろんだが、私はウィリアム・ホールデンと脚本家を夢見る若い女性のやりとりに興味を持った。
若い女性は、ウィリアム・ホールデンの書いた脚本の一部をほめる。「人間が描かれている云々」。そして、そこから二人で脚本を手直しして、新しい作品をつくろうとする。そこでは「ことば」でしか説明されていないのだけれど、新しい映画、ビリー・ワイルダーがほんとうにつくりたかった映画が説明されていると思った。
先週見た「情婦」では、「結末は話さないでください」という字幕が最後に出る。しかし、映画はストーリーではないのだから「結末」がわかっていてもいい、と私は考えている。そして、そのことを「情婦」の感想にも書いたが、ビリー・ワイルダーもストーリーよりもほかのものを描きたいのではないのか。
映画なのだから、もちろんストーリーはある。けれど、ストーリーではなく、そのときどきの人間のあり方、人間そのものを描きたいのだと思う。
この映画では、売れない脚本家がかつての大スターの家に迷い込み、大スターが若い男に夢中になり、という恋愛(?)悲劇がストーリーとしてあるのだが、まあ、これは冒頭の射殺体でストーリーが見る前からわかっている。ここでは「結論」は先に知らせておいて、途中をじっくり見せるという手法がとられている。(ね、ストーリー、結論は関係ないでしょ?)
で、人間を描く--とき、もちろんグロリア・スワンソンが「主役」になるのだけれど、主役がどれだけ演技をしても映画にはならないときがある。特に、この映画のように過去の映画を生きる狂気を描いたものは、どうしたって強烈な演技がスクリーンを支配してましって、迫真に迫れば迫るほど嘘っぽくなるという逆効果も生まれがちである。
そうならないようにするためには、周囲のほんの小さな人物をていねいに描くことが大切である。一瞬登場するだけの人物にも「過去」を明確にあたえ、そこにほんものの時間を噴出させるということが大切である。
この映画は、そこがとてもよく描かれている。
たとえば、グロリア・スワンソンがウィリアム・ホールデンに服をあつらえてやるシーン。店員がコートを2枚持ってくる。ウィリアム・ホールデンは安い方のコートを選ぶのだが、店員は「高い方にしなさい。お金を払うのはあなたではなく、女なのだから」と耳打ちする。あ、すごいねえ。店員は単に高いものを売れば利益が上がるからそう言っているのではないのだ。そういう金のつかい方をする「人種」がいることを知っていて、そのことをウィリアム・ホールデンに教えているのだ。店員の教えには、店員が客と向き合うことでつかみとった「真実」がある。ほんとうのことが、そこでは演じられているのである。
グロリア・スワンソンが撮影所を訪れたとき、昔からいる照明係が彼女の名前を呼んで、ライトを当てる。それにスワンソンが応じる。その瞬間に、過去があざやかによみがえる。その過去にはスワンソンだけがいるのではなく、照明係も生きている。名もない「脇役」が狂っている大女優の「現実」を支えている。
これは--どういえばいいのだろうか。狂っているのは大女優だけではないということである。大女優の狂気は、彼女をとりまくすべての人の狂気であるということだ。テーラーの店員も照明係もまた大女優と同じような「狂気」をどこかに隠している。それは、いまは見えないだけなのである。大女優がいるから、見えないだけなのである。
そこで、最初に書いたことに戻るのだが……。
映画がおもしろいのは、そこに人間がリアルに描かれているときである。たとえそれが大女優ではなく教師であっても、その人が生きている姿そのままに描かれれば、そこから映画がはじまる。--それは、脚本家を夢見ている若い女性そのもののことでもある。この映画では売れなくなった大女優が主役を演じているが、脚本家志望の若い女性が主人公であってもいいのだ。彼女から始めるストーリーがあってもいいのだ。
大女優の狂気を描きながら、つまり映画の過去を描きながら、この映画は逆に映画の未来をも描いている。なんでもない市民が主人公になり、なんでもない日常が描かれる。そこに生きる人間の「生きる」姿がそのまま描かれる--そういう映画を目指している人間が、この映画のなかに、すでに描かれている。
ビリー・ワイルダーは映画の予言者でもあるのだ。
サンセット大通り スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン |