中神英子『夢に見し木の名前を知らず』(栗売屋、2017年07月01日発行)
中神英子『夢に見し木の名前を知らず』を読み始めてすぐ不思議なことばの「手触り」を感じた。どことは言えないのだが、こんなふうには書かないなあ、と感じる。
「ように/ような」というのは「直喩」の方法。特に変わった書き方ではないのだが、ここで私は何となく不思議な気持ちになる。「暗喩」の方になれているので「ように/ような」がまだるっこしく感じるのかもしれない。ことばのスピードが落ち、もったりした感じになるといえばいいのか。「暗喩」にしてしまえば、スピードがあがるのに、と思ってしまう。
で、詩集のタイトルになっている「夢に見し木の名前を知らず」まで読み進んで、私は「あっ」と声を上げる。
「沼」の部分には「ような」がない。そのために、全体が「象徴詩」のように暗示的に見える。
「のはら」では一転して「ような」がつづけざまに登場する。そして「ような」ということばのために、詩が「象徴詩」にならずにすんでいる。
この印象は間違いかもしれないが、私は、そう「誤読」する。
そして、この「象徴詩」の拒否というか、何か「意味」になることを拒否するために「ように/ような」がつかわれていると気づく。
「ような/ように」は直喩。「比喩」なのだが、何かの「比喩」というよりも、比喩にならずに、「もの」そのものをことばのなかに取り込んでいる。詩にぶっつけている、という感じなのだ。
「比喩」を通して何かを言いたいのではなく、「比喩」として書いているものそのものを書きたいのだ。
「角砂糖の(が)溶ける」「火の玉」そのものを書きたい。「雨」そのものを見えるようにしたい。「白いレース」そのものを描きたい。
「比喩」だから、もちろん、こういうとらえ方は間違っている。「誤読」である。しかし、私にはそう感じられる。
「何か」が書きたくて「比喩」を書いているのではなく、「比喩」が生まれてくる瞬間、その「比喩」が指し示すものがあらわれ、同時にそのものを否定し、なおかつそのものに戻って現実と向き合うという感じ。
うーん、うまく言えないが。
交番の赤い門灯。それは「火の玉」ではない。しかし「火の玉」として目の前にあらわれ、「火の玉」であることを否定して「門灯」になるのだが、門灯の「比喩」になった瞬間、もう一度「火の玉」として現実にあらわれてくる。
そういう奇妙な交錯を感じる。
「暗喩」では重なってしまうものが、重なりながら、重なることを拒んで、ずれるというか、自己主張してしまう。
うーん。
唸りながら、読む。そして「花」という詩の、次の部分。
「比喩」は何かを指し示す。それは何か「そのものではない」。「そうではない」がその「そのものではない」と重なる。それでは
この「何」と「言っちゃいけない」という組み合わせ。
ここに中神の書いている「ように/ような」という「比喩」の「秘密」がある。
「何か」なのだけれど「言ってはいけない」。そのために「比喩」がある。だから「比喩」は「何か」を否定し続ける。「何か」を指し示しながら「何か」を否定し、違うものになりつづける。
これは、とてもおもしろい問題だ。
簡単に答えは出せないのだが、この「ような/ように」の「比喩」を考えるとき、次のことばが参考になる。「象」のなかに出てくる。
これは「直喩」ではなく、一行全体が「暗喩」である。
そして、この行にであった瞬間、私は、これを次のように読み替えたい衝動にとらわれる。
もう存在していない。けれど、その存在していないものが「生まれ変わって」、いまここにある。それが中神の「直喩」なのだ、と私は「誤読」する。
それは「生まれ変わる」ことによってはじまる「対話」なのだ。
そう思った瞬間、また別の何かが私を突き動かす。何かが私を襲ってくる。
この詩集には丸山瓢(ひさご)の短歌が引用されている。
「夢に見し木の名前を知らず」の「沼」はその短歌ではないのだが、あの「沼」のように何か他のことばと向き合い、向き合うことで刺激を与えるような形で引用されている。(具体的に説明するには全体を引用しないといけないので省略する。)
さっき書いた「言い換え」を利用すると、
ということになる。
その短歌は中神の死んだ父の作品ということなので、それを踏まえると、
ということになるかもしれない。
かなり乱暴な、端折りすぎた言い方なのだが、そんなことも考えた。
そして、とてもおもしろいと感じた。
ことばがことばと対話して、対話することでことばが「もの」に還っていくような、不思議な「手触り」がある。
これは、すごい詩集だなあ。
あれやこれやの「哲学用語」などはどこにも出て来ないのだが、真剣に哲学している。その真剣があふれている。
栗売社の詩集は小ぶり。この詩集も手から少しはみ出るくらいの大きさで、それもなんといえばいいのか、自分の「肉体」だけで支える「哲学」という感じがして、とても好ましい。とてもうれしい。
こんなふうに、うれしくなる詩集というのは、傑作ということだと思う。
中神英子『夢に見し木の名前を知らず』を読み始めてすぐ不思議なことばの「手触り」を感じた。どことは言えないのだが、こんなふうには書かないなあ、と感じる。
長い時間が角砂糖の溶けるように消えた (「野のもの」)
火の玉のような赤い赤い門燈を目印にして (「交番」)
「ように/ような」というのは「直喩」の方法。特に変わった書き方ではないのだが、ここで私は何となく不思議な気持ちになる。「暗喩」の方になれているので「ように/ような」がまだるっこしく感じるのかもしれない。ことばのスピードが落ち、もったりした感じになるといえばいいのか。「暗喩」にしてしまえば、スピードがあがるのに、と思ってしまう。
