田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(2)(思潮社、2014年03月30日発行)
きのう、「夢のなかの木」を読みながら、私は「夢の中で 私は」という行を後半の連の真ん中にはさみ、前後を向き合わせて「対句」を強調した。「私」を中心にして前半の2行と後半の2行が向き合う。前半の2行と後半の2行は真ん中の「私」の「夢の中」で出会う。そういう構造がふっと思い浮かんだ。
「対句」でない場合でも、その構造(精神の運動の形式)は同じなのではないか。
「春」という作品。
「何かに……させ」という行がつづく。途中に「……し」ということばがあり、最後は「人間が芝生の衣裳を纏うようにする」と「……する」で終わるのだけれど、基本形は「……させ」である。使役の文であるから「主語」が必要だ。「春は」ということばが冒頭に省略されている。隠されている。
そして、このときの「春は」は世界の中心にある。春は「乳房に輪郭を描かせ」たあと、いったん、最初にいた春の位置にもどる。そしてそこから風の方向に向かい、風を緑に染める。それがおわるとまた最初の位置にもどり、少女の細い腰をくねらせにゆく。
「春」を円の中心と考えてみると、田原の世界がよくわかる。中心から乳房へ、いったん戻って中心から風へ、また戻って次は少女の腰へ。乳房、風、腰に関連はあるかもしれないが、そこにストーリーを考えるよりも、ストーリーを破壊して、いったん中心に戻って出直すという運動の方が田原の自在なイメージにあっている。
円の中心に戻って、そこで爆発する。円の円周にまでいって、そこで掴んだものを中心に持ち帰り、そこで爆発させる。そうすると乳房が風になる。風の緑が少女の細い腰になる。そういう運動がある。
円は平面であることをやめて、立体に、つまり球になり、世界が完成するのかもしれない。
そして、それが完成したとき、この詩の「対句」は中心の「春」を置くことですべての行に「対句」であるということになる。1行目2行目が「対句」であると当然として、1行目と3行目、あるいは1行目と7行目、1行目と13行目も「対句」なのだ。
「アンダンテ・カンタビーレ」は数行の連で構成されている。
「対句」に見えないけれど、「対句」である。1連目と2連目で「朝」ということばが向き合い、「樹(樹木)」ということばが向き合い、「曙」と「太陽」が向き合い、「水」と「しぶき」が向き合う。
その「中心」にあるのは何だろう。1連目と2連目では「朝」ということばを仮の主語にすることができるかもしれない。しかし、そのあとを読んでいくと「朝」を主語としつづけることは少し難しい。
「私(田原)」を「主語(円・球の中心)」と考えると、イメージの展開、イメージの「対句」がすばやくおこなわれる。楽しくなる。「私」という中心へ戻ってはまた円(球)のいちばん遠いところまでことばを爆発させる。
この3連目は性愛(セックス)を連想させる。1、2連目の「朝」から「夜」への時間が逆戻りしているような、奇妙な錯覚に襲われるが(セックスの後に朝が来たのに、朝からセックスをした夜へと時間が逆戻りしているように感じられるが、これは「時間」を過去から未来へ流れるものととらえる「流通概念」に私がしばられているせいだろう。
田原は朝が来たから朝を描写し、夜を思い出したから夜を描写する。「私」を中心にして、そのとき「朝」と「夜」は「対句」になる。それは「物語」にはならない。「時間」を必要としない。物語の中では「こと」は時間にそって動き、その動きがまた「時間」になるのだが、詩では「時間」は「線」を描かない。円・球になって、すべてをそのなかに取り込む。「時間」は動かず、「時間」の内部で「こと」が向き合いながら濃密になってゆく。
これは、この詩の何連目か。何連目であってもいい。「対句」なのだから。すべては中心につながり、その瞬間瞬間、別々の方向に解き放たれることばなのだから。この4行自体のなかにも「対句」が動いている。
私とあなた、朝(曙)と夜、星(天)と漁火(海/地上)が向き合っているが、この「対」の中心に「私」がいる。
