詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(15)

2010-10-20 20:48:45 | 志賀直哉
「末っ児」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 最後の部分がおもしろい。こどもに傘を持っていけと志賀直哉は言った。けれど、末っ子は持っていこうとしなかった。

私は急に腹を立て、呼びもどし、持つてゐる竹箒で背中を二三度、強く叩いてやつた。K子は一寸涙ぐみ、黙つて傘を持つて出かけて行つた。然し相にくな事に其日は曇つたままで、夕方K子が帰つて来るまで、遂に雨は降らなかつた。

 私は「急に」腹を立て、がいかにも志賀直哉らしい。それよりも、「然し相にくな事に」がさらにおもしろい。「あいにく」は、こんなふうにつかうだろうか。ふつうは、逆だろう。雨を予想せずに傘を持っていかなかった。しかし、あいにく雨が降ってしまって、濡れてしまった。
 志賀直哉がつかっている「相にく」は、ほんらいなくていいことばである。「相にくな事に」を省略して、「然し其日は曇つたままで、夕方K子が帰つて来るまで、遂に雨は降らなかつた。」の方が「学校教科書(文法)」の日本語になる。しかし、志賀直哉は、そこに「相にくな事に」を入れたかった。使いたかった。
 なぜだろう。
 「あいにく」がだれにとって、「あいにく」なのかが関係してくる。その「あいにく」は末っ子K子にとってではない。
 「あいにく」と感じているのは志賀直哉なのである。こどもを殴ってまで傘を持たせた。必ず雨が降ると言って傘を持たせた。腹を立てて自分の考えを押し通してしまったが、その通りにはならなかった。そのことをこどもから問い詰められると、志賀直哉には返すことばがない。
 それ以前に、末っ子が、いささかこましゃくれた物言いで志賀直哉たちをとっちめているだけに、きっとそういう反撃があったに違いないのだ。けれど、そういう実際の「反撃」を書かずに「あいにく」だけで暗示させている。
 この「暗示」がおもしろいのだ。
 書いてしまうと、それはそれで末っ子の面目躍如ということになるかもしれないかもしれないけれど、そこに書かれることはきっと想像の範囲を出ない。「お父さんは雨が降ると言ったのに、降らなかったじゃない」というようなことにきまっている。もし、デパートで優遇されたときのように、あるいは映画を見に行くときのような、「特別」なことばを末っ子が言ったのだとしたら、それはそれで、しっかり描写されているはずである。そういうありきたりは省略し、「あいにく」とだけ書き、末っ子のおもしろい部分を浮き彫りにする。そのことによって、書かれている「世界」が凝縮したまま完結する。
 書かないことによって、短くなるのではなく、書かないことによって、「世界」の描写そのものが充実し、長くなる。「長編」になる。そういう「仕組み」(仕掛け)が、「相にくな事に」という短いことばの中にある。




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志賀 直哉
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