三角みづ紀『はこいり』(思潮社、2010年10月25日発行)
三角みづ紀『はこいり』は、世界に対して自己を閉ざした詩集である。--と、簡単に言ってしまってはいけないのだろうけれど……。
ただ、自己を閉ざす、世界から自己を切り離すといっても、なかなかむずかしい。
私は網膜剥離で手術を受けた経験がある。そのとき友人が、こんなことをいった。「ヘレン・ケラーが、もし、目と耳と口のどちらかが回復するならと問われたとき、なんと答えたと思う?」。私は即座に「耳」と答えた。私は失明するかもしれないと不安だったにもかかわらず、耳が聞こえないと困るなあと思った。友人が「ヘレン・ケラーも耳と答えている」。
私は音痴だし、ふつうの会話でも最初の音(ことばの初めの音、冒頭の音)が聞き取れないことが多い。それでも私は耳で聞かないことにはことばを理解できない。音を聞かないと意味を理解できない。
耳というのは、目、口と違って自分では閉ざすことができない(手を使えば別だが)。それは、無意識のうちに何かを聞き取る--ということも関係しているかもしれない。無意識のうちに理解しているものを、ことばでもういちど確認し直す--それが、ことばなのかなあ、とふと思ったのだ。
と、長い前置きになったが。
「百舌」。この詩に私はとても親近感を覚えた。
まなざしを捨てた、朝
これは、男と大喧嘩(鏡が割れるほどの喧嘩--あるいは鏡に肉体の変化が映るほどの喧嘩)をしたあと、ひとりでシャワーをあびている様子かもしれない。目を閉じて、何も見ないと決めている。そうすると、湯気の音が聞こえる。それは遠い汽笛、記憶の汽笛の音と重なり、三角を「いま」「ここ」から「過去」の「どこか」へ連れていく。
耳は--音は、三角を救ってくれる大切な肉体である。
一方、耳は残酷でもある。
「おなじ声」。三角は「おなじことば」ではなく「おなじ声」と書いている。「ことば」ではなく、「声」に「意味」を感じているのだ。「ことば」にも意味があるが、「音」にも意味があり、それを感じているのだ。その意味は、ことばでは言い表すことができない。そして、その言い表せない意味が、「おなじ」ということ、その繰り返しのなかで、「十年」と「三ヶ月」を重ね、隔たりをなくしてしまう。「十年」と「三ヶ月」は違うものなのに「おなじ」になってしまう。
また、耳は不思議な能力を持っている。
耳は「花を活けるときには/くきをななめに切りなさい」という「声」を聞きながら、同時に「むやみに/花なんて咲かせてたまるか」という「声」を聞いている。「花を……」は生け花の先生の声、「むやみに……」は三角自身の声であるだろう。違ったものを同時に、聞こえるものと聞こえないもの(実際には声には出されなかったもの)を同時にとらえてしまう。
それは、たとえば「十年なんてあっていうまだったね」という「おなじ」ことばを発しながらも、そこに「別の声」が存在することをも意味しないだろうか。三角は「おなじ声で」と書いていたが、それは「違う声」である可能性もあったのだ。
「声」のなかには、意味ではなく、意味を超えたもの、色合いがある。感情がある。「おなじ声」とは「おなじ感情」、おなじいらだち、おなじあきらめ--そいういう三角を苦しめる何かであるのかもしれない。
耳はひとつの「音」(声)を聞きながら、常に、それを何かと比較しているのかもしれない。自分のなかにある何か、肉体のなかにある何かと比較しながら、自己と他者の間の距離を計っているのかもしれない。その距離には「十年」「三ヶ月」のように時間もあれば、「花を活ける」「花なんか咲かせてたまるか」という意識の距離もある。
そういう測定を無意識におこない、自己と他者の関係をみつめなおす。耳にはそういうことができるが、目は--よくわからないが、たぶん、そういうことはできない。目の受け取る情報が多すぎるのかもしれない。耳の方が集中できるのかもしれない。耳の方が「関係」を把握しやすく、そして、またその「関係」を自己の「肉体」のなかに隠したまま、他者と接することができる--そういうことができるのかもしれない。自分の中の「声」を聞くのは自分だけであり、他人には聞こえない。他者の声と自分の声、その音を比較しながら、自分のなかで独自に「距離」をつくることができる。そういうことをするためにも、耳は絶対必要なのだ。
ここには「むやみに/花なんてさかせてたまるか」という「声」とはまた別の「自分の中の声」がある。耳は、他者と自分の声を同時に聞くだけではなく、また、自分のなかの声にもいくつもの声があることを同時に知り、同時にそれを聞くのである。