で、そうすると「私とあなた」という「対」は、正確には「私-中心の私-あなた」という具合になるのだが、これは田原にとっては、書かれてしまった「私」というのはイメージであるということを意味する。私はあなたとセックスをする。私の指があなたの性器に触れる。そうするとあなたの性器が潤う(満潮のように濡れてくる)という「ことば」が「中心の私」から出てきて、円周の「あなた」と向き合う(対になる)「私(ことばとしての私)」になる。
田原の詩を読んでいると、ときどきイメージが多すぎるという感じがしてしまうが、これは、この「中心の私」と「円周の私(イメージの私)」という二つの私が交錯するからかもしれない。--これは私の「感覚の意見」であって、明確に語ろうとすると難しくて言えない。まあ、メモみたいなものだが……。
ここで「俳句」の感覚を持ち出すと、「ずるい」ごまかしになるだが……。
俳句では、「中心の私」「円周の私」ということばの向き合い方はない。「中心の私」は同時に「円周の私」である。ただし、そのとき俳句は「円周」とはいうものの、そこには周辺はない。かわりに「遠心」というものがある。「中心の私」は「求心」という。「遠心・求心」は二つが合体することで存在し、別個には存在しない。「対句」のようにものが向き合うのではなく、俳句では世界が「融合」してしまう。自他の区別はなくなり、溶け合って、「無」になってしまう。
私は俳句を勉強したことはないが、たぶん俳句の感覚というのは日本のあちこちに根付いていて、その感覚からみると、田原の「対句」はイメージとしてにぎやかすぎるという感じになるのだろう。
きのう、「夢のなかの木」を読みながら、私は「夢の中で 私は」という行を後半の連の真ん中にはさみ、前後を向き合わせて「対句」を強調した。「私」を中心にして前半の2行と後半の2行が向き合う。前半の2行と後半の2行は真ん中の「私」の「夢の中」で出会う。そういう構造がふっと思い浮かんだ。
「対句」でない場合でも、その構造(精神の運動の形式)は同じなのではないか。
「春」という作品。
乳房に輪郭を描かせ
風を緑に染め
少女の細い腰をくねらせ
屋根の上の煙突を沈黙させ
替え刃のように木の葉に陽射しを切り裂かせ
一匹の昆虫を私の左目で溺死させ
井戸に映った雲を女に汲ませ
雪だるまが溶ける野原の草を茂らせ
森に自らの木の香が漂う音楽を奏でさせ
年輪に樹木の生長を忘れさせ
「何かに……させ」という行がつづく。途中に「……し」ということばがあり、最後は「人間が芝生の衣裳を纏うようにする」と「……する」で終わるのだけれど、基本形は「……させ」である。使役の文であるから「主語」が必要だ。「春は」ということばが冒頭に省略されている。隠されている。
そして、このときの「春は」は世界の中心にある。春は「乳房に輪郭を描かせ」たあと、いったん、最初にいた春の位置にもどる。そしてそこから風の方向に向かい、風を緑に染める。それがおわるとまた最初の位置にもどり、少女の細い腰をくねらせにゆく。
「春」を円の中心と考えてみると、田原の世界がよくわかる。中心から乳房へ、いったん戻って中心から風へ、また戻って次は少女の腰へ。乳房、風、腰に関連はあるかもしれないが、そこにストーリーを考えるよりも、ストーリーを破壊して、いったん中心に戻って出直すという運動の方が田原の自在なイメージにあっている。
円の中心に戻って、そこで爆発する。円の円周にまでいって、そこで掴んだものを中心に持ち帰り、そこで爆発させる。そうすると乳房が風になる。風の緑が少女の細い腰になる。そういう運動がある。
円は平面であることをやめて、立体に、つまり球になり、世界が完成するのかもしれない。
そして、それが完成したとき、この詩の「対句」は中心の「春」を置くことですべての行に「対句」であるということになる。1行目2行目が「対句」であると当然として、1行目と3行目、あるいは1行目と7行目、1行目と13行目も「対句」なのだ。
「アンダンテ・カンタビーレ」は数行の連で構成されている。
あなたの顔が浮かんだ朝は 太陽が昇ってくると
消えてゆく 目に輝いていた曙は黄ばむ
門前の樹木は一晩のうちに家の高さを超え
千里の外の川は水嵩を増して帆影と船歌を水浸しにする
朝 見えない年輪は音盤のように
樹の芯で鳴り響く 鷲は人骨を銜えて
