詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年08月09日(日曜日)

2020-08-09 11:43:44 | 考える日記
森鴎外『阿部一族』(鴎外選集 第四巻)(岩波書店、1979年02月22日発行)

 『伊沢蘭軒』に疲れたので、なじみのある「阿部一族」で一休み。
 私は、この小説の中では、犬の殉死の部分がとても好きだ。おもしろい。ほかの部分は忘れても、この部分だけは忘れることができない。鴎外自身も、「津崎五郎の事蹟は際立つて面白いから別に書くことにする」(182ページ)と断った上で書いている。いまなら、これだけを書いて「短篇小説」にするひとがいるかもしれない。
 その「逸話」のおもしろさとは別にして、やはり、鴎外はおもしろい。
 「阿部一族」というタイトルなのだけれど、なかなか「阿部一族」が出てこない。「細川忠利」の病気からはじまり、急死。そのあと多くの武士が殉死する。その殉死シリーズのなかに、先に書いた犬の殉死や、酒が好きな男が、最後に好きな酒をいつもより多く飲んだために昼寝をしてしまう。目がさめたら腹が減っているので家族でお茶漬けを食う。それから切腹するというような、いったい、何を書いているんだろう。落語なのか、と思うようなこともある。
 で、その「細部」がおもしろいのはもちろんなのだが。
 いつもいつもおもしろいと思うのは、鴎外の文章がどこへ向かって動いているか、さっぱりわからないことである。この小説でも「阿部一族」が出てくるのは190ページからである。はじまってから20ページも過ぎている。全体は37ページだから半分を過ぎてからである。「構成」バランスから言えば、何をもたもたと書いているのだ、ということになるが、そんな気持ちがぜんぜん起きない。
 「事実」が書かれる。そして、その「事実」を鴎外がどう感じたかが、「事実」を踏まえながら書かれる。犬の殉死を「おもしろい」と感じたと書くように、事実と鴎外の思いが一体になって動く。
 175ページでは「長十郎」の「心理」に踏み込んで、こんなことを書いている。

此男の心中に立ち入つて見ると、自分の発意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の傍、ひとが自分を殉死する筈のものだと思つていゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくさせられてゐると、人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持が、殆ど同じ強さで存在してゐた。

 こう書かれると、そう思えてくる。鴎外自身の想像にすぎないのに、想像に思えなくなる。
 散文は「事実」を積み重ね、それに自分の思い(感想)を重ねる。それがどこまで動いていくかは、書いている人間にもわからない。ただ「思い」を動かし、その動きをことばにするものなのだ。思い(ことば)を動かすために「事実」というものがあるだけであり、その「事実」は何であってもいいのである。
 犬の殉死も長十郎の殉死も同じというと、かなり問題を含むけれど、ことばが動く(ことばを動かす力になる)という意味では同じなのだ。そういうことを、「かのやうに」の112ページでは、こんな具合に説明している。(と、私は、強引に「文脈」を無視して引用するのだが。)

事実だと云つても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂ふ湊合が加はつてゐる。意識せずに詩にしてゐる。嘘になってゐる。

 「事実」を積み重ねるといっても、そこには「選択」が入り、また語る順序も関係してくるから、それはすでに「事実」ではなく、「感想(思い/思想)」なのである。そうなのだけれど、鴎外は、その「思い/思想」の「到達点(結論)」をあらかじめ用意して書き始めているというよりも、書けるだけ書いてしまえばいいという感じでことばを動かしているように、私には感じられる。「思想」は到達点にあるではなく、ことはの動きにあるのだ。
 「国語」をその国の到達した思想の頂点というようなことを言ったのは、三木清だったかなあ。でも、その「思想の頂点」というのは「結論」ではなく、ことばが動いている「正直さ」のなかにある、と私は思う。
 人間はだれでも、そのひと個人の「意味」を生きているからね。
 で。
 やっぱり「先生」と呼べるのは「鴎外先生だけかなあ」と、会ったこともない鴎外のことを思うのである。






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