耳は、そういう自分のなかにある「別の声」を遮断することもできない。これは自分の外部の声(音)なら手で耳をふさげば聞こえなくすることができるのとは対照的である。そのことを知っているというのは、三角にとって、強みであり、また苦しみである。耳を選び取ったものの悲しみであり、美しさでもある。
うまく比較できないが(うまく説明できないが)、この耳と、三角の目(視力)を次の詩で比較できるかもしれない。「まちがいさがし」。
耳はひとつの音を聞きながら「おなじ音」を聞くことも、違った「声」を聞くこともできる。けれど、目は、いまそこにある「色」しか見ることができない。
もちろん信号の「赤」を見ながらトマトの赤を見ることができる人もいるだろうけれど、三角は「たちのぼる湯気」の音のなかに「汽笛」をきいたような具合には、「赤信号」のなかに「トマト」を見ることはできない。
視力(目)では、関係をつくれない--肉体のなかに、納得できる関係を抱え込めないということが、ここから推測できる。「百舌」のなかで「鏡が割れる」と視力(目)に密接な鏡の破壊が描かれているのは、それがある意味では不幸ではなく、三角にとっては救いだからである。鏡が割れたからこそ、三角は耳により集中できたのだ。集中した結果、「たちのぼる湯気」と「汽笛」の「音」を「おなじ音」として肉体のなかに取り込み、そこに「記憶」を、記憶が抱え込む「人間関係の距離」を抱きしめることができた。でも、いまは、目が信号の「赤」をみつめているので、それができない。
耳は三角を落ち着かせ、安定させる。「花なんて咲かせてたまるか」「もっと生きればいい」というような一見矛盾しているようなことでさえ、肉体のなかで「納得」できるものになる。けれど、目は、そういう「納得」となって肉体のなかには広がらない。
このひとことは、とても切実である。
ひとは、耳、目、口のどちらかを選択して生きるというようなことはできないのである。耳も目も口も生きなければならない。
三角みづ紀『はこいり』は、世界に対して自己を閉ざした詩集である。--と、簡単に言ってしまってはいけないのだろうけれど……。
ただ、自己を閉ざす、世界から自己を切り離すといっても、なかなかむずかしい。
私は網膜剥離で手術を受けた経験がある。そのとき友人が、こんなことをいった。「ヘレン・ケラーが、もし、目と耳と口のどちらかが回復するならと問われたとき、なんと答えたと思う?」。私は即座に「耳」と答えた。私は失明するかもしれないと不安だったにもかかわらず、耳が聞こえないと困るなあと思った。友人が「ヘレン・ケラーも耳と答えている」。
私は音痴だし、ふつうの会話でも最初の音(ことばの初めの音、冒頭の音)が聞き取れないことが多い。それでも私は耳で聞かないことにはことばを理解できない。音を聞かないと意味を理解できない。
耳というのは、目、口と違って自分では閉ざすことができない(手を使えば別だが)。それは、無意識のうちに何かを聞き取る--ということも関係しているかもしれない。無意識のうちに理解しているものを、ことばでもういちど確認し直す--それが、ことばなのかなあ、とふと思ったのだ。
と、長い前置きになったが。
「百舌」。この詩に私はとても親近感を覚えた。
まなざしを捨てた、朝
浴室の鏡が割れる
ほどの戦争のあと
耳だけがのこった
きこえるものは
汽笛と、
たちのぼる湯気
これは、男と大喧嘩(鏡が割れるほどの喧嘩--あるいは鏡に肉体の変化が映るほどの喧嘩)をしたあと、ひとりでシャワーをあびている様子かもしれない。目を閉じて、何も見ないと決めている。そうすると、湯気の音が聞こえる。それは遠い汽笛、記憶の汽笛の音と重なり、三角を「いま」「ここ」から「過去」の「どこか」へ連れていく。
耳は--音は、三角を救ってくれる大切な肉体である。
一方、耳は残酷でもある。
「十年なんてあっというまだったね」
おとこは
三ヶ月前とおなじ声で
つぶやいた
確かに
この十年は三ヶ月の速度で
ながれた
「おなじ声」。三角は「おなじことば」ではなく「おなじ声」と書いている。「ことば」ではなく、「声」に「意味」を感じているのだ。「ことば」にも意味があるが、「音」にも意味があり、それを感じているのだ。その意味は、ことばでは言い表すことができない。そして、その言い表せない意味が、「おなじ」ということ、その繰り返しのなかで、「十年」と「三ヶ月」を重ね、隔たりをなくしてしまう。「十年」と「三ヶ月」は違うものなのに「おなじ」になってしまう。
また、耳は不思議な能力を持っている。
花を活けるときには
くきをななめに切りなさい
枝を切るときには
断絶なさい
むやみに
花なんて咲かせてたまるか
のこされた耳は
ききのがさずに