太陽へと火葬しにいく 木の股に作られた鳥の巣は
失火する 室内のほら貝の標本から
大きな波音がしぶきを上げる
「対句」に見えないけれど、「対句」である。1連目と2連目で「朝」ということばが向き合い、「樹(樹木)」ということばが向き合い、「曙」と「太陽」が向き合い、「水」と「しぶき」が向き合う。
その「中心」にあるのは何だろう。1連目と2連目では「朝」ということばを仮の主語にすることができるかもしれない。しかし、そのあとを読んでいくと「朝」を主語としつづけることは少し難しい。
「私(田原)」を「主語(円・球の中心)」と考えると、イメージの展開、イメージの「対句」がすばやくおこなわれる。楽しくなる。「私」という中心へ戻ってはまた円(球)のいちばん遠いところまでことばを爆発させる。
満潮になった
私の指はあなたの生命の香りに濡れ
私の夜はあなたの丘の間に沈む
鳥の声が山の脊骨を曲げ あなたを囁かせ
二つの季節にわたって栄えてきた草を枯死させる
この3連目は性愛(セックス)を連想させる。1、2連目の「朝」から「夜」への時間が逆戻りしているような、奇妙な錯覚に襲われるが(セックスの後に朝が来たのに、朝からセックスをした夜へと時間が逆戻りしているように感じられるが、これは「時間」を過去から未来へ流れるものととらえる「流通概念」に私がしばられているせいだろう。
田原は朝が来たから朝を描写し、夜を思い出したから夜を描写する。「私」を中心にして、そのとき「朝」と「夜」は「対句」になる。それは「物語」にはならない。「時間」を必要としない。物語の中では「こと」は時間にそって動き、その動きがまた「時間」になるのだが、詩では「時間」は「線」を描かない。円・球になって、すべてをそのなかに取り込む。「時間」は動かず、「時間」の内部で「こと」が向き合いながら濃密になってゆく。
私はあなたの黎明で夜を懐かしむ
露の玉とうすい霧が陽射しに拾われたまま黄昏へ抛られるように
夜であるあなたは私の黎明に到着するのを渇望する
星々と漁火が暗闇を燃やし尽くそうとするように
これは、この詩の何連目か。何連目であってもいい。「対句」なのだから。すべては中心につながり、その瞬間瞬間、別々の方向に解き放たれることばなのだから。この4行自体のなかにも「対句」が動いている。
私とあなた、朝(曙)と夜、星(天)と漁火(海/地上)が向き合っているが、この「対」の中心に「私」がいる。
で、そうすると「私とあなた」という「対」は、正確には「私-中心の私-あなた」という具合になるのだが、これは田原にとっては、書かれてしまった「私」というのはイメージであるということを意味する。私はあなたとセックスをする。私の指があなたの性器に触れる。そうするとあなたの性器が潤う(満潮のように濡れてくる)という「ことば」が「中心の私」から出てきて、円周の「あなた」と向き合う(対になる)「私(ことばとしての私)」になる。
田原の詩を読んでいると、ときどきイメージが多すぎるという感じがしてしまうが、これは、この「中心の私」と「円周の私(イメージの私)」という二つの私が交錯するからかもしれない。--これは私の「感覚の意見」であって、明確に語ろうとすると難しくて言えない。まあ、メモみたいなものだが……。
ここで「俳句」の感覚を持ち出すと、「ずるい」ごまかしになるだが……。
俳句では、「中心の私」「円周の私」ということばの向き合い方はない。「中心の私」は同時に「円周の私」である。ただし、そのとき俳句は「円周」とはいうものの、そこには周辺はない。かわりに「遠心」というものがある。「中心の私」は「求心」という。「遠心・求心」は二つが合体することで存在し、別個には存在しない。「対句」のようにものが向き合うのではなく、俳句では世界が「融合」してしまう。自他の区別はなくなり、溶け合って、「無」になってしまう。
私は俳句を勉強したことはないが、たぶん俳句の感覚というのは日本のあちこちに根付いていて、その感覚からみると、田原の「対句」はイメージとしてにぎやかすぎるという感じになるのだろう。
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