詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(11)

2010-07-22 12:10:05 | 志賀直哉

「灰色の月」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 山手線でのスケッチ。人間描写が、厳しい。

 地(じ)の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭で継(つぎ)が当ててある。後前(うしろまえ)に被つた戦闘帽の廂の下の汚れた細い首筋が淋しかつた。

 志賀直哉は徹底的に「視力」のひとだと思う。目で見たものを「事実」と考えるのである。そして見たものを書いたあと、そこから「淋しかつた」というような感覚を躊躇せずに引き出す。このスピードが独特だと思う。とても速い。そして、その速さのために、それまで視力がとらえてきたものも、ぱっと洗い流される。「よごれた」ということばさえ、不思議と「よごれ」が広がらない。どんなに汚い(?)ものを書いても、それが汚さとしてあふれてこない。
 不思議な文体の力だと思う。

 次の部分は、このスケッチのなかでいちばん不思議なところである。

 少年工は身体を起こし、窓外(そと)を見ようとしたとき、重心を失ひ、いきなり、私に倚りかかつて来た。それは不意だつたが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思ふのだが、其時は殆ど反射的に倚りかかつて来た少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切つた動作で、自分でも驚いたが、その倚りかかられた時の少年工の身体の抵抗が余りに少なかつた事で一層気の毒な想ひをした。

 少年工の体が寄り掛かるように倒れてきた。それを思わず肩ではね返した。それは自分の意思に反していた。なぜなんだろう。そういう一種の「反省」を正直に書いているのだが、三つの文章のなかに、3回「倚りかか(る)」ということばが出てくる。簡潔な文章、「小説の神様」といわれる志賀直哉にしては、志賀直哉らしからぬといいたくなるような文章である。
 けれど、この繰り返しによって、少年と志賀直哉の肉体が何度も何度も接触する。あ、志賀直哉は、この接触をなんとか正確に書こうとして、その「正確」を探しているのだ、ということがわかる。
 志賀直哉は、目にみえるものを「事実」として正確に書くと同時に、自分のこころから「間違いのない感情」を引き出そうとしているのだ。

気の毒な想ひ

 倒れてきた少年を、肉体がかってにはね返してしまった。それは「気の毒なことをした」--志賀は、「気の毒」というこばをさぐりあてることで、やっと落ち着くのである。そのとき、自分自身のしたことを、やはり清潔に洗い清めるのである。
 「気の毒」を、志賀直哉は、しかし目立たない形(感情だけが目立つ形)にはしない。そっと「事実」のなかに返していく。このことばの運動も、とても美しい。
 先の引用した三つの文につづいて、次のようにことばが動いていく。

私の体重は今、十三貫二三百匁に減つてゐるが、少年工のそれはそれよりも遥かに軽かつた。

 ここには「倚りかか(る)」はない。

私の体重は今、十三貫二三百匁に減つてゐるが、「倚りかかつて来た」少年工のそれはそれよりも遥かに軽かつた。

 と書くこともできるし、実際、そういう意味なのだが、ここでは「倚りかか(る)」を省略する。そうすると、そこから少年工の不作法(?)が消え、志賀直哉の「気の毒」がより鮮明になる。
 そんなふうにして、志賀直哉は、少年が寄り掛かってきた「事実」を消し、志賀直哉が少年をはね返したという「事実」に書き換え、「気の毒」を体重で強調する。「気の毒」が志賀直哉の反省であると同時に、読者が納得できる形にする。

 こういう文章を読むと、たしかに志賀直哉は「神様」かもしれないと思う。

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)
志賀 直哉
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