「自転車」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)
志賀直哉は「不快感」について敏感である。何度も出てくる。
小説は「ペテン」ということばをめぐる気持ちを追いつづける。そこに志賀直哉の正直が出てくるのだが、「ペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り」の、「聞いた瞬間」、「いやにはつきり解り」が、とても志賀直哉らしいと思う。「いやに」が特に志賀直哉をあらわしていると思う。
「いやに」は「非常に、妙に、変に」というような意味なのだろうけれど、志賀直哉の「いやに」は「否に」と書いてしまいたいようなところがある。はっきりと解りたくはない、けれどはっきり解ってしまった。そこには何か自分のなかにあるものを否定する動きがある。自分のなかにあるものを否定することが「不快」の感覚を強める。
それは窯揚うどんを「不味い」と感じた不快感に通じる。「不味い」と感じ、それを不快に感じるのは、「おいしい」という期待が裏切られたからだろう。自分のなかにあった「おいしい」という期待が否定されたのである。
金を受け取ったときの「不快」と比較するとまた違ったものが見える。志賀直哉はそのときの不快の前に「何か妙な」というたとばをつかっている。「いやな」と「何か妙な」は違うのだ。「ペテン」ということばの意味は「何か妙な(に)」感じで「はつきり解」ったのではなく、あくまで「いやに」なのである。
何が違うのか。
「物を売つたといふ経験がなかつた」ということと、「ペテンといふ言葉を知らなかつた」の違いがある。「経験」と「言葉」の違いがある。
「経験」はなくても、志賀直哉は「売る」ということばは知っており、また、その実際を知っている。経験がなくても知っているということは、志賀直哉の「肉体」のなかに「売る」ということに関する具体的なイメージがある。「売る」という行為は対象化できている。
一方、「ペテン」ということばは知らない。だから対象化できていない。対象化できていないものが「肉体」のなかへ直接飛びこんできた。だから、志賀直哉はそれを全力で否定しようとしている。そのときの「否定」の気持ちが「いやな=否な」ということばを誘い出しているのだ。
「ペテン」ということばが、志賀直哉の「肉体」のなかに入り、志賀直哉のなかにあるものを暴き出す。それは志賀直哉が否定されることである。その「ことば」と「肉体のなかにあるもの」の相互関係を、その運動を予感してしまう--それが「はつきり解り」ということかもしれない。
ここに直接ではないが「経験」が出てくる。「良心に頬被りをしてゐた」という経験はだれにでもあるだろう。それを志賀直哉もしたことがある。何かを「頬被りで、忘れて了はうとした」こともだれにでもあるだろう。それは志賀直哉にもある。
「ペテン」ということばは知らないが、ペテンであるかどうかは別にして、何かに対して頬被りをしたり、その何かを忘れてしまおうとした「経験」がある。
そういう「経験」が、いま、ここであばかれている。(抽象的にではあるけれど。)
ことばが「対象化」されていないものを暴き出し、対象化する。そうすることで、ことばがより正確にことばになる。--そういうことを予感して、「いやに」ということばをつかっているのだ。「いやに」ということばを頼りに、そういう対象化へと志賀直哉は無意識に進んでいるのである。
「不快」からさらに進んで「堪へられない」というところまで気持ちが動くのは、そういう暴き出しと対象化が必然として予感できたからであろう。
志賀直哉は「不快感」について敏感である。何度も出てくる。
最後に何か今まで食つた事のないものを食はうと、窯揚うどんを取り、不味いものだと思つた記憶がある。
(278 ページ)
それまでは物を売つたといふ経験がなかつたから、金を受取つた時、何か妙な不快(ふくわい)な感じがした。
(280 ページ)
或日、私は森田から萩原の主人が私に「うまくペテンにかけられた」と云つてゐたといふ事を聞かされた。私はそれまでペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り、急に堪へられない気持になつた。