耳は「花を活けるときには/くきをななめに切りなさい」という「声」を聞きながら、同時に「むやみに/花なんて咲かせてたまるか」という「声」を聞いている。「花を……」は生け花の先生の声、「むやみに……」は三角自身の声であるだろう。違ったものを同時に、聞こえるものと聞こえないもの(実際には声には出されなかったもの)を同時にとらえてしまう。
それは、たとえば「十年なんてあっていうまだったね」という「おなじ」ことばを発しながらも、そこに「別の声」が存在することをも意味しないだろうか。三角は「おなじ声で」と書いていたが、それは「違う声」である可能性もあったのだ。
「声」のなかには、意味ではなく、意味を超えたもの、色合いがある。感情がある。「おなじ声」とは「おなじ感情」、おなじいらだち、おなじあきらめ--そいういう三角を苦しめる何かであるのかもしれない。
耳はひとつの「音」(声)を聞きながら、常に、それを何かと比較しているのかもしれない。自分のなかにある何か、肉体のなかにある何かと比較しながら、自己と他者の間の距離を計っているのかもしれない。その距離には「十年」「三ヶ月」のように時間もあれば、「花を活ける」「花なんか咲かせてたまるか」という意識の距離もある。
そういう測定を無意識におこない、自己と他者の関係をみつめなおす。耳にはそういうことができるが、目は--よくわからないが、たぶん、そういうことはできない。目の受け取る情報が多すぎるのかもしれない。耳の方が集中できるのかもしれない。耳の方が「関係」を把握しやすく、そして、またその「関係」を自己の「肉体」のなかに隠したまま、他者と接することができる--そういうことができるのかもしれない。自分の中の「声」を聞くのは自分だけであり、他人には聞こえない。他者の声と自分の声、その音を比較しながら、自分のなかで独自に「距離」をつくることができる。そういうことをするためにも、耳は絶対必要なのだ。
耳元で
たちのぼる湯気の
おとがして
わたしなんて
もっと生きればいい
ここには「むやみに/花なんてさかせてたまるか」という「声」とはまた別の「自分の中の声」がある。耳は、他者と自分の声を同時に聞くだけではなく、また、自分のなかの声にもいくつもの声があることを同時に知り、同時にそれを聞くのである。
耳は、そういう自分のなかにある「別の声」を遮断することもできない。これは自分の外部の声(音)なら手で耳をふさげば聞こえなくすることができるのとは対照的である。そのことを知っているというのは、三角にとって、強みであり、また苦しみである。耳を選び取ったものの悲しみであり、美しさでもある。
うまく比較できないが(うまく説明できないが)、この耳と、三角の目(視力)を次の詩で比較できるかもしれない。「まちがいさがし」。
信号の点滅。
赤だったら
赤だったら赤だったら
赤だったらなあ!
赤だったらよかったのになあ!
赤だったらなあ!
赤だったら赤だったら
赤
耳はひとつの音を聞きながら「おなじ音」を聞くことも、違った「声」を聞くこともできる。けれど、目は、いまそこにある「色」しか見ることができない。
もちろん信号の「赤」を見ながらトマトの赤を見ることができる人もいるだろうけれど、三角は「たちのぼる湯気」の音のなかに「汽笛」をきいたような具合には、「赤信号」のなかに「トマト」を見ることはできない。
視力(目)では、関係をつくれない--肉体のなかに、納得できる関係を抱え込めないということが、ここから推測できる。「百舌」のなかで「鏡が割れる」と視力(目)に密接な鏡の破壊が描かれているのは、それがある意味では不幸ではなく、三角にとっては救いだからである。鏡が割れたからこそ、三角は耳により集中できたのだ。集中した結果、「たちのぼる湯気」と「汽笛」の「音」を「おなじ音」として肉体のなかに取り込み、そこに「記憶」を、記憶が抱え込む「人間関係の距離」を抱きしめることができた。でも、いまは、目が信号の「赤」をみつめているので、それができない。
わたしたちには
理由があります
わたしたちにはそれぞれ
事情があります
こわい
耳は三角を落ち着かせ、安定させる。「花なんて咲かせてたまるか」「もっと生きればいい」というような一見矛盾しているようなことでさえ、肉体のなかで「納得」できるものになる。けれど、目は、そういう「納得」となって肉体のなかには広がらない。
こわい
このひとことは、とても切実である。
ひとは、耳、目、口のどちらかを選択して生きるというようなことはできないのである。耳も目も口も生きなければならない。
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