で、詩集のタイトルになっている「夢に見し木の名前を知らず」まで読み進んで、私は「あっ」と声を上げる。
沼
夜になると輝き始める
小さな沼があった
月光に照らされた白い花を
無数に咲かせた木が映っている
のはら
雨のようなものが降り注ぐのはらで
あのひとに出会った
うっすらと紡げば白いレースになるようなもの
さわさわと降り注ぐ
「沼」の部分には「ような」がない。そのために、全体が「象徴詩」のように暗示的に見える。
「のはら」では一転して「ような」がつづけざまに登場する。そして「ような」ということばのために、詩が「象徴詩」にならずにすんでいる。
この印象は間違いかもしれないが、私は、そう「誤読」する。
そして、この「象徴詩」の拒否というか、何か「意味」になることを拒否するために「ように/ような」がつかわれていると気づく。
「ような/ように」は直喩。「比喩」なのだが、何かの「比喩」というよりも、比喩にならずに、「もの」そのものをことばのなかに取り込んでいる。詩にぶっつけている、という感じなのだ。
「比喩」を通して何かを言いたいのではなく、「比喩」として書いているものそのものを書きたいのだ。
「角砂糖の(が)溶ける」「火の玉」そのものを書きたい。「雨」そのものを見えるようにしたい。「白いレース」そのものを描きたい。
「比喩」だから、もちろん、こういうとらえ方は間違っている。「誤読」である。しかし、私にはそう感じられる。
「何か」が書きたくて「比喩」を書いているのではなく、「比喩」が生まれてくる瞬間、その「比喩」が指し示すものがあらわれ、同時にそのものを否定し、なおかつそのものに戻って現実と向き合うという感じ。
うーん、うまく言えないが。
交番の赤い門灯。それは「火の玉」ではない。しかし「火の玉」として目の前にあらわれ、「火の玉」であることを否定して「門灯」になるのだが、門灯の「比喩」になった瞬間、もう一度「火の玉」として現実にあらわれてくる。
そういう奇妙な交錯を感じる。
「暗喩」では重なってしまうものが、重なりながら、重なることを拒んで、ずれるというか、自己主張してしまう。
うーん。
唸りながら、読む。そして「花」という詩の、次の部分。
それは花なの?
確かに花だけれど
(そうではない)と言い張る自分がいて
それは正しいと思えるのだ
「誰かにもらったの?」
子供はやっとかすかに頷いた
「それは何?」
「言っちゃいけないっていわれたの」
「比喩」は何かを指し示す。それは何か「そのものではない」。「そうではない」がその「そのものではない」と重なる。それでは
「それは何?」
「言っちゃいけないっていわれたの」
この「何」と「言っちゃいけない」という組み合わせ。
ここに中神の書いている「ように/ような」という「比喩」の「秘密」がある。
「何か」なのだけれど「言ってはいけない」。そのために「比喩」がある。だから「比喩」は「何か」を否定し続ける。「何か」を指し示しながら「何か」を否定し、違うものになりつづける。
これは、とてもおもしろい問題だ。
簡単に答えは出せないのだが、この「ような/ように」の「比喩」を考えるとき、次のことばが参考になる。「象」のなかに出てくる。
「この風景はどこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」
これは「直喩」ではなく、一行全体が「暗喩」である。
そして、この行にであった瞬間、私は、これを次のように読み替えたい衝動にとらわれる。
「のように、のようなという直喩は、どこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」
もう存在していない。けれど、その存在していないものが「生まれ変わって」、いまここにある。それが中神の「直喩」なのだ、と私は「誤読」する。
それは「生まれ変わる」ことによってはじまる「対話」なのだ。
そう思った瞬間、また別の何かが私を突き動かす。何かが私を襲ってくる。
この詩集には丸山瓢(ひさご)の短歌が引用されている。
「夢に見し木の名前を知らず」の「沼」はその短歌ではないのだが、あの「沼」のように何か他のことばと向き合い、向き合うことで刺激を与えるような形で引用されている。(具体的に説明するには全体を引用しないといけないので省略する。)
さっき書いた「言い換え」を利用すると、
「引用される短歌は、どこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」
ということになる。
その短歌は中神の死んだ父の作品ということなので、それを踏まえると、
「中神の詩は、どこか遠くで壊れてしまったものの(死んでしまった父、彼が残した短歌の)生まれ変わりなのです」
ということになるかもしれない。
かなり乱暴な、端折りすぎた言い方なのだが、そんなことも考えた。
そして、とてもおもしろいと感じた。
ことばがことばと対話して、対話することでことばが「もの」に還っていくような、不思議な「手触り」がある。
これは、すごい詩集だなあ。
あれやこれやの「哲学用語」などはどこにも出て来ないのだが、真剣に哲学している。その真剣があふれている。
栗売社の詩集は小ぶり。この詩集も手から少しはみ出るくらいの大きさで、それもなんといえばいいのか、自分の「肉体」だけで支える「哲学」という感じがして、とても好ましい。とてもうれしい。
こんなふうに、うれしくなる詩集というのは、傑作ということだと思う。
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