(281 ページ)
小説は「ペテン」ということばをめぐる気持ちを追いつづける。そこに志賀直哉の正直が出てくるのだが、「ペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り」の、「聞いた瞬間」、「いやにはつきり解り」が、とても志賀直哉らしいと思う。「いやに」が特に志賀直哉をあらわしていると思う。
「いやに」は「非常に、妙に、変に」というような意味なのだろうけれど、志賀直哉の「いやに」は「否に」と書いてしまいたいようなところがある。はっきりと解りたくはない、けれどはっきり解ってしまった。そこには何か自分のなかにあるものを否定する動きがある。自分のなかにあるものを否定することが「不快」の感覚を強める。
それは窯揚うどんを「不味い」と感じた不快感に通じる。「不味い」と感じ、それを不快に感じるのは、「おいしい」という期待が裏切られたからだろう。自分のなかにあった「おいしい」という期待が否定されたのである。
金を受け取ったときの「不快」と比較するとまた違ったものが見える。志賀直哉はそのときの不快の前に「何か妙な」というたとばをつかっている。「いやな」と「何か妙な」は違うのだ。「ペテン」ということばの意味は「何か妙な(に)」感じで「はつきり解」ったのではなく、あくまで「いやに」なのである。
何が違うのか。
「物を売つたといふ経験がなかつた」ということと、「ペテンといふ言葉を知らなかつた」の違いがある。「経験」と「言葉」の違いがある。
「経験」はなくても、志賀直哉は「売る」ということばは知っており、また、その実際を知っている。経験がなくても知っているということは、志賀直哉の「肉体」のなかに「売る」ということに関する具体的なイメージがある。「売る」という行為は対象化できている。
一方、「ペテン」ということばは知らない。だから対象化できていない。対象化できていないものが「肉体」のなかへ直接飛びこんできた。だから、志賀直哉はそれを全力で否定しようとしている。そのときの「否定」の気持ちが「いやな=否な」ということばを誘い出しているのだ。
「ペテン」ということばが、志賀直哉の「肉体」のなかに入り、志賀直哉のなかにあるものを暴き出す。それは志賀直哉が否定されることである。その「ことば」と「肉体のなかにあるもの」の相互関係を、その運動を予感してしまう--それが「はつきり解り」ということかもしれない。
ペテンというのはそれを計画的にしたといふ意味なのだから、その言葉だけを取つて云へば、萩原は誤解してゐるのだが、誤解されるのは腹の立つ事である筈なのだが、私は森田から聴いた時、不快(ふくわい)で堪へられぬ気持にはなつたが、萩原に対し、原を立てる事は出来なかつた。私は良心に頬被りをしてゐたのだ。ランブラーを買ふ事にした、その時とそれ程感じなかつたとしても、直ぐ、気付いて、頬被りで、忘れて了はうとしたゐたのである。
(282 ページ)
ここに直接ではないが「経験」が出てくる。「良心に頬被りをしてゐた」という経験はだれにでもあるだろう。それを志賀直哉もしたことがある。何かを「頬被りで、忘れて了はうとした」こともだれにでもあるだろう。それは志賀直哉にもある。
「ペテン」ということばは知らないが、ペテンであるかどうかは別にして、何かに対して頬被りをしたり、その何かを忘れてしまおうとした「経験」がある。
そういう「経験」が、いま、ここであばかれている。(抽象的にではあるけれど。)
ことばが「対象化」されていないものを暴き出し、対象化する。そうすることで、ことばがより正確にことばになる。--そういうことを予感して、「いやに」ということばをつかっているのだ。「いやに」ということばを頼りに、そういう対象化へと志賀直哉は無意識に進んでいるのである。
「不快」からさらに進んで「堪へられない」というところまで気持ちが動くのは、そういう暴き出しと対象化が必然として予感できたからであろう。
志賀直哉〈下〉 (新潮文庫) | |
阿川 弘之 | |
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