「奇人脱哉」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)
彫刻師・渡邉脱哉のことを書いた作品である。「人間がぬけてゐるから」というところからつけられた号だという。いろいろな話が出てくるが、最初の方に書かれている「盆栽」に対する志賀直哉の批評がおもしろい。
何(いづ)れも取るに足らぬ駄物ばかりであつた。唯、本統に愛翫してゐた為め、世話が行き届き、苔など、青々と、しつかりついてゐるのには好感が持てた。
「本統に愛翫してゐた為め」ということばがあたたかい。この一文はなくても意味は通じる。さらにいえば、この「本統に愛翫してゐた為め」の「本統に」も、「意味」上はいらないことばである。けれども、志賀直哉は書く。ここに志賀直哉の「思想」(肉体)があらわれている。特に、「本統」ということばに。
志賀直哉は「本統」しか書かない。
「本統」ということば(表記)を私は知らなかった。志賀直哉以外にだれかつかっているかどうかも知らない。しらないからいいかげんなことを書いてしまうのだが、この「本統」という表記の仕方は、志賀の「思想」そのものをあらわしているかもしれない。
「本統」の「統」は「統一」の「統」である。すべてをまとめる。その「本」というのだから、ものごとの「中心」、あるいは「はじまり」かもしれない。すべてを最初から最後まで統一していく力を指して、志賀直哉は「本統」をつかっている。
「本統」というのはかるい表現ではなく、志賀直哉が心底共感したもの、志賀直哉が共有しても自分が困らないものに対して向けられたことばなのだ。
ここでは、何かを愛玩するという気持ち、大切にするという気持ちを評価して「本統」と読んでいる。それはまっすぐに動いていく。だから、世話が行き届く。「本統」でなかったら、その「世話」は行き届かない。どこかでねじれて、水が涸れるように涸れてしまう。
それはときに「我流」という流れになることもあるが、「我流」というのも「本統」である。独自のこころの「源」であり、そういう「源」から流れてくるものを志賀直哉は高く評価する「おもしろい」と感じている。
風呂で石鹸をつかわないという脱哉の主張を紹介した部分がある。
人体から脂が出るといふのは健康に必要ガアルから出るので、それをシャボンで落して了しまふのは無謀な事で、例へば鰻でも、ヌラを去(と)ると、弱つて了ふ。人間の脂は鰻でいえばヌラと同じものなのだという理屈である。
その意見に賛成というののではない。ただ、そんなふうに「本統」に考えるのは、おもしろい。そこにはまちがった論理の流れがない。一直線に流れていく「勢い」がある。
こういう「本統」の「勢い」を「肉体」のなかにもっている人、そしてそれを生活のなかにまっすぐに実現するひと--そういうひとは「忘れる事の出来ない人」になる。そして、その「本統」の流れは、ときどき、志賀直哉たちの話題のなかに、ふっと噴き出してくる。脱哉とともに。
小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤講談社このアイテムの詳細を